GAME OF SHADOWS#13
閉ざされた、終わりの見えない闘技場。その中で吸血鬼と化したワラキア公は、その尋常ならざる力をもってしてもなお強敵であるオスマン帝国のパーディシャーと対峙していた。
登場人物
―冷酷帝…パーディシャー、ハーンの中のハーン、スルターンの中のスルターン、両聖都の下僕、それ以外の多数である帝王。
―串刺公…ワラキア公、人ならざる者、龍の息子、それ以外の多数である吸血鬼。
詳細不明:異位相
串刺公ヴラド三世、恐らく世界で最も有名なワラキア公はメッセージ性を理解していた。彼は激烈であり、ある意味では――少なくとも多少のイメージ性においては――冷酷帝セリム一世とも似ていた。
実際のところ両者は全く別の王者であり、政治形態や文化や歴史的経緯の違いはこの際度外視するとしても、彼らは全く異なっていた。
そういう意味においては、ワラキア公のやり方は神童イスマーイール一世のそれと似ているのかも知れなかった。彼らは目的に基づいた純然たる殺意によって殺したのだ。その内心の葛藤は別として、彼らは強く明確なヴィジョンによって殺意を持って殺戮した。
イスマーイール一世の反対勢力殺戮とヴラド三世のオスマン軍捕虜の殺害――及びその『展示』『掲示』――は自らの殺意によって行なわれ、そしてその敵対勢力へのメッセージとなった。
まあ、確かにセリム一世の殺戮や粛清にもメッセージ性は認められよう。しかし彼には殺意が欠如していた。殺したいと思う事が無かった。目的のためであるとかあるいは個人的な感情であるとか、そのような理由によって発生するはずの殺意が無かった。
彼は忌むべき歴史の黒幕であり時間線のあちこちに存在しているMが〈混沌剣〉及び破壊的征服者として他の剣同様に鍛造したものでありながら、彼自身の殺意が存在していなかった。
あるいは単に、殺したいと思えるハードルが高過ぎるのかも知れなかった。故にパーディシャーは事務的に殺し、そこに己の殺意が存在する余地は無かった。
故に串刺公と冷酷帝は全く異なる者同士であり、戦場で対峙した彼らは今一つ噛み合いが見られなかった。互いに擦れ違っていると言えた。
串刺公は己に降り掛かる無数の攻撃をいなさねばならなかった。相手は合理的であり、磨り潰すような戦い方であると言えた。軍勢は恐ろしい程に統制され、他のイスラーム諸国のそれとはやはり一線を画すオスマンという特異点であるように思えた。
容赦無きワラキア公がかつて対峙した時のオスマン軍とはやや事情が異なるように思われた。装備は更に先進的になっており、なるほど目の前の軍勢を率いるのがあのアレキサンダー大王のファンであるスルターンの孫世代である事を強く意識させた。
今回こうして一点突破を仕掛けたのは理由があった。明らかに召喚した軍勢同士の正面衝突ではヴラド三世の側は不利であった。彼は信じられないようなぞっとする経緯によって伝説通り吸血鬼と化したわけであるが、その上でも軍勢を呼び出す事が可能なティアに属した。
この忌むべきゲームには終わりがあると思えず、結局のところ神が赦す日まで戦い続ける他無いように思われた。あたかも、北欧地域のヴァイキングと呼ばれた諸民族が死ねば行けると信じていた戦士の楽園における永遠に等しい闘争のように。
征服帝の権力は絶大であり、彼は己の権力の源である軍勢に対して権力由来の防御術を施していた。故に刃が思ったように通らず、貫通が難しく、一人一人の殺害に思ったよりも手間取った。生前戦った征服帝の軍勢よりも『硬かった』。
厳密に言えば彼らがこうして戦っている〈影達のゲーム〉では通常とは権力の法則に違いがある。通常、権力は自己によって発生させられる権力――東洋人が『気』として理解するもの――を除き、有限である。
有限であるからこそ己の権力基盤、例えば民や軍や国やその他の集団が己の近くに存在し、そしてそれらの上に君臨している事によって超常的な能力を発揮できるのだ。
権力を支える基盤が手元にほとんど無いプライベート空間における暗殺はこのようにして発生する――己に権力を供給する人々が少なく、それ故に大勢がいる時のような莫大な供給が受けられず、能力が低下して脅威への抵抗に失敗する。
まあ例えば家臣団に囲まれる、つまりその一人一人が一端の権力者である者どもを侍らせた状態であれば、場合にもよるが充分な権力供給が受けられよう。
家臣の一人一人はその時己の権力基盤から切り離されて権力由来の異能が弱まっている事がほとんどであろうが、しかし不可思議なメカニズムによって『それら家臣の頂点の権力者』は充分権力を発揮できる。
しかし〈影達のゲーム〉においては、他者ではなく自らに依存する権力を振るう権力者でなくとも、超人的な能力を発揮できる。
権力以外の力、例えば魔術やその他の異能を持たない者でも人ならざる戦闘が可能となる。恐らくこれは〈影達のゲーム〉が、権力者達がそれぞれ二つの〈同盟〉に分かれて戦うという特異なルールである事に起因して、そのようなルールとなっているものと推測された。
つまり神話時代の英雄や大魔道士達すらも入り乱れて戦うわけであるから、そうなると権力以外の異能を持たない者は単独行動の際などに極端な不利が生じるのだ。
強い悪意を持つ権力者、例えば魔術師の類いが味方にいた場合、それの気紛れによる暗殺の脅威も考えられるため、権力以外の異能を持たず自己完結型の権力供給ができない権力者はこれを警戒して己の権力基盤を召喚しようとするであろう。
しかし元々想定していたゲームの性質上、いちいち己の権力供給のためにそれぞれが権力基盤となる軍勢やその他集団を召喚しては嵩張って仕方無いのであろう。となると、権力者がそれ単独である程度異能を振るえるルールとなっている必要が生じたと思われた。
実際のところ最初期の頃はそのようなルールが無かったので、大抵の権力者はそれ単体で異能者たり得ず、互いに暗殺を恐れて戦場となる会場の位相に各々の集団が犇めいた。
これはこれで勢力同士の健全な闘争、すなわち互いに複雑な協力関係が交差する事にはなる。しかし元々このゲームは二つの勢力が制定されており、それを各々の〈諸王の中の王〉が統率していた。
恐らくゲームを牛耳っているM的には、それらの〈参加者〉、すなわち権力者達が各々の軍団に囲まれて、ある種の小国家を形成するという大規模な展開を嫌ったものであると思われた。
それよりももっと近距離の関係、それぞれの〈同盟〉の中で相容れない者どもが不安定な同盟関係を結んで敵と対峙する展開を好んだのであろう。
軍勢やその他の群れを召喚したり、それらの数を権力によって号する場合、ある種の抑止力に成り得るものと思われた。
すなわち誰かがそうしたものを召喚すれば、それは敵側の〈同盟〉のみならず味方側の〈同盟〉にも警戒心を持たせる――まあそこまで関係が険悪でなければその限りではないにせよ。
いずれにしても串刺公は己の敵が強大であると理解しており、その配下もまた頑強であり、粘り強く、深く切り込む事のリスクは承知していた。しかし彼はオスマン帝国のスルターンを目にして、冷静ではいられなかった。
恐らく彼が単にワラキア公ヴラド三世のままであれば妥協もできたにせよ、彼は眉唾ものの吸血鬼伝説そのものとなっており、それによってある種の本能としてオスマンへの敵意ないしは悪意に支配されたものと思われた。
更には、彼の側の〈同盟〉には離反しようとしている者の動きもあった。〈王の中の王〉はこれを阻止する事もできるが、しかし気付いている様子は無い。知らせるにも遠過ぎる。
離反は冷酷帝による手引きと思われ、実際引き入れたところでその処遇がどうなるかはともかく、数が減ればその分こちら側が不利となる。無益な闘技場であるようにも思えるが、しかし規定回数勝ち数を重ねてここを出る以外に光は見えなかった――まあ本当に出られるとして、であるが。
離反した〈参加者〉は相手方の〈諸王の中の王〉と互いに了承があれば、然るべき手順の上で『寝返る』事ができる。
当然離反に目を光らせるのがよくできた〈諸王の中の王〉であるが、時にはこうして見落としもあるわけだ。
というわけでヴラド三世は厄介な目に遭っていた。単独行動の身であり、その上で離反者への見せしめも兼ねて単独で冷酷帝を討ち、これの亡骸を槍の穂先に突き通して掲げておかねばならない。
裏切り者にはかようにして冷血なる単独十字軍があり得る事を提示しておかねばならなかった。
彼は吸血鬼と成り果てても正教徒であった。生前は故あってカトリックに改宗したが、それを思うと余計に己のアイデンティティとして正教徒の要素が大きく感じられた。なんであれ、キリスト教徒としての己を大切にしたかった。
そのため彼はいち早くこの牢獄的な闘技場から解放される事を望んでいた。その先己がどうなるかはわからない。神は厳粛に己を裁くかも知れないが、この人ならざる邪法の身でそれに甘んじる覚悟はあった。
それらの諸事情を思えば、ワラキア公は彼が自身で思っている以上に焦っている可能性があった。焦って両聖徒の下僕に攻撃を仕掛けていると言えた。冷静に考えれば、あまり得策とは言えなかった。
人ならざる力を手に入れ、権力無しでも既に尋常ならざる戦闘能力を手に入れており、そしてそれに権力による強化等を加えればまさに世界最強の吸血鬼と言えたが、しかしその上で冷酷帝は世界史上稀に見る強大な権力者であった。
だが、それでも彼にはそれ以外の道が無かった。少なくとも彼の主観ではそうするしかなかったのだ。




