ハゲ、暗黒面に堕ちる
前回までのあらすじ!
紳士だったハゲが、ついに暗黒面に堕ちたぞ!
ゴッ、という骨の音と同時に足が地面から離れて顎が上がった。
速い――ッ!
ボスイエティの繰り出す掬い上げるような軌道の拳に、甚五郎の視界にノイズが走る。
だが、吹っ飛びはしない。
「が……ぐ……っ」
なぜなら甚五郎の両の手は、鋼鉄にすら手形を刻みつける握力でボスイエティの側頭部の体毛を強く握りしめているから。
――ギアッ!?
悲鳴。健康なる体毛をムリヤリ毟り取られる痛み。
ぶちぶちと、握りしめた拳の中で白の毛の引き千切られる音がした。
だが、容赦はしない。暗黒面に堕ちたこの漢は、決して容赦などしないのだ。
「ぬぅりゃあァ!」
跳ね上げられ、伸び上がった肉体を利用して、頭髪なき額でボスイエティの白き体毛に守られた頭頂部を穿つ。
どがんっ、と、およそ生物の肉体から発生したとは思えぬ音が雪の大地に響き渡り、ボスイエティの頭部が大きく下がった。
――ア……ガ……ッ。
二体の怪物の頭部が同時に割れて、雪面に赤の花が咲いた。
それでも、甚五郎は側頭部の毛をつかんだ手を放しはしない。
「羽毛田式殺人禁術“愚”、脱毛膝蹴り! とぅ!」
左脚を軸に、右膝をボスイエティの顎へと突き上げる。
本来であれば、イエティの速さには追いつけない。虚を衝いたところで、このようにリーチもない技などあたりはしないだろう。だが、今はそうではない。
躱そうにも、人並み外れた握力で側頭部の体毛を束縛されたままでは。
――ギャゥッ!?
鈍い音が響いて、今度はボスイエティの首が大きく上がった。剣呑に尖った三本の歯が上空へと吹っ飛び、遅れて血液が飛散する。
だが、もちろん甚五郎の狙いは与えるダメージではない。
高く吹っ飛ばされ、弧を描いて後方回転をしながら着地したボスイエティに見せつけるように、甚五郎が両手を挙げて指を広げた。
ふわり、ふわり。綿毛のような大量の体毛が、美しき粉雪のように舞い散る。
ボスイエティの側頭部の毛は、根こそぎ毟り取られていた。
「フ、どうした、薄毛よ」
――ホホホホホホーーーーーーーーォォォォ!!
怒り、ボスイエティが長い両腕を振り回して地面を叩く。そのたびに大地は上下し、降り積もった粉雪が舞い上がる。
凄まじい威力だ。
だが、この男は悠然と言い放つ。
「そう怒るものではない。私にも薄毛と呼ばれた時代が長くあった。もっとも、私はその古き良き時代からも、すでに見捨てられてしまった身だが。だが、安心しろ――」
口内に溜まった血を吐き捨てて、甚五郎が再びレスラーのかまえを取った。
「――薄毛時代は貴様からもすぐに過ぎ去るだろうッ! そして悔いるがいい! 薄毛と呼ばれし時代を愛さなかったことを!」
もはや自分でも言っていることの意味がわからない。ただ、血走った甚五郎の瞳は、うっすらと自虐の涙を浮かべていた。
右手親指で目元を拭い、涙を弾き飛ばす。
美しき漢の涙が流星のように雪へと吸い込まれて消えた。
「フ、私としたことが少々取り乱してしまったか」
もしもイエティに人並みの知能があるなら、きっとこう考えるだろう。
こ、こいつの頭、中身まで散らかってやがる……、と。
だがしょせんは獣。言葉は介さない。筋肉のみで語らい合うしかないのだ。
「さあ、かかってくるがいいわッ!!」
甚五郎が、かはぁ~と凍った息を吐いた。
彼我には圧倒的な速度差がある。甚五郎はイエティの動きを目で追うことはできても、反応まではしきれない。かといって、アイリアやデレクのように速度差を補う特異な動きができるわけではない。
ならばできることはひとつ。
この鍛え上げた肉体を盾にすべての技を受け止め、己が技を返すのみ――!
すなわちプロレスだ。ただし、反則なしのなんでもあり。
――ギャギィィィィーーーーーーーッ!!
ヒステリックに叫びながら、ボスイエティが雪面を蹴った。柔らかな雪面は力を吸収するというのに、その速度に衰えはない。
ヒトならざるものの動き。激情のままに牙を剥き、鋭い爪を振り回し、涎を垂らし、怒りのままに叫びながら。
一瞬で眼前に迫った巨大なイエティが、大口を開けた。
「……ッ」
速い。速すぎる。やはり対応しきれない。無理に回避しようとすれば、雪面は敵となって足を取るだろう。
ならば。
躊躇いはなかった。大口へと突き出されたのは、頭部。頭皮。これまでであれば決して使わなかったであろう防御法。
腕ではだめだ。食い千切られる。だがいかにイエティが大口であろうとも、甚五郎の頭部を一口で噛み砕けるほどではない。
額より少し上。否、額と頭皮の境目など、もはや皆無だ。
前頭部と後頭部にまたがって、魔獣の牙が突き刺さる。
「ぐぅッ!?」
ぶしゅ、と血管の破れる音がして、視界が真っ赤に染まった。熱い液体が頭皮から瞳を伝い、視界を染めたのだ。
――ギガァァァーーーッ!
頭蓋にあたって牙が止まる。
振り上げられた両手を、己の両手でつかんで防ぐ。しかしイエティはなおも頭部を振って、甚五郎の頭蓋を牙で突き破らんとさらなる力を込めた。
ぎり、ぎり、と、頭が締め付けられる激痛が遅れて襲い来た。
――ガフッ、フ、フゥーーッ!
「ぬ……ぐ……ッ」
だが、それがどうかしたか。この程度の痛み、何ほどのものか。
この、心の痛みに比べれば――!
「ぬん!」
甚五郎が素早く大地を蹴った。
己の頭皮を犠牲にしながら肉体をねじり、ボスイエティの肩に手をついて一回転。ボスイエティの背後を取る――と同時に、イエティの左脚へと己の右脚を絡ませていた。
「喰らうがいいわ!」
素早く右脇腹に上半身を入れて、両腕をもさもさの首へと回して固めてから、天を衝かんばかりに身をまっすぐに伸ばした。
――ギ……ヒ……ゲェェェ……!
「羽毛田式殺人禁術“愚”、脇毛脱毛卍固め」
卍固め。あるいはコブラツイスト。だが、むろんそれだけではない。この程度で終わるわけがないのだ。
なぜならばこれは、殺人禁術の中でももっとも忌むべき技種、“愚”なのだから。
「貴様は先ほど、私の長き友らの帰るべき場所を囓り取った」
骨を軋ませる。
膨れあがる筋肉。舞い散る雪は一瞬で湯気と化し、ひとりと一体の足もとの雪面は溶けて消える。
野生の魔獣であるボスイエティにとって、おそらくは初めての経験だろう。ヒトの編み出した技で肉体を固められてしまうことは。
ヒトであれば、あるいは骨を犠牲に抜け出すことも考えたかもしれない。だが、ボスイエティはそうではなかった。どうすれば痛みを軽減できるのかばかりを考えてしまったのだ。
ゆえにできる隙。
牙を剥く。決して鋭くはない牙を。獣ではなく、人間が。ハゲが。
「がぅむっ!!」
甚五郎がイエティの脇腹へと、渾身の力で噛み付いた。
――ギァ、キィィィィィッ!?
「ふぐぅぅぅぅぬ!」
ボスイエティの全身を卍固めで拘束したまま、首の力だけでイエティの脇毛を、皮膚もろとも引き剥がしてゆく。
べり、べり。
噴き出す鮮血を、トゥルントゥルンの頭皮に浴びながら。
ピンク色の肉も、白い脂肪も、美しき白毛さえも、噛み千切ってゆく。
――キァァアアァァァァ!?
悪鬼羅刹がいた。
ここへ来て初めて、ボスイエティは恐怖した。雄々しく逆立っていた白毛が、弱々しく垂れ下がる。
自分は一体何を襲ってしまったというのか。魔人どもですら恐れる集団を率いて、雪の大地を我がもの顔で支配してきた。出遭う他の魔物などすべて食料でしかなかったし、時には魔人を襲って喰らったこともある。
だが、何なのだ。これは。このハゲは。
――キィィィィァァァ……!
恐慌。これまでの低い唸りや雄々しき咆吼ではなく、小猿のような甲高い悲鳴を上げてボスイエティは全身を必死で揺らした。
痛い。痛い。痛い。取れない。複雑に絡まり合ったこのハゲの両手両足が取れない。噛み付かれた歯が抜けない。
――ヒ……ヒキィィィ……ッ!?
「ンぬがァァ!」
そのようなイエティの感情などものともせず、甚五郎が強引に皮を剥ぐ。否、食い千切った。
――キヒァァァァァ!?
四方にして三十センチほどか。ボスイエティにとっては大したダメージではないだろう。
だが。
――ヒ、ヒ……。
甚五郎が剥いだ皮を吐き捨てて呟く。
「ふん、もう折れたか。存外に早い。レスラーの風上にもおけん、つまらんやつよ」
骨が、ではない。心が、折れたのだ。
甚五郎は拘束を解いた。
ボスイエティはがくがくと全身を揺らし、雪の大地に膝をつく。そうして四つん這いとなって、甚五郎から距離を取るべく必死で手足を動かした。
「くく、どこへ行こうというのかね」
何度も手を滑らせて雪の地面に顔をつけ、どうにか逃げようとするボスイエティを、甚五郎が悠々と歩きながら追いかける。
――キィ……キィ……キァ……!
その頭部へと伸ばされる、大きな手。むんずと白毛をつかむ。
「逃げるんじゃあない。まだ試合は終わっていないぞ、イエティよ。貴様はまだ体毛が残っているではないか」
――キャキ……ッ!? キ……。
「……クソ忌々しいことに、私と違ってなァ?」
悪鬼羅刹が嗤う。口角を耳もとまで禍々しく引き上げて。
「フ、だが私とて武士の情けがないわけではない。闘志なきものをいたぶるのも趣味ではないからな。これで終わりにしてやろう。私が紳士であったことを天に感謝するのだな」
次の瞬間、甚五郎はボスイエティの体毛をつかんだ手を振り上げ、己をも凌駕する巨体をぽ~んと空へと投げ上げていた。
「羽毛田式殺人禁術、毛根死滅スクリューパイルドライバー。――とう!」
そうしてボスイエティを追うように、甚五郎もまた空高く跳躍する。
空中で逆さになったボスイエティの両足を両手で強くつかみ、イエティの頭部を己の太ももで強く挟み込んだ。
「ンゴルアッッシャ一撃で死ねオラァァァァァ!」
凄まじい回転を加えてひとりと一体の体重をのせ、ボスイエティの頭部が雪の大地へと叩き付けられた。
大地が激しく上下して、彼らを中心として粉雪が一気に舞い上がる。
跳ね上がった反動を利用して、甚五郎がふわりと離れた。
「ハゲを嗤うもの、ハゲに死すべし」
雪面を突き破り、頭部を凍った大地に埋め込んだボスイエティは、全身を二度大きく痙攣させてからぐったりと動かなくなった。
ふう、よかった。まだ紳士だった……か?
※仕事多忙のため、更新がやや遅れ気味になっております。
何卒ご容赦くださいますよう、お願い申し上げます。




