68:【日本・東京】
「病院の中であれば歩いてもらってかまいません。心臓の手術のあとですから気をつけてね」
そのように、あらゆる看護師や医者から声をかけられた。
火野川龍。──奇跡的な復活だとして、今や、東京の病院内で話題の人である。
龍は病院服ではなく、個人的な服装を認められた。
そんなの着るなんて久しぶりでしょう、というなぐさめるような声に、心の中のオーメンが、(もーっとおしゃれですごくて個性的な服を着こなしていたんだぜ!)とカラカラ笑った。
歩くときは手すりを持って。
言われたとおりに動いてくれる優秀な患者は、病院内であたたかく見守られている。
「あら、お兄さん、どこか悪くしちゃったの?」
「いいえ。むしろ、長く入院していたところが良くなったんですよ」
「あんまり上手に歩くもんだから……へえ、運動神経がいいのかしらねえ」
「そんなことはないんですよ」
車椅子のおばあさんに感心されてしまい、龍は困ったように照れたように返事をした。
そう見えるくらい、龍の歩き方は極めて器用そうであった。
足を前に踏み出すリズム、まるで、子供が遊ぶように軽やかだ。
背中は長年ベッド生活をしていたとも思えないくらいシャンと伸びていて、前に進んでゆくことに怯えがない。
(そりゃあ、あのサーカスの綱渡りにだって挑戦したリュウには怖いモノなしさ)
(キミ、けっこう喋るよね。まるでボクのイマジナリーフレンドだ)
(おっと。生身のフレンドもきたぜ!)
「サカイ。アカネ」
階段を上がって3回の突き当たり、大きな窓のそばの休憩室。
そこでそわそわと待っていた坂井と茜は、龍に声をかけられるとガタッと立ち上がり、大きく手を振ってくれた。
二人はそれぞれ紙コップに飲み物を入れる自動販売機から飲み物を持ってきた。
坂井は甘いコーヒー。茜はコーラ。
そして同じものをもう1杯。
「「リュウ。どっちを飲む?」」
「お茶にしようかな」
がっくり、と二人は項垂れた。”龍”はそういうところがある。
亡骸サーカス団の頃の”リュウ”よりも、すこしだけからかい屋で、自分を譲れないくらいお堅い。
それは、龍がこれまで何度も何度も、自分の人生を一時譲るしかないような環境や、人に傷つけられてしまい、わずかに持っている自由をもう僅かでもあげられないという気持ちが強かったからだ。
(──ん? リュウ、そんなことあったのか? なんだよ~俺様にも相談しろよ~。観光中の楽しい気持ちをジャマしたくないから……みたいな気遣いは不要なんだぜ?)
(……違うんだ。……あれ?)
龍は顎に手を当てて考え込んだ。
その間、そろーっと龍の前に置かれた甘いコーヒーとコーラを、ぼーっとしながら飲み干してしまった。
考え事をしているときには糖分が必要なのだ。
坂井と茜はそれぞれ、しめしめ、という満足げな顔をして、ふと隣を見て目を合わせると、なんとなく唇を尖らせてお互いにそっぽを向いた。
「……環境。人。傷……?」
「リュウ?」
茜が龍の顔の前で手を振ると、坂井がにやりとした。
「ははあん。これは推理モードに入ってんな。リュウは、っつーか19歳のリュウはだな、気になることがあると頭ん中で熟考する癖があった。今頃オーメンは情報量に押しつぶされて『ぎゃー』とか言ってんじゃね? 茜はそこまでは知らないだろうから、教えとく」
「む。私だってリュウとはそれなりの付き合いが……。……あ、れ……私、リュウには初めて会ったんじゃなかったっけ。あの王国から気持ちが帰ってきて、リュウに会わなきゃいけないと思って別の病棟から走った。どうしてリュウの病室を知っていたんだろう?」
「……。……あーそういうこと。……リュウの答えを待とうぜ」
「分かった」
龍が顔を上げる。
「ボクたち”忘れてるんだ”。こっちの世界で自分達が忘れたかったような辛い記憶を、一時的に忘れているらしい。頭の中に欠けているところがある……」
「リュウ……。そんなの、覚えていない記憶があるくらい、当たり前のことなんじゃないか……?」
茜はすこし遠慮がちに、青年との距離を測りながら龍のことを呼ぶ。
まだすこし声を出しづらそうにしているのは、彼女も、病院の精神科と付き合いが長いことを意味していた。
「リュウは相当な記憶力を持っていて忘れるってことはないんだよ。忘れられない、できないって言い方もあるけどな……。だから、違和感に敏感だ。俺たちなら、忘れちゃってるもんもあるよな、で済ませるところを、この忘れ方はおかしいってことまで気づく。そっちが正解だ」
坂井はからかうそぶりで言うが、表情がこわばっていてうまく笑えていなかった。
彼にも、こちらの世界で陰った生活をしていた。
「ボク、オーメンにも聞いてみるよ。……。……。……どうやら、サーカスに誘われてココロが攫われてしまうくらい、つらかった思い出がボクたちそれぞれにあるんだ。それをまだ思い出せていないって」
三人はじっと思い耽るように手元に視線を落とした。
紙カップの中、カランとしていて底が見える。
しばらくの間、そうしていた。
龍と茜が「ハッ」としたとき、坂井が二人の手からカップを引っこ抜いていた。
そしてフリードリンクのコーナーに行き、大きなピッチャーから水を汲んで、器用に三つの紙カップを指の間にとらえたままテーブルに運んだ。
紙カップの中、透明な水がなみなみとたゆたっていた。
それは二人を不思議とホッとさせた。
乾いたらまた、注げばいいのか──。そのように思った"リュウは"ふと"ナギサの"顔を思い出していた。なんというか、この現実よりもサーカスのことの方がはっきりくっきりと思い出せる。
……というのが今の"龍の"精神状態なのだ。
さっき会ったおばあさん、世話してくれる看護師や医師、その人たちの名前を覚えきれない。坂井と茜だけがしっくりと龍には見えている。
これから、周りのことを大事に見ていくのだ。
──これから、ようやくそれができる。
坂井と茜はぶつくさ言い争っていた。
「おい。コーラの飲み残しのカップに水を汲むやつがあるか」
「それくらいいいじゃん。時代はエコだよ、エコ。まだ使える紙カップを無駄にしない。俺なんか甘いコーヒーの風味なんだぞ」
「きもちわる」
「それはそーだけど、そんなふうにいうんじゃねーよ!」
くすり。龍が笑うと、二人はばっと振り返り、それから安心したように小さく息を吐いた。
「思い出していくだろう、ってさ。オーメンが。じっくりじんわりとね。今すぐ必要になることは忘れていないだけだって。二人とも、しんどかったことを思い出す……覚悟はできてる?」
「「それが、俺・私たちがいるべき世界だから」」
二人は龍のいうことを聞いていたらしい。
「そ、そんなふうにかっこつけた言い方してないんだからね」
龍は耳まで赤くなった。
次の日、坂井から「思い出した」話を聞いた龍は、驚いた。
「俺たちシェアハウスしてたらしい」
「そうなの!?」
「つっても、龍はほとんど帰ってこなかったから俺の一人暮らしって感じだな。実家がこの近くだからそこにまず足を運んで、そしたらいかつい顔をした親父がそこにいて、親父さん?って呼んだらなんか態度が緩和されて……シェアハウスしてたらしいじゃないかって言い出して、そんで、"コートのポケットに鍵が入ってる"ことを思い出したんだよな」
「怒涛の展開じゃん。そっか。ボクのこと面倒見させててごめ……ううん、ありがとう。これからもよろしく。えー、シェアハウスに行くの楽しみ」
「堂々としてんなあ。でも龍がまだ思い出さないってことは、そこに負い目があったらしい。あ、俺たちが喧嘩別れしたわけではないみたいだぜ。室内は整ってて荒れた痕跡もなかったよ。茜の私物らしきものもあった」
「私も、お前たちのところにまれに顔を出したような気がしてきたぞ。それはさておき、私は、"孤児院に行っていた"ことを思い出した……。まだ訪問の覚悟はないんだ。また、時間をかけてから心が落ち着いているときに、顔を出してみようかと思ってる」
「茜とボクたちとは知り合いだったんだね。これからもよろしくね」
「こちらこそだ」
龍はベッドから体を起こし、お見舞いに来てくれた二人とコツンと拳を合わせた。
そして、三人ともが、同じ人をイメージしていることを自覚していた。
「……ナギサは?」
「覚えていないんだよなあ」
「トラウマで思い出せないだけなのか、たまたま同じ時期にサーカス団に行っただけでこっちでの接触はなかったのか……」
けれど、引っかかるものがある。
三人は、ナギサの痕跡を探すことにした。




