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雨が泣くのを誰が知る  作者: 小鶴
第一章 降る降る雨が、ほろほろり
6/11

6 雨合羽の綻び









 控え目なノックに時雨が返事をすると、ドアは静かに開けられた。立っていたのはユチカ。時雨は部屋の中にユチカを招き入れた。

 夜も深くなってから雨が降り出して、屋根に雨が当たる音が部屋の中にまで侵入してきていた。


「おじゃまします」


 ユチカはそう言って時雨の部屋に入り、椅子を引き寄せてそこに座った。ベッドの淵に座っていた時雨も、ユチカと机を挟んだ向かいに座りなおす。夕食の前にしていた話の続きをするためにやってきたであろうユチカは、どこか迷いを持った様子で視線を斜め下に向け、なかなか話を始めようとしなかった。

 夕食前に話した時とはどこか違う雰囲気に、時雨は戸惑った。雨の音と相まって、重苦しさが部屋中に立ちこめていた。その雰囲気に居心地の悪さを感じた時雨が身じろぎをすると、その音が合図になったかのようにユチカが顔をあげ、時雨を見た。


「どこから話せばいいのか迷ってるんだ」


 ユチカはそう言って、首の後ろを撫でた。


「話さなきゃいけないことを、部屋に戻ってからずっと考えていたんだけど……」


 どうも歯切れが悪かった。明らかに喋ることに対して腰が引けているユチカの様子に、時雨の心に不安がもくもくと湧き出始めていた。

 一体ユチカは何を話すのだろう。お願いとはなんだろう。私はどうやって帰ればいいのだろう。時雨には聞きたいことが沢山あったが、それを口に出すことも憚られるような重たい空気があった。

 またユチカが首の後ろを撫でた。どうやら癖であるらしい。


「とりあえず、僕のお願いから話すよ」


 時雨が頷くと、ユチカは一呼吸置いてから口を開いた。




「僕は、君に力を貸して欲しいんだ」

「チカラ?」

「そう、力。君の力が僕には必要なんだ」





――――それがお願いだろうか。


 暫く続きを待ってみたが、ユチカのお願いはそこから続きは無いようだった。力。そんな抽象的な言葉で話されても、時雨には何の事だかまったく分からなかった。力にだっていろいろある。       

 体力も権力も、知力だって力だろう。けれども時雨は自分が、そのどれもをそんなに持っているようには思えずに戸惑った。


「私の何の力を、貸せばいいの?」


 当然の疑問である。ユチカはそれに対して、眉根を寄せると悲しそうに言った。


「それは、分からないんだ」


 ユチカの返答に時雨はもっと困ってしまった。貸してくれと頼んだ本人が、何を貸して欲しいかわからないのは本末転倒である。時雨がそう言うと、ユチカは困ったような顔をして、それから順を追って話そう、と言った。

 僕の兄の話だ、とユチカは言葉を紡ぎだした。




「僕には兄がいるんだ。僕より十ほど年上で、今は多分、生きていれば25歳になる。兄の結婚相手がラミノ姉さんで、つまりは僕と姉さんは義姉弟。二年前までは三人で、もう少し南の方にある町で暮らしてたんだ」




 ここから少し長くなるよ。そう前置きして、ユチカはゆっくりと語り始めた。












 僕らが住んでいたのは、サメイユという名の花が咲きあふれている暖かい町だった。黄色の花が町の一番の自慢、そんな町に僕らは住んでいた。僕はまだ仕事に就ける年ではなくて、学校に通いながら家の手伝いをしたり友達と遊びまわったりしていた、まだそんな頃のこと。

 ラミノ姉さんは家事をして、兄が仕事をして、毎日の暮らしを送っていた。裕福ではなかったけれど貧しくもない。そんなどこにでもある一般家庭。

 

 そんな生活が続くものだと思っていたし、何も疑ってなどいなかった。けれどそれは唯の願望だったってこと、今の僕なら分かる。





 兄の仕事は大工だった。船を作ったり家を作ったり、家具や遊具を作ったりしてたんだ。兄は腕のいい方だったから、仕事に困るということはなかった。けれどだから、兄には他の大工よりも少しレベルの高い仕事が舞い込んでくることが偶にあった。貴族の家や神殿や、そういったものを建てることに関われたんだ。

 それは普段の仕事よりもお金が入ってくるから、兄は勿論その仕事を受けていた。そしてある日、大きな仕事が一つ入ってきた。


 一年間を通しての仕事だった。水の神様を祭るための神殿の、大規模な修復工事。あの神殿はこの街がすっぽりと入るくらいに大きいから、腕のいい大工を全国から集めているみたいで、今までのものよりもずっといい仕事だった。神殿の場所はずっと遠くにあって、三ヶ月に一回しか家に帰ってくることはできなかったけれど、兄は勿論二つ返事でそれを受けた。僕らは笑顔で、出かけていく兄を見送った。




 そして三ヵ月後、僕は久しぶりに帰ってきた兄を見て驚愕した。


 ぱっと見て、何か変わったというわけではない。ひどく疲れていたけれど、それは仕事と長旅のせいだと思えば納得ができた。変わったのは、兄の眼、瞳の鋭さだ。三ヶ月前とはあまりに別人のようだった。怖かったんだ。兄を怖いと思ったのはそれが初めてだった。

 ラミノ姉さんも僕と同じことを思ったのか、今受けている仕事を止めようと兄に提案した。けれど兄は、その提案に対して決して首を縦に振らなかった。それだけじゃない。兄は、仕事のことを一言だって語らなかったんだ。まるで拒否反応を起こすかのように、その話をすると口をつぐんだ。神殿での仕事は、神殿内のいろいろなものを目にするから、守秘義務があるのは分かる。けれども兄は、仕事について、一緒に仕事をしている仲間の名前さえも、一切発しようとはしなかったんだ。




 二度目に帰ってきたとき、つまり仕事を始めて六ヵ月後、見た目も少しずつ兄は変わっていた。一目で分かるほどに痩せていたし、前のようにたくさん笑うこともなかった。ただ三か月分のお金をラミノ姉さんに渡すと、自分の部屋に戻って出てくることのほうが少なかった。僕もラミノ姉さんも、兄に一体何が起きているのか全然わからなかった。



 そして三度目に帰ってきたとき、兄からは生気さえも感じられなかった。ラミノ姉さんはその兄を見て思わず泣いてしまうほどに。僕は兄が本当に自分のあの兄なのかと、信じられなかった。  

いったいなんの仕事なの、お願いよ、後生だから止めて、というラミノ姉さんの願いさえ、兄は全く聞く耳を持たなかった。僕は兄が怖くて、話しかけることができなかった。どうなってしまうのか、そればかりを考えた。そしてまた仕事に出掛けなくてはならない日、兄が帰ってきてから初めて、自分から僕に声をかけた。

 そのとき、兄は僕に一つのブレスレットを手渡したんだ。どこにでもありそうな、石のブレスレット。これを絶対につけていろ、兄は僕にそう言った。学校に行くときも、お風呂に入るときも、寝るときも、何があっても絶対に外してはいけない。そう言った。僕はそれを忠実に守って、毎日つけていた。


 そして二ヶ月と半分くらいたって、兄の仕事が終わるまであと一週間に迫った夜のことだったよ。ブレスレットから伝わる熱で僕は目を覚ました。とてつもない熱さを持ち、腕につけていたブレスレットは煌いていた。驚いて思わず外そうとして、僕はそのブレスレットから文字があふれ出していることに気がついた。文字はどんどんと出てきて、僕の腕に張り付き始め、そして僕の腕に文章を作っていった。


 僕は腕に模様のように浮かび上がっている文章の最初の一行を読み、そしてその場で固まった。





 “愛するユチカへ”


 “これをお前が読んだとき、それは俺がもうお前に一生会えなくなったときだろう”





 “――もうきっと感づいているとは思うが、俺のしている仕事は最悪のものだ。この世にあってはならない、おぞましいものだ。俺は秘密を知ってしまった。もう助からない。俺は監視されている。三か月に一回、家に帰るときでさえも。最後の言葉を言うために、監視の目をどうにか盗んでこれを書いている。

子どものお前にこんなものを託してしまってすまない。だが、三十人余りの大工仲間たちがこれからどうなるか分からないであろう悔しさが、俺にこれを書かせている。


 水の神を奉るエニアラ教の第一神殿には、暗い裏がある。俺たちの水の神を冒涜する行為だ。それによって、信者たちは殺されている。お前は宗教に深くハマりこむな。そして出来れば、真実を暴いてくれ。


 多分、俺は事故死をしたと報告されるだろう。それは嘘だ。きっと俺はこれから、ここで一生働き続ける運命にある。だが、ラミノには死の真実を伝えなくていい。そのほうがあいつにとって幸せだろう。

 お前たちの幸せを願っている。”


 “愛を込めて リィス”



 手紙の通り、兄が帰ってくるはずの日にやってきたのは一通の死亡通知だけだった。資材の下敷きになって死んだってね。なのに遺体も骨もなかったよ。その後稼ぎ手がいなくなった僕たちは家賃を払えなくなって、僕たちはその街をでた。そしてこの街に引っ越してきたんだ。ラステュの町。この街に引っ越してきたのは働き口があったからだけじゃなく、大きな図書館があったからだ。僕はずっと神殿について調べていた。兄さんの無念を晴らしたかった。兄さんを助けたかった。



 そして君を見つけ、一つの手がかりに辿り着いたと思った。



 君は僕が待ち望んでいた人間だったんだ。

 実は兄からの手紙は、あれで終わりではなかった。兄の名前の後に、もう数行書いてあった。


 “大工仲間に、まじない師の家系出身という稀有な奴がいた。名前はラングサンドラ。そいつに協力してもらってこれを作っている。真実を暴く手がかりになるはずの、まじない師の預言をここに記す。


 汝の弟は光の中から現れる異なる世界の女の力によって、真実を白日のもとへ導くであろう。


 ユチカ、この女を見つけてくれ”




 僕はずっと待っていた。




「そして僕は、光の中から現れた君を見つけたんだ」







 そこで、ユチカは一端言葉を切った。時雨の顔をまっすぐに見て、彼は話を続けた。




「正直、少しだけ半信半疑だったんだ。異世界の人間を呼び出すのは、神に仕える人間の中でも数人の上官にしかできない行為だから。君が現れた時はすごく驚いた。けれどそれで、兄の話も真実味がずっと増した」

「ちょっと、ちょっと待って!」



 時雨は思わず話を止めていた。当たり前だろう。お願いというものをもっと時雨は簡単なものだと考えていた。それが何なのか見当もつかなかったが、それにしたってまさか、そんなにも壮大なものだとは思いもしなかったのである。

 まだきちんと話の内容は理解できていないし、彼の兄がおかしなことに巻き込まれたとか、行方不明だとか、そんなものの実感も何も、時雨には湧かなかった。何よりも知らない単語がたくさん出てきてしまって時雨の頭は混乱していたし、それに、今言われた言葉も時雨の脳内をかき回すのには十分だった。


「今、ユチカ、異世界の人間を呼び出すのは神に仕える数人しかできないって言った……?」


 時雨の言葉に、ユチカはああ、と顔を曇らせた。その表情を見て悟った時雨は、一瞬にして心がずうんと重たくなるのを感じた。時雨が帰ることは、難しいことなのだ。

ごめん、とユチカは言った。


「騙すつもりは無かったんだ。僕は、夕食の前に君と話すまで誤解していた。君は神に使わされて、進んで僕の手助けをしてくれる存在だと思っていたんだ。けれどいざ話してみると、君は異世界に帰りたいと思っているだけの、普通の人間だった」


 時雨が普通であると言うことは、ユチカにとっては大きく期待外れだったのであった。正直に言えば、ユチカは異世界人が来てくれれば、ことが大きく変わり始めるとさえ思っていた。だから、いきなり異世界に飛ばされてしまった時雨同様、ユチカも途方に暮れていたのである。


「でも、まじない師が言ったんだ。神から預かったその言葉に嘘はないし、僕は君の何かの力を必要としてる。だから、お願いだ。僕を、どうか助けて欲しい」


 ユチカは時雨に向かってぐい、と頭を下げた。そんなことを言われても、と時雨は戸惑う。ただでさえ自分のこれからも見えていない状況で、時雨は返事を返すことができなかった。

 ユチカやミラノが、悪い人間には見えなかったし、自分が利用されようとしているとは時雨は感じなかった。例えばここが異世界ではなくて、時雨の心にもう少し余裕があれば、ユチカに手を差し伸べたくなるくらいには時雨はお人よしなのだ。けれど、



――――どうしたらいいのかわからない。



 時雨はひたすらそう感じていた。何もわからない。むしろ、助けて欲しいのは時雨自身であろうとも思う。

 重たい空気が嫌で、時雨はそれを逃がそうとするかのように立ち上がって窓を小さく開いた。途端に雨の音が部屋の中まで大きく響き始める。雨音は部屋中に反射した。

 冷たい空気が入ってきて、ふう、と時雨は息を大きく吸い込んだ。肺の中まで冷えていき、その冷たさは少しだけ時雨を落ち着かせた。

 ふい、と視線をユチカの方に向けた時雨は、机が小刻みに震えているのに気がついた。見れば、机の上に置かれたユチカの手が、小さくとも小刻みに震えていた。

 下げた頭の下から見えるその手は、男としてはまだ成長途中の、少年の手だった。手首には薄い赤色のブレスレットが、光沢をなくしてぶら下がっていた。


 ユチカが震えている。まるで大人のように話すから忘れてしまっていたが、ユチカはまだ時雨よりも幼いのだ。不安なのだ。そして兄を助けたいというその一心で、毎日を暮らしているのだ。



 ああ、と時雨はまるで心のなかにすとんと、何かが落ちてくるような気がした。時雨は唾を飲んで、ゆっくりと口を開き、言葉を発しようとした。

 けれどその時、小さく開けた窓の外、雨音に混じって聞こえてきた声に、時雨は驚いて言葉を紡がずに固まった。










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