2 梅雨入りの逃走
「ただいまあ」
部活に入っていない時雨は、四時過ぎには学校から家に帰ってくることができる。誰もいないと分かっていても、家に帰ってきたら一言言ってしまうのは日本人らしい癖と言えるかも知れないなあ、とどうでもいいことをぼんやりと考えながら、時雨は靴を脱いで家の中に入り、制服から部屋着に着替えると台所に向かった。
忙しい両親の代わりに、家事は姉妹で当番を決めてやることになっていた。今日の夕食は時雨が作る番であり、少し早いけれども作ってしまおうと時雨が冷蔵庫を開けたそのとき、彼女の携帯がポケットの中で震えた。有名な映画音楽の着信音はメールの来着を知らせるもので、時雨は冷蔵庫の中身を物色しながら差出人の名前を見る。喜雨からのメールだった。
パカリと間抜けな音で携帯を開いて時雨はメールを確認した。夕食は要らない旨が書いてあるものであったそのメールは、”友達と食べることになったから、ごめんね”そんな台詞とともにひどく申し訳なさそうにした絵文字までついていた。了解です、と返信をしながら時雨は冷蔵庫を閉める。
喜雨がいないのであれば、時雨はとくに夕飯の準備をする必要性を感じなかった。時雨はもともと料理が得意だったり好きだったりするわけではない。一人であるならばインスタント食品で済ましてしまうほうが効率がいいと考えて、時雨は暇になった時間をどう過ごすかを思案した。喜雨がいたならば家にいても楽しく過ごすことができるものの、その妹は部活をこなしてその後に夕食を食べに行くのであるから、まだまだ帰ってこないのである。
しばらく思案した後、時雨はよし、と意味もなく気合を入れると、時雨は部屋着から外に行けるような適当な服に着替えた。そして肩掛け鞄に財布と携帯をいれ、スニーカーを履いて外にでる。雨の降りそうな雰囲気を見て、鞄の中に折りたたみ傘をプラスする。
暇な時間をつぶすために、本屋に出掛けることにしたのだった。
暑さが増し始めたこの季節に、湿った空気はむしむしとしたまとわりを感じさせるが、隣家の庭に咲いた綺麗なアジサイの花が時雨の気分を楽しくさせた。鼻歌を歌いながら、時雨は本屋までの道を歩き始めた。
「うわ、すごい雨」
時雨が一時間ほど本屋の店内をぶらついて、二冊の本を買い終わって店を出るときには外はひどい土砂降りになっていた。
傘を持っていてよかったと、時雨は鞄から取り出した傘を大きく開く。そして、買ったばかりの本を濡れないように鞄の奥にしまうと、水溜りを避けながらゆっくりと歩き始めた。
それにしても本当にひどい雨である。ザーザーという音で、他の音はうろんとして聞き取り辛くさえあった。時雨の開いた折り畳み傘の骨は雨でしなり、必死で雨から時雨を守ろうとしているようでもあった。けれどもそんな傘の下を通り抜けて、時雨の身体にも雨粒は飛んでくる。
雨季に入ったせいで雨が多いのだ。このまえ降ったのはいつだっただろうと頭の中で日にちを遡って、時雨は一昨日にも雨が降ったことを思い出した。そのときはこんなにも激しくなかったなとも考える。
道行く先の道路上には、大きな水溜りがあちこちに姿を現していた。
――――嫌だなあ。
時雨は水溜りを見て反射的にそんなことを考えた。
時雨は雨自体が嫌いなわけではないが、靴にしみこんで靴下まで濡れたときの感触は大嫌いだった。間違って水溜りにでも足を突っ込めば、たちまちそうなってしまう。
そんなことを考えながら水たまりを避けるために下を向き気味に歩いていたせいか、しばらく歩いた後に、時雨は前から来た人にぐいっと傘を当ててしまった。
「わ、すいません!」
水溜りを気にしすぎて、まっすぐに歩いてくる人影に気付かなかったのだ。驚きとともに反射的に時雨は謝った。
相手の服が濡れてしまったかもしれない。そんなことを考え、自分よりも背が高く傘で隠れてしまって見えない相手を見ようと、時雨は自分の傘を後ろに少しずらす。
けれども、時雨が相手の顔を見ることは叶わなかった。時雨が相手の顔を見る前に、その相手は時雨の腕をむんずと掴み、そしてそのまま時雨を引っ張るように走り始めたからだ。
あまりに突然のことに、身体に力など入れていなかった時雨はそのままぐいぐいと引っ張られてしまう。掴まれていない腕の手に握っていた傘は、風の抵抗にさらされて思わず離してしまって、お気に入りの傘が風に舞って飛んで行くのが時雨の目の端に映った。
「ちょっと、離してよ!」
我に帰って時雨が声をあげても、目の前の人間は離す素振りも見せなかった。
そこで時雨は、足に力を込めてその場に踏ん張り、勢いを付けて走っているほうと反対に自分を引っ張った。いきなりの抵抗に、時雨の腕を掴んでいた人間は前のめりになっていた重力に逆らえず、時雨の手を離した。反動で二人とも尻餅をつく。べちゃりと湿った感触が時雨の肌に伝わった。
そしてその時やっと、相手の顔を時雨は見ることができた。最初に時雨の目に飛び込んできたのは、色素の薄い、茶色の瞳。そして長い髪の毛と膨らんだ胸だった。背の高さと時雨を引っ張る力の強さで、男だとしか思っていなかったその人は、女であった。
――――綺麗な人だ。
時雨は思わずその容姿に見蕩れていた。鼻筋が通り、眼筋はきりりとしている。なのに不思議ときつい印象を持てない、そんな女だったのである。
けれども時雨がそう思ったのは束の間だけで、逃げるなら今のうちだと瞬時に立ち上がり明るい繁華街のほうへと走り出した。二十メートルほど走ったときに後ろを振り向くと、時雨を引っ張っていた彼女との距離はまだ十メートルは開いていた。明るい通りに出るまであと二十メートルほどで、時雨はがむしゃらに足を動かした。
後ろで何かを叫んでいる声が時雨の耳に届いたが、雨の音で内容はかき消されてしまっていた。ただその叫び声は怒りを含んでいることだけは時雨にも感じられて、恐怖をばねに懸命に時雨は走った。水溜りに足が思いきり突っ込んでいることなどは気にならなかった。
繁華街の中に行きさえすれば、捕まりそうにさえなっても大声で助けを呼べばいい。そう思って、時雨は最後のスパートをかけようと、足に力を入れた。
けれどもその瞬間、右の道から出てきた大きな胸板に勢いよくぶつかってしまった。鈍い音がしたが、ぶつかった人間はよろけることもなく、逆によろけた時雨を支えてくれた。
――――人だ、よかった!
そう思って時雨は助けを求めようとその人の腕を握った。
「助けてください、変な人が追いかけてくるんです!」
そう言った時雨の肩を、ぶつかった男性はゆっくりと撫でた。時雨が戸惑って、あの、と呟いた瞬間、肩を撫でていた手が時雨の腰に当たると、ぐっと力が込められた。
――――ああ、しまった。
時雨がそう思ったときにはもう遅かった。時雨はそのまま持ち上げられ、男の肩に乗せられていた。この人もあの女の人の仲間。時雨がそう気づいて、逃げなくてはと時雨が身体をよじっても、男の背中を叩いても、その男はびくともしなかった。
叫べば繁華街に届く距離だろうか、そう思っても、全力で走ったばかりの時雨は息苦しさで声など出せるものではなかった。
「何逃げられてんだ」
「ごめん、抵抗されると思わなかったから油断してた」
時雨の抵抗も空しく、男女は軽く話をしながら歩き出そうとしていた。さっさと戻ろう、そんな会話が時雨の耳に入って、時雨は恐怖で涙が出てきていた。
どこに連れて行かれるの、何されるの?やめて、いやだ、助けて、誰か…。たくさんの言葉が時雨の頭の中を一度に駆け巡る。
どうにかして逃げなくては、そう思っても時雨の身体はしっかりと男の腕の中に固定されていた。時雨を抱えたまま、二人はランニングほどのペースでどこかに向かっているようだった。
いつの間にか雨で時雨の体中がベトベトになっていて、髪の毛は顔にべったりと張り付いていた。ひゅうひゅうと、時雨が呼吸をするたびに肺が苦しそうに音を立てる。
このまま寝てしまったほうが楽かも知れない。恐怖から逃げたいあまり、時雨の意識は遠のいて行った。頭の中が白くなっていくのが時雨自身に分かった。何も考えられなくなっていく。体にあたる雨が子守唄のように思えてきて、気持ちがいい。
時雨は全体重を、自分を抱えている男に預けた。
眠りに落ち始めた時雨の頭の中に、どこかから声が聞こえてくる。
……ねえ……行かないで、おねえちゃ……。
ああ、またこの夢。時雨は諦め半分でその声に答える。
違うの、喜雨、行きたいわけじゃないの、連れて行かれちゃうの。
おねえちゃ……おねがい、お願い……行かないで……。
だから、私だって行きたくないんだって。そんなこといわれたって、この人たちが私を連れて行っちゃうの。
おねえちゃ……えちゃん……駄目、殺されちゃう……。
いつもと違う。時雨は初めてその違和感に気付いた。
駄目?殺されちゃう?どういう意味なの、ねえ、喜雨、教えて!
喜雨の声はすでにフェードアウトを始めていた。
ああ、消えてしまう。消えないで、喜雨、どういうことなのか教えてったら!
時雨の声はもう喜雨に届かなかいようだった。かすかに喜雨の声が聞こえるだけだ。
あぁ、もう夢が終わってしまう、あとは喜雨の最後の声で終わり。諦めて、時雨がそう思った瞬間だった。
いやっやあああああああああ!
一瞬意識がとんだ時雨の頭の中に、劈くような大きな声が響いた。あまりの音に驚いて時雨は渾身の力を込めてガバリと身体を起こす。
行き成りの行動で、添えるほどまでに緩めていた男の腕から時雨は転がり落ちた。地面に強く身体をぶつけたはずだが、その痛みを時雨は不思議と感じられなかった。
――――今のは、喜雨の叫び声?
時雨の頭の中に叫び声が未だに響いてガンガンと木霊していた。
けれど、身体はすることを分かっていた。地面を蹴って走り出す。逃げて、喜雨を助けに行かなくては。尋常ではないほどの喜雨の叫び声で、時雨の中に浮かんできたのは妹を無くすのではないかという恐怖だけだった。喜雨を助けなくては、思うのはそれだけ。
いつの間にか辺りは真っ暗になっていた。今度こそ明るいところへ行こうと、時雨は知らない道を全速力で走り出す。どこでも良いから、人がたくさんいる場所に行かなくてはとその気持ちだけで時雨は走り続けた。
そしてどれくらい走ったか分からなかったが、やっと一筋の光を見つけた頃には時雨はふらふらだった。めちゃくちゃに走り回って、時雨の進行方向に、眩しい明りが現れたのだ。あそこなら人がいるはずだと、あそこまでどうにか行かなくてはと、そう考えて時雨は懸命に足を動かす。
時雨の耳に、後ろから二人の声が聞こえていた。このチャンスをのがしたら、確実に逃げられないということは時雨にも分かっていた。逃げられたら足が使えなくなったっていい、そんな思いで時雨は道を駆けていく。あと少しなのだ。
十メートル、五メートル、三メートル……。
光りまでの距離はどんどんと縮まっていく。
その光だけを一目散に目指していた時雨は、そこだけが異様に明るいことも、その光が明るすぎて向こう側が何も見えないことも考える余地はなかった。
――――にい、いち、入った!
心の中の掛け声とともに光の中に全身を入れた瞬間、ぐにゃりと時雨の目の前が歪んだ。
――――え、なに?
時雨がそう考えることができたもつかの間で、次の瞬間に時雨はその場で気を失ってしまった。




