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雨が泣くのを誰が知る  作者: 小鶴
第一章 降る降る雨が、ほろほろり
4/11

4 霧雨が走る




 がやがやと騒がしい町並みを、時雨は顔を伏せるようにして歩いていた。普通の格好をしているはずなのに、ここにいると浮いてしまっているのである。

 町の人々は皆麻でできたような服を着て、靴もサンダルと布を組み合わせたようなものを履いている。ジーパンにスニーカーを履いている時雨はひどく目立っているようで、先ほどから不躾な視線の攻撃にあっていた。


 いったいここがどこなのかを自分の目で確かめたくなって、時雨は思わず寝かせてもらっていたあの家を飛び出してきてしまったのだった。周りの視線で自分が異物であることを自覚しながら、時雨は早足で、知らない街を歩いた。







 そこは賑やかな港町だった。


 青い空と透き通った海の間で、大勢の人が声を張り上げながら商売をしている。魚、野菜、雑貨、衣服、それぞれの店がそれぞれの役割を担って、小さいながらも楽しそうに切り盛りをしている、そんな活気づいた雰囲気のある町だ。

 そんな中で一人浮いている自分が時雨は恥ずかしく、早足でその市場通りを抜けると、もう直ぐそこには海があった。




 海岸のほうにはあまり人もいないようで、時雨は人目を避けるために海に向かって早足で歩いて行った。大きな船着き場があるにしては船の数も少なく大きさも小さいので、もしかしたら多くの船が漁に出ているのかも知れなかった。

 砂浜の色は白に限りなく近かった。海の色は透明に近いブルーで、その水の驚くほどの純粋さを主張していた。緩やかな波が押し寄せては戻りを繰り返し、薄桃色の貝殻のかけらがいたずらに転がされている。そんな美しい海だった。

 波の掛からないぎりぎりの境界まで歩いていって時雨は立ち止まる。少し離れたところで、数人の子どもたちが砂の城を作って遊んでいた。それを横目で見て、時雨は目を伏せる。




 どこをどう見ても、時雨には知らない景色だった。

 二日間寝ている間にやはりどこかに拉致されたのかもしれない。先ほどの女性も実はその仲間だったのかもしれない。時雨は混乱する頭の中でそんなことを考えたりもした。

 店屋の看板に書いてある広告も時雨には読めなかったし、使っている紙幣も日本とは全く異なっていた。外国の国、なのかもしれない。時雨はそこまで考えて溜息をついた。

 私は売られてしまったのだろうか、今時そんなことが日本であるのだろうか、そんなことを取り留めもなくつらつらと頭に浮かべて気分を沈ませながら、時雨は澄んだ海の水をそっと触ってみた。当たり前にそれは冷たい。その感触は知っているもので、時雨は少しだけ安堵した。



 時雨が暫くそのまま海の水をぼおっと見つめているといきなり、耳に不可解な音楽が流れ込んできた。

まるでオーケストラを三味線で演奏したような、不思議な音楽である。その音楽の奇妙さにどこかこそばゆさを覚えながら、どこから聞こえてくるのかと時雨は辺りを見回すが、そのような演奏をしている人物は見当たらず、またスピーカーのようなものが設置されているのも見つけられなかった。





「あ、儀式の音楽!」



 時雨が耳を傾けていた音に反応して、砂浜で遊んでいた子どもの一人が声をあげた。本当だ、本当だ!儀式の音楽!子どもたちは口々に語りあう。そして、作りかけだった砂の城を残して一斉に立ち上がると、大声を上げながら海とは逆方向に、つまりは街のある方に向かって駆けだした。

 子どもたちは、わああああ、と楽しそうに叫びながら時雨の横を駆け抜けていく。元気だな、と時雨がそれを見ていると、そのうちの一人である男の子が時雨とすれ違った後に立ち止まり、不思議そうな顔をして彼女のほうを見た。



「姉ちゃん突っ立って何してるのさ?」

「え?」

「だって走らないと間に合わないじゃん」

「え?」

「あ、分かった!姉ちゃんトロいんだろ。しょうがねえなあ、俺が引っ張って走ってやるよ!」



 男の子は何を勘違いしたのか、何も理解できていない時雨の手を掴むと引っ張って走り出した。時雨は目を白黒させながら引っ張られるがまま彼についていく。街と海岸の境界線には、時雨を引っ張る男の子と一緒に遊んでいた子どもたちがすでに到着し、彼の到着を待っているようだった。



「早くしなよー!」

「もうすぐ音楽鳴り止むよー!」



 子どもたちがきゃっきゃと笑いながら時雨の手を引く子どもに呼び掛けていた。男の子はわかってるよ、と返事をしてぐんとスピードアップし、そして時雨を連れたままその子どもたちの輪に入った。

 それから数秒すると、どこからともなく鳴り響いていた不思議な音楽は聞こえなくなっていた。



「ギリギリセーフだよお」

「このねーちゃんがトロいのがわりいんだよ!」



 どうやら子どもたちの、駆けっこに似た遊びに巻き込まれたらしいと、時雨はそう理解して、曖昧に子どもたちに笑いかけた。けれどもその笑顔は子どもたちには気に入られなかったらしく、ピンク色の服を着た女の子がびしり、と時雨の顔を指指した。



「お姉ちゃんあとちょっとでフケーザイだよ!」

「不経済?」



 音楽が鳴り止む前に砂浜からでなければ、こずかいでも貰えなくなるのだろうか。変な遊びだなあ、とまで考えたところで顔をあげ海の方を見て、時雨は固まった。それから二三回瞬きをした後、自分の目を疑った。






――――なに、これ。








 先ほどまであったはずの美しい砂浜が、きれいさっぱり無くなっていた。









 言葉通り、先ほどまで砂浜だった場所は消えていた。すべてが海になっていたのである。砂浜と言う町と海の境界線が消え、町と海がつながったものとなっていた。

 嘘でしょ、と時雨は思わずつぶやいた。

 いくら大きな波が来たとしても、かなり大きな砂浜だったのだ、すべてが水で埋まるはずもない。そんな大きな波であったなら、町の方まで押し寄せてくるのが普通ではないか。時雨はそんなことを考え、自分の中からわき出てくる驚きを隠せなかった。



 それに、それだけではなかった。



 先ほどまでは一定の間隔を保って打ち寄せていた波までもが、全く無くなってしまっていたのである。









 海は驚くほどに静かになっていた。海からの音がまるでしない。しん、とした静寂の中で、水がその場でぴたりと止まっていた。無人のプールだってもう少しは音がしそうなものである。風が吹けば湖面はゆれる。それは当り前のことではないのかと時雨は目を疑うことしかできなかった。

 そして、時雨がこの変異の理由を子どもたちに尋ねようとしたその刹那、それは起きた。




 大きな水音とともに、海の水が動き出し、盛り上がった。そして時雨の目の前で、ぐるぐると模様を描くように動き出す。


 まるで意識を持ったように、海は動きだした。



 そして海から、噴水のように何本もの水柱が上がり始めた。そしてそれは少しずつ姿を変えて、まるで生き物のようにかたどられていく。竜のようだ、と時雨は思った。竜に似たものを、水が形づくっていくのであった。液体であるはずの水が、まるで固体のように透き通った鱗と長い尻尾を持った生き物になっている。


 そしてその生き物は、砂浜にまで広がった海の上を、まるで楽しそうに動き回り始めた。

 右に行っては大きく旋回して見せたり、上に行ったと思えば下へ行く。海の中に引っ込んでしまったと思ったならば、今度はいるかのように高くジャンプして見せたりもした。






 その光景は美しかった。今まで時雨が見た物の中で一番美しいと言っても過言ではなかった。



 時雨は、それを見て目を見開き、思わずそこにへたり込んだ。美しさに腰を抜かしたのではない。直面しなければならない現実を突き付けられて、立つ力も出なくなったのである。




――――私は知らない。




 時雨は呟いた。

 海の冷たさは時雨の知っているものだった。人々の話している言葉は時雨の親しんでいるものだった。

けれども。


 やっぱり、と半場諦めのように思うとともに、時雨はああ、と声をもらした。

 違和感にはずっと気付いていた。使っている文字も、紙幣も違う。ならここは外国。そう考えていた。それがどれだけ非現実的といえども、時雨が長く眠っている間に移動させることは不可能ではない。

 けれども、けれども外国なら、どうして言葉が通じるのだろう?通じない。通じるわけがない。


 だから、そうじゃないのだ。



 ここは違う。時雨はやっと、理解せざるを得なかった。違うのだ。外国など比ではないほどに。いままでいた世界とは、きっと根本的に違うところに自分はいるのだ、と。

 時雨はまるで自分に言い聞かせるかのようにそう考えて、そして下唇を噛んだ。



「海の神様のお出ましだ!」

「フケーザイした人間は飲みこまれるぞお!」



 子どもたちがわいわいと騒いでいるのも、もう時雨の耳には入らなかった。

 はは、と時雨の口から乾いた笑い声が漏れて、けれども時雨は自分がそんな笑い声を発したことも気がつかなかった。

 ただその場に座り込んで、美しい身体で動き回る水の神様と言うものを、見つめ続けていた。










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