67. 跨ぎます
もう、ごまかしが通用する段階じゃない。
そのことを悟った私は覚悟を決めると、短剣の柄をぎゅっと握って、鞘から引き出した。
それを見た王太子は、ヒュウと口笛を吹く。
「やるねえ。どこまでがんばれるかな?」
心底楽しそうな声だ。
獲物を追い詰めて、いたぶり殺して喜ぶ人間だ。下衆が。だからモテないんですよ!
心の中ではそう威勢のいいことを言うけれど、私の手は震えて仕方なかった。
王太子は帯剣している。けれど長剣だ。この距離ならおそらく短剣のほうが有利だ。それに彼は、まったく剣を使う気配がない。
頭ではそう理解していても、一歩を踏み出すことができなかった。
「震えているぞ? そんなに怯えているのに刺せるかな」
そしてまた一歩、こちらに歩を進める。
それに合わせて、じりっと後ずさる。
王太子は怪我をしているはずだ。だからきっとそんなには早く動けない。レオさまだって揉み消してやるから躊躇するなって言ってくれてたし。剣が軽いから致命傷にはならないだろうとも言っていたし。
ちょっと傷つけて、それで逃げればいい。
そうは思うのに、身体の震えが止まらない。
自分の手で誰かを傷つけることが、こんなに怖いとは思っていなかった。
「かーわいいねえ」
くつくつと笑いながら、そう言って腕を伸ばしてくる。
近くで見ると目が血走っていて、もうまともではないのかとも思えた。
するとそのとき、繋いでいた私の馬が、嘶いた。
馬に気を取られた王太子の視線がパッとそちらに動く。
視線から解放された私は一目散に馬に駆け寄って横乗りに飛び乗ると、持っていた短剣を振り下ろして一息で引き綱を断ち切った。
さすが王家の用意した剣は切れ味抜群です!
軽く馬の脇腹を蹴ると、脱兎のごとくその場から駆け出して森の中に入る。
振り返らないまま短剣を鞘に納めて、私はほっと息を吐き出した。
「ははははは!」
けれど王太子の笑い声が背中から聞こえる。
「いいねえ、鬼ごっこといこうか!」
うわあ! 本物の下衆だ! お姉さまへの悪行で知ってたけど、これはひどい!
ちらりと後ろに振り返る。
ギラギラとした目をして、馬に乗って私を追いかけて来ていて、ぐんぐんと距離を詰めてくる。ひい。
私は慌てて前を向く。
でもワンピースだから横乗りのままだ。これ以上速度を上げると振り落とされてしまう。
「もう終わりか? つまらんぞ」
楽しそうに笑う声がする。本当に遊びだとでも思っているのか。
「ほらほら、捕まってしまうぞ?」
言われなくてもわかってます。馬蹄の響きがもう近い。
ちらりと斜め後ろに視線を移すと、本当にすぐそこに、いた。
王太子は腕を伸ばしてくる。血の気が引く。引きずり落とされたら一巻の終わりだ。
手綱を操り、なんとか方向転換してその手から逃れる。
「ははは! やるなあ!」
余裕たっぷりの声が追ってくる。
だめだ、このままでは追いつかれるのも時間の問題だ。
馬を跨ぐしかない。横乗りなんかで振り切れるわけがない。
私は鐙に左足を掛け、その上で立ち上がる。
右足をさっと後ろに上げて鞍を跨ぐと、鞍上に腰を落とした。
見えそうで見えなかったと思う! たぶん。
私は再度、手綱を握り直して馬の脇腹を蹴り、速度を上げる。
「おっ?」
戸惑うような声がする。この恰好で馬を跨ぐとは思っていなかったのかもしれない。
森の中のことなら、私はよく知っている。体重だって私のほうが軽いから速度も出る。馬も乗り慣れた馬だ。
このまま、逃げ切るんだ。
私は選択を誤った。森の中に逃げてはいけなかった。人目があるほうに行くべきだった。外は近かったのに、中に入ってしまった。でも王太子の横をすり抜ける勇気はなかったのだ。
その一瞬の判断の誤りが、致命的な過ちにならないように、逃げ切るんだ。
きっと王太子とレオさまとは入れ違いになったのだ。だとしたら、戻ってくる。それまで私はがんばって逃げ切るんだ。
お姉さまだって逃げ切ったもの。お姉さまにできて、私にできないはずがない。
「待てー!」
待てと言われて待つバカはいません。
森の中の木々をすり抜けながら、私は思う。
躊躇するなって言われたのに、躊躇してしまった。
あの一瞬が命取りだったのかな。あのとき刺せばよかったのかな。
でもそんなの、普通の貴族の娘には無理です。王子たちを刺した令嬢たち、すごい。やっぱり私は普通です。
そんなことを考えながら走っていると、いつの間にか洞窟の近くにやってきていた。
どうしようどうしよう。
このまま洞窟のほうに行っていいの?
行ったらウィルフレド殿下もお姉さまも見つかっちゃう?
振り返る。王太子の姿は見えない。見失っているんだ。
いやむしろ、私の姿を見せて囮になるべき?
「まず我が身を守れ」ってレオさまは言ってくれたけれど、守るべきは私よりもお姉さまたちなんじゃないの?
「レオさま……」
じわりと涙が浮かぶ。視界が滲む。
もしこのまま捕まったら。そして汚されたら。
そのあと王太子が捕まったとしても、きっと王家は私をレオさまの妃とは認めないだろう。
「レオさま……助けて」
でもレオさまだって、絶世の美女が妃のほうがよかったでしょう。
領民に女神のごとく敬われている女性のほうがよかったでしょう。
馬に乗ったり木に登ったり秘密基地を作ったりする女が相手じゃないほうがよかったでしょう。
すぐ感情的になって秘密を漏らす女じゃないほうがよかったでしょう。
なりゆきで、こんな女が婚約者になって、レオさまが可哀想だ。
私は、洞窟の下を通り過ぎた。




