幕間1
(薄明竜視点)
「また、明日もよろしくね」
ハルカが手を振り、自室へと向かっていく。
扉に手をかけたその瞬間、ふたたびこちらへと笑顔を向けた。
パタン。
先ほどまでの騒がしさが嘘のように静まり返る。
まさか、あの“聖女”の部屋の扉が開く日が来ようとは。
一息つく間もなく、耳の奥で金属を打ち鳴らすような音が響き始めた。
喰いしばって相殺を試みるが、同時に身体の奥から軋むような痛みが広がっていく。
「……チッ。維持できない、か」
椅子を壊す前に立ち上がり、距離をとった。
彼女が、互いに座って話せるように、と用意したモノは、今まで触れたことのない温かさがあった。
ゆえに、せっかくハルカからもらったものを、自らの巨体で潰したくはなかった。
「……フッ」
人間から贈られた物を壊したくない、そんなふうに思う日が来るとは思ってもみなかった。
散々、破壊の限りを尽くしてきたはずなのに、今さら椅子ひとつで気を遣うとは、あまりも“らしく”ない。
だが、彼女の好意を無駄にするのは、どうにも気が引けた。
それを言うならば、魔法の契約など、なおさらだ。
人間とは愚かで、弱く、蹂躙されるべき存在だと信じていた。
それなのに、あの人間――ハルカだけは、違っていた。
畏怖は感じていたように思えるが、決して、逃げ出すことはなかった。
ただ静かに傍らに座り、俺に声をかけ、微笑んだ。
最初は、哀れみかと疑った。
檻に囚われ、足枷で力を封じられた竜に対して、『聖女』と呼ばれる存在が慈悲を施そうとしているのではと。
その驕っているような態度に、吐き気すら覚えた。
けれど、それは違った。
杞憂であり、勘違いだった。
魔力の片鱗すら感じられない、異世界から召喚された、ただの人間。
その無力さゆえに、多数の書から解決策を探ろうとしてたが、意味がないと何故わからんのか。
結局、泣き出す始末で、赤子となんら変わりない。
足を踏み出すたび、皮膚が鱗へと変わり、手足が太くなっていくのが分かる。
ズシリと重くなる身体の変化に、己の圧倒的な力を感じた。
──枷が外れた夜。
なぜ、自分が人の姿になれたのか。明確な理由は、まだ分からない。
魔法による擬態は可能だが、あの時、自分の意志でそうなったわけではなかった。
ただ、自然と声が出て、腕が伸びた。
彼女に触れたいと思ったが、刹那、思いとどまった自分に驚いた。
だが、涙がこぼれ落ちるのを見過ごすことはできなかった。
柔らかな頬にそっと触れたとき、濡れているはずなのに、確かに熱が伝わった。
より激しく泣き出す彼女を見て、ふと──人間が幼子をあやすように、頭を撫でようと思った。
(小さな頭だ。慎重に扱ったほうがいい)
なぜ、そんな考えがよぎったのか、自分でも分からない。
ただ、あのときの彼女の泣き笑いは、今も胸に焼きついている。
*
あの女が、この枷をつけたとき、何と言っていたか。
『……なったら、外れるようにしたわ』
マルタエルの毅然とした声が、耳に蘇る。
彼女は極めて稀な存在だった。
常人離れした魔力量と、術式構築の技量。
両方を備え、俺をこの塔に封じた、唯一の“本物”の聖女。
それでも、あの女は“人間”だ。
俺が守護竜として存在し続ける以上は、マルタエルに代わる者が必要だった。
だが、彼女に匹敵する者は現れず。恐怖に駆られて逃げ出すか、卒倒する女が大半だった。
ゆえに、あれ以降の聖女たちは、すべて名ばかりの――「お飾り」にすぎない。
だからこそ、異世界から“呼び寄せ”ようとしたのだろう。
彼女が残した魔術から、言語機能だけ付与する方法を編み出して、意思疎通だけでも取らせようとした。
だが、それもまた無理な話。
どんな人間でも同じだ。
ましてや、今のこの国に戦火の兆しもない。
俺の力など、必要とされていないということだ。
そうして塔で朽ちていく。
それが当然の帰結だと思っていた。
もう二度と、翼を広げることはない――と。
*
あの晩、ハルカが部屋に戻ったあと、俺は窓を抜けて、塔の外を目指した。
もしかしたら、自由になれるのかもしれないと、淡い期待が胸に宿ったからだ。
だが、人の姿は保てず、再び竜へと変じてしまった。
外へ出ることは叶わず、重い身体を地に伏せるしかなかった。
ギシギシと骨が軋み、皮膚は鱗に覆われていく。
爪は鋭く伸び、口内には獣の牙が並ぶ。
魔力は、足りていた。
むしろ今は、幽閉前と同じ水準に戻っている。
それなのに──なぜ、自分の意志で人の姿を保てない?
マルタエルが塔に仕掛けた術なのか、それとも別の要因なのか。
理由が定かではないところが歯がゆく、苛立ちを覚える。
「……ッ……クッ……!」
不意にハルカの笑顔が脳裏をよぎった。
この姿では──彼女を傷つけてしまう。
その瞬間、竜に戻る速度がとどまったような気がした。
あれほど人を殺してきたというのに。
今になって、こうも愚かしく、弱くなったものだと。
完全に竜に戻り、己の分厚い鱗と鋭く尖った爪の暴力性に、かすれた笑いが漏れる。
彼女と同じ“人間の腕”とは程遠く、柔和さを微塵も感じさせない。
それは、もはや竜としての誇りではなく、ひとりの存在としての、痛切な自嘲だった。




