第5話:pazzle
(ほんとにココだ)
心臓がどきどきしすぎて、胸と喉元の両方で拍動している気がする。なぜか、頭にこびりついたはずの音楽は、今に限っては頭から抜けていた。かすかに車の音。風の音も聞こえるんじゃないかと思うほど、辺りは静かだった。関節がギシギシいってる気がする。要は、本当にとても緊張しているのだった。
なぜなら、今、チャイムを鳴らそうとしているその家は、いつもピアノの音が聞こえるまさにその家だったからだ。
(だからってこんなに緊張しなくてもいいと思うんだけど……)
生ぬるい風が吹き抜ける。
機械になったような気分で、えいや、っとチャイムを鳴らす。清水の舞台から飛び降りる、とはこのことを言うんじゃないだろうか、と思えるほどの勇気を持って。
「ピンポーン」
こだまのように、チャイムの音が転がっていった。
「はーい」
チャイムの音に呼応するように、高い声が聞こえた。高いことは高いが、なんとなく、期待していた声よりも低い気がした。
ドアが開いた向こうから覗くのは、恰幅のいい女性だった。食事の支度をしていたのか、美味しそうな匂いがドアの向こうからむわっとでてきた。
「こっ。あのっ。オレ、小林さんにプリントを……」
「あら。こんにちは。未來にもってきてくれたのかしら?」
「はっ、はいっ」
まるで何かを懺悔させられているかのような気分だった。さしずめこの女性はマリア様だろうか?
「いらっしゃい」
ごく自然に招かれてしまって驚いた。
(マジかよ…)
白目をむきたい気分で、軽く一礼してそうっとフローリングの床の上に上がった。靴もきちんと綺麗に揃える。
ガラス戸になってるドアをくぐると、さらに美味しそうな匂いが濃密になった。料理のことはよくわからないが、煮物なんかを作っている時の匂いと同じように感じる。
落ち着いた色合いの部屋で、ソファがあったのでなんとなくそっちへ近寄る。
まさか座る度胸もなく所在なげにしていると、すぐに未來の母親とおぼしき女性はコップを持ってきた。
「お水だけでごめんなさいね。今ね、おはぎ持ってくるから」
「おかまっ…い、な……」
おかまいなく、と言いたかったが、普段言い慣れない言葉なのでうまく言うのに失敗した。
そのことをあまり気にした風でもなく、女性はタンタン、と小気味よい音を立てて去っていった。
こくりと唾を飲み込んで、その場に座った。ソファに座るよりも、それが一番正しいような気がしたのだ。
透明な液体を一口飲むと、まわりをちょっと見渡す。3枚ほど絵があると思ったら、ジグソーパズルのようだった。しかも結構大きい。2000ピースほどあるのではないだろうか。
「掃除、あとでしようと思ってたのよ」
言い訳のように言いながら、女性がおはぎを持ってきた。こぶりのおはぎが綺麗に並べられていた。
ほんとに自分はここにいてもいいのだろうか、と今更ながらあきらは思った。
「ありがとうございます」
「未來、いればよかったんだけど、今はちょっといないの」
「でかけてるんですか?」
立ち入ったことかもしれないと思いつつ、聞き返した。
「そうね。でかけてるわ」
女性はちょっと不思議な言い回しをした。
「本当にごめんなさいね。せっかく来てくれたのに」
「いえ」
社交辞令じみた会話を交わしておはぎを食べた。あっさりとした素朴な味が美味しかった。手作りだろうか。ジグソーパズルは未來の趣味らしいことがわかった。あきらの家にも大きなジグソーパズルがあって、なんとなく、そんな共通点が嬉しかった。嬉しいと思って、まるで恋愛でもしてるみたいな心の動きに、なんとなく照れた。
「あ、それじゃ。帰ります」
おはぎを食べてる間ずっと未來の母は向かいにいて、そのまま見てられるのも居心地が悪かったのであきらはすぐに腰を浮かせた。
「なんのおかまいもできなくてごめんなさいね。未來、帰ってこなかったわね」
「いえ、いいです。プリント届けに来ただけなので」
「そう」
元来た道を戻って靴を履いた。
じゃ、とドアノブに力をこめたら――勝手に開いた。
(うあっ、と)
長髪の女の子のアップがいきなり目に飛び込んできて、驚いた。
ストレートの髪の毛を無造作に下ろして、ゆったりした空色のワンピースを着た女の子が、くりくりの目をすごく大きくさせてこちらを見つめていた。
「あら。未來。こちらの人、わざわざ来てくださったのよ。お礼言いなさい」
未來はそれを聞いて、軽く息をのむと、ものすごい勢いで後ろを向いて一直線に走り出した。
「ま…っ!」
反射的に、あきらも走った。
「待った! ちょ…っ!」
角を曲がる所で勢いを落とさないようにして走って、彼女の進行方向に割り込むようにして体を滑らせた。
まさかドラマみたいに手をつかむのも躊躇われたので、体で止める。最近運動らしい運動もせずにいたことを後悔する反面、意外に動きの速かった彼女にびっくりもした。不登校っていう言葉だけで、もうちょっと動きの遅いイメージを作り上げていたのだ。
「あのさ、ピアノ、うまいね」
「えっ」
透明感のある声だった。まるで虚を突かれたように、またこぼれそうなほど大きな目をした。
「ほら、よく、聞こえるから。朝。誰が弾いてるんだろう、っていつも思ってたんだ」
うつむいてしまった。
まるでこっちがいじめてるみたいで嫌だったので、慌ててフォローするように続けた。
「オレ、ピアノとかあんまり聞かないんだけどさ。でも、いいよね。なんか」
――すてきだね、とは恥ずかしくて言えなくて、語尾を濁した。
この際、なんでもいいから何か言って欲しい。
強烈に恥ずかしくなってきた。追いかけて。まるでほんとに、
(恋とかじゃないからな)
たぶん。まだ。
「じゃ、ね」
もっと話していたかったけど、何を話していいのかわからなかったから仕方なく一方的に打ち切って背中を向けた。
と、消えそうな声がした。
「…うして」
「なに?」
「…どうしてそんな風に…ピアノの話なんて…」
「どうしてって?」
「噂、流れてるんでしょう? 私の」
「あ…万引き…とか?」
またうつむいてしまった。悪いことを言ったのかな? でも、噂といえばそれくらいしか思いつかない。
言ってしまった言葉を、ちょっと軽率だったと後悔したが遅かった。
彼女は、今度こそ一目散に駆けていってしまった。




