9 綿雲にて洗う
三千里歩き続けたとは言わないが、時雨にとっては初めてこんなにも歩き、やっと町に着いた時時雨は安堵した。今にも崩れ落ちそうなぼろぼろの宿に入り、汚いベッドを見ても時雨は全く気にせずそこに飛び込んだ。
町に辿りつくまでの日々、時雨が何よりも辛かったのは野宿であった。簡易テントのような虫が易々と入ってこれるようなものの中での野宿は、時雨にとっては辛いものでしかなかった。
外でのトイレにも抵抗感しかなかったが、野宿に比べればと思うとそれにはどうにか慣れることができていた。
野宿の初め一日はほとんど眠れず、雨が上がったばかりの地面の上を這いまわる虫たちを払い落すことに必死になり、疲れているにもかかわらず休息という言葉を実行できなかった。
二日目は前日からため込んだあまりにもの疲労で、いつの間にかぐっすりと眠りこんでいたが虫が顔を上ってくる気持ち悪い感触に大声をあげて目覚め、またそれから一睡もできなかった。
そんな日々を過ごしかなりぐったりとしながら旅を続けてきた時雨は、室内であり布団と言うもので眠れるのならそれがどんなものであっても嬉しかったのである。
その旅の行程の間、ユチカはただひたすらに歩き続けていた。待ち合わせ場所で待っていた時雨の元にユチカがやってきた時、ユチカは時雨の持っていたリュックを見て察したのか、寂しげな顔で顔を伏せ、時雨に何か言うこともなかった。
ユチカのその様子に、時雨も何も言えなかった。
ただ、ユチカがお弁当を噛みしめるように食べている様子を見るだけで、時雨にはユチカの心情を察知することぐらいはできた。
出発こそ雨であったが、その後に雨は上がり、綺麗な青空が続く天気だった。人通りのない山道を歩くばかりで虫の存在や暗闇の怖さに時雨は不安と恐怖を募らせていたが、その気持ちをユチカに言うことは時雨には憚られた。
追われているのは時雨であり、時雨のためにこんな歩きづらい道を使っているのだ。だから何日間も土のでこぼこ道を歩いたあと、町の舗装された道路を見て時雨は内心大喜びだった。
この町に来るまでの長い道のりの中で、この世界についての知識をユチカから多く学ぶことができていた。
まず、時雨がいるこの国はバルート王国と言う名前である。海と山に囲まれた資源豊富な国であるが、他国から何よりも注目されるのは水神様の第一神殿が存在することだ。時雨にとって驚くべきことにこの世界に全世界に知られているような有名な宗教は一つ、エニアラ教しかなく、そしてその唯一神である水神様を奉る第一神殿があることはバルート王国、ひいては国民の誇りであると言う。
しかしその宗教が災いして、王国とは名ばかりのものになってしまっている。
かつては、険しいハニーラク山を越えてこの地に足を踏み入れ、大地を切り開き蛮族を追い出した王の力は国の宗教に勝るものであり、信仰とは異なるベクトル上のものとして王権や王威は毅然として存在していた。
しかしいつの間にかと言うべきか陰でじわじわと言うべきか、宗教の力、つまりは神官たちの力が増大し始め、一国の王でさえも上位神官の言い成りになってしまっているのが現状である。
この話を語った時、ユチカは怖いのはその事実を知りながら恐怖を抱かない国民だと言った。彼らの力関係が変わっても今のところ国民の生活に大きな変化は見られず、だから国民にとってこれらの事実は雲の上の出来事と何ら変わらないこととなってしまっていることが問題だとそう話したのである。
僕も兄のことがあるまでは何も思ってはいなかったけれど、と一旦台詞を切った後、それでも自信を持った瞳でユチカは憎々しげに、だから神官たちが怪しいことをしていても気づかれないのだと語った。
第一神殿だけでなく、第三、第四、第七、第十神殿と全部で十ある神殿のうち五個はバルート王国の国内に存在している。そのことにより領土を略奪しようと試みる国もあるようであったが、神殿を多く所有していることはイコールで水神様の力を多く借りられることに繋がるために、勝てない戦いを挑む国はほとんどなく、逆に恩恵にあずかろうとする多くの国々とバルート王国は同盟を結んでいた。
これは水の神の持つ力がどれほど広大かと言うことと、人々がそれを敬い畏れて、または恐れているかがよくわかる事実だろう。
ここまでに宗教の力の大きさを語ったが、この世界の人々が皆偏執的なエニアラ教信者であると言うわけではない。其処ら辺は時雨の世界と何ら変わらず、深く信じて日々の生活にそれを生かそうとするものも居れば、幼いころから当たり前であるその宗教を日常の一部として捉えている人もおり、また時には水神様という存在は化け物であると言うように神様を否定し、少数派ではあるが時雨の世界のように概念的なものを神様だと考える人間もいる。
それらのことを道すがらに多く広く、時雨はユチカに教えて貰った。
ベッドの上でごろんと回転し仰向けになった時雨は、息を大きく吐きだした。このごろ晴天が続いてきたが、今夜は荒れ模様となるらしい。あまり手持ちのないお金を使ってまでこの宿をとった理由だった。 時雨はこの世界のお金など一銭たりとも持っていないからもちろんユチカのお金であるが、時雨は申し訳なさよりもありがたさで胸がいっぱいだった。一日でも虫の恐怖におびえないで寝られることが、今の時雨にとって何よりの幸福だった。
嬉しさを一通り噛みしめた後、時雨は一度大きく伸びをしてからはずみをつけて起き上がった。連日歩き続けたために体中が筋肉痛でだるいのだが、今寝てしまって困るのは時雨だった。
時雨はリュックの中から服や下着類を取り出し、腕に抱えて立ち上がった。数枚しかない衣類の洗濯を夜のうちに済ませておかなければ、すでに汚い服をまた何日間も着続ける羽目になる。
宿の女将に教えられたとおりに玄関を出て、庭を歩いて裏口の方へ行く。まだ明るいが、受付にある時計は午後六時を差していた。日照時間は日本よりもかなり長い。
裏口側にある庭には水が流れっぱなしになっている小さなスペースがあり、そこがどうやら選択をする場所らしかった。可愛らしい庭だ。どちらかというと民家の庭に近く、子どもが遊べそうなブランコや砂場が作られている。
洗い場には先客がいた。女性が、背を向けて洗濯をしている。時雨は他のお客さんだろうと見当をつけた。
「隣失礼します」
時雨はそう言うと空いているスペースに入って洗濯を始めることにした。予想はしていたが、戦前の日本のような洗濯方法にげんなりしながら時雨は洗濯物を水に浸す。そういえば洗剤がない、と時雨は思ったが、その問題はまあしょうがないか、とすぐに自分を納得させることができた。水で洗えるだけマシである。
そのままごしごしと、流れる水の中で時雨は服を擦った。泥で黒ずんだ場所が綺麗になっていく感触は気持ちがいい。が、疲れている時雨は腕に力を入れることさえも億劫で、一枚目の服さえもなかなか終わりそうになかった。疲労のせいか眠気も強く、やる気も湧きにくい。
「アンタ、洗剤無いの?」
凛とした声が響いたのは唐突だった。
手を水の中に浸しながらうとうととしていた時雨はその声ではっとしてバッと顔をあげた。声を掛けてきたのは先ほどまで隣で選択をしていた女性。二十代半ばだろうか、ツリ目がキリリとして、時雨はカッコいい印象を抱いた。ショートに切りそろえた髪は余計に女性を強く見せていた。
勢いよく女性を見た時雨を見て女性はカラカラとさっぱりした笑い声をあげた。
「あっははは! アンタ今寝てたわね。すっご、間抜けな顔!あはは!」
一通り笑い終えると、恥ずかしくなって顔を赤くした時雨を見て女性は目の端に溜まった笑い涙を指先で拭いた。
「ごめんごめん。間抜けだったけど可愛い顔だったわよ。あたしはシアーナント。皆はシアーって呼ぶわ。よろしくね」
「あ、時雨です。こちらこそ……」
反射的に時雨がぺこりと頭を下げて顔を起こすと、シアーと名乗った女性は今度はぽかんとまるで驚いた顔をしていた。疑問に思って時雨が首を傾げる。女性は顔を元に戻すと、わあお。と呟いた。
「おっどろいたあ。アンタお嬢チャンね。挨拶の時に頭を下げるなんてひっさしぶりに見たわ。……てことは、やっぱり貴方たちは駆け落ち?」
「は……?」
ぽんぽんと話す女性の会話が早くて時雨はその言葉を捉えるだけでやっとだった。
「あ、アタシ今旦那とこの宿泊まってんだけどさ、もちろんだからここで洗濯してんだけど、まあそれはどうでもいっか、んで、アンタと連れの赤茶髪の男の子? 二人でここに入ってくんの旦那と見てたわけよ。どう見たってまだ十代の二人組がこんなぼろっちい――訂正、こんな古風な宿屋に泊るなんて興味湧くわよ、普通。だから旦那といろいろ予想してたのよね、アンタたちがなんでここに泊まってんのか。んで、今アンタがお嬢っぽく見えたから、これは身分違いの二人が駆け落ちでもしたのかな、とね。赤茶色のシグレの――シグレって呼んでいい?連れまだシグレよりも若そうだけど、愛に年なんてってやつよねえ」
「あの、違います。駆け落ちじゃないです」
「あっれ! うっそ、マジで? アタシの勘は当たんなかったかあ。じゃあ姉弟で生き別れになった親を探してるとか? ――これは旦那の予想」
「それも違います」
笑ったりはしゃいだりうっとりとしたり、表情をくるくると変えながらシアーはよく喋る女だった。けれどもその変化する表情の人懐っこさか、話し方からか、時雨は彼女に不快な気持ちを抱くこともなくむしろ好意的な感情が湧いた。
「じゃあ何で? どうして二人でこんな宿泊まってんの? 」
「あ、それは…………」
なんて言えば良いのだろう?時雨は返す言葉を見つけられなかった。こんなことなら、二人の関係についての嘘をユチカと話しあっておけばよかったのだと時雨は落ち込んだ。
黙ってしまった時雨を見て、シアーはあっけらかんとしたものだった。
「言いたくない? 何か込み入った事情があるワケだ。じゃあ言わない言わない。アタシみたいな口の軽ーい女に話すとね、噂は一瞬で天まで駆け抜けるわよお」
気を使ってくれているのだと分かって、時雨は曖昧に返事をすることしかできなかった。そのときシアーが何かひらめいたかのように手をパチン、と胸のあたりで叩いた。
「そうそう、さっきアタシアンタに、洗剤無いのって尋ねたんだった。無いの?」
「はい。もともと、荷物は最低限なんです」
「そんなこと言ったってねえ、年頃のオンナは着飾ってなんぼ、清潔感があってなんぼ! アタシの洗剤使いなさいよ」
時雨が遠慮する言葉を言う暇もなく、シアーは時雨の手に洗剤をひとつ握らせた。洗剤と言うよりは固形石鹸に見える。それどころかシアーは、時雨の持ってきた服を掴んでどこからかもう一個洗剤を出し、水に手を突っ込んでわしゃわしゃと洗いはじめた。
「え、ちょ、大丈夫です!」
慌てて止めに入った時雨を、シアーは片手で軽くあしらった。自分のものはもうとっくにやり終えたどころか、どうやら物干しざおにまで干し終わっている。時雨はシアーが自分の洗濯をしている間ずっと、うつらうつらと意識の狭間にいたのだろう。
「あのね、アタシ今暇なの。ていうかアンタの洗濯下手すぎて見てらんない。途中で寝ちゃうし。これだからお嬢サマは駄目なのよ。自分で洗うってことを覚えなさいな。ほらほらアタシの手元見て、真似しながら洗う!」
そう言えば特別にお嬢様なわけではないと否定することも時雨は忘れていた。けれども時雨の世界ではボタン一つで洗濯ができたわけなので、洗濯をしたことがないと言うのもある意味本当なのかも知れなかった。
命令口調のシアーに言われるままに、時雨は服をひっつかんで洗剤を使った。シアーと話したおかげか、眠気はどこかへ飛んでしまっていた。疲労はいまだに時雨の身体を重くしていたが、時雨はそれでも先ほどの三倍ほどのペースで洗濯をすることができた。もともと量も少なく、しかもシアーが手伝っているために、服たちはすぐに物干し竿にぶら下がった。
「ありがとうございました」
時雨のお礼に、シアーはいいのいいの、とケラケラ笑った。
「アンタたちは何泊してくの?」
「一泊です」
「アタシたちと一緒ね。まあ観光に来たワケじゃないし、こんなボロ、じゃなくて古風な宿に何泊かしたってイイコトなんて無いかしら」
「あ、そう言えばシアーさんはどこかに行く途中ですか?」
そのシアーの人柄のせいもあるだろう、時雨はもう彼女に親しみを感じていた。尋ねると、シアーはそうなの、と手をひらひらと動かした。
「旦那がさ、昇進したのよ、昇進。だから引っ越すの。荷物は馬車に乗せて先に送ってもらったんだけど、交通費でないのよ、あり得ないくらいケチ。で、しょうがないから旦那と二人で移動中ってワケ」
「昇進ですか?すごいですね」
「でっしょ?聞きたい?いまからの旦那の勤め先」
どちらかと言うと時雨が聞きたいのではなくシアーが言いたそうである。時雨は素直に聞きたいです、と言った。すると今までで一番満面の笑みをシアーは返した。よっぽどすごいところに昇進したのだろうかと時雨は考えを巡らせる。しかし会社の名前など時雨は全く分からないから、驚いたふりをするしかないかもしれないな、とも考えた。
「聞いて驚け見て笑え!私の旦那はね、地方の名もない神殿神官から、第四神殿への大抜擢をはたしたのよ!」
テレビであればじゃじゃーん、と効果音がつきそうな台詞と格好で、シアーが言った。時雨はそれにかぱんと口を開けて驚いた。演技でも何でもない。第四神殿とは、エニアラ教第四神殿である。
シアーは時雨のその表情に満足そうに頷いていたが、時雨が驚いたのはシアーの考えとは全く異なった意味からであった。
――――こんなにも早く、エニチカ教の関係者に会えるとは……。
ラッキーなのかそうでないのか、思ってもみなかった事態に時雨はただびっくりすることしかできなかった。




