GAME OF SHADOWS#12
オスマン帝国のかつての支配者は運命の相手を探し続けていた。本気で…自ら『殺してやりたくなる』ような相手を。
登場人物
―冷酷帝…パーディシャー、ハーンの中のハーン、スルターンの中のスルターン、両聖都の下僕、それ以外の多数である帝王。
―串刺公…ワラキア公、人ならざる者、龍の息子、それ以外の多数である吸血鬼。
詳細不明:異位相
その男は外出先用の簡素な食事を平らげ、口元をゆったりと布で拭い、改宗奴隷兵士の服装にやや似せた形態の暗い赤のカフタンを羽織り、その上から最低限の鎧を着用していた。
ほとんど平服に近いその男は、己の死後百年と少し後にイギリス人が好むようになったという紅茶を試しに口に含んだ。
銅とガラスでできた茶器を持たせた給仕は何やら不安そうに立ち竦み、しかし男は何事も無い様子で吟味し、それから言った。
「面白いが、今のところはレモネードでよかろうな」
そう言うとレモネードを自分でグラスに注いで、飲み始めた。空は不機嫌な日のノーヴゴロドか、あるいはむすっとしたブリテン島北部のような曇天であり、嫌な風が吹いていた。
息は白く染まり、手がやや悴むものであった。
男は天幕近くの簡素な野外玉座に座っており、右脚を上にして脚を組み、右肘を肘掛けに衝いて右手で己の顎を支えつつ、グラスを給仕に戻してから合いた左手で髭を軽く弄んでいた。
手で軽く給仕に下がるよう指示し、それから男は下から睨んで見上げるような形で目を上空へと向けた。
するうち何やら無数のものが鈍く輝くのが見え、それらは雨のように降り注いだ。
それらの雨粒はよく見ればそれぞれが槍であり、血錆の浮かんだ穂先が鈍く輝いて見えた――スルターンの中のスルターンでありハーンの中のハーンであり両聖都の下僕であるパーディシャーは、心底退屈そうであった。
彼の上空でそれらの槍の尽くが、軍勢の放つ矢によって相殺され、血錆の槍はそれによって次々と血飛沫のごとく蒸発していった。
周囲の近衛どもがいきり立つ中、彼は欠伸をしながらまた髭を触り始めた。周囲からは凄まじい騒音が響き、実際のところスルターンを取り巻く軍勢は慌ただしく『侵入者』への対応に追われていた。
見れば血の間欠泉のようなものが吹き上がり、それによって多数の兵士が跳ね上げられたのが見えた。
甲冑や剣、そして銃砲の音が鳴り響く中、かつて八年という短期間で己の帝国をより巨大なものへと変えたその男はどうしようもない欲求不満に襲われていた。
「否、否、否。そうだ、否であろうな。こうではない」
あるいはこの者であれば、と彼は考えた。偉大なる己の祖父の覇道に立ち塞がり、巌のごとく厳格に抵抗した者であれば、と彼にしてはやや生易しい期待をした。
血が形を成し、それらは武器や防具となって乱舞し、その中心にいる病的な色白の男は血の刃を一回展して全周囲に投げ付け、肉体を蝙蝠の群れへと変じて移動し、あるいは有害な血の霧となって襲い掛かった。
兵士達は次々と蹴散らされたが、しかし数が数であり思った以上に進撃は遅れていると思われた。無論狙うは大将首なれど、それは遠い夢であった。
地面からは無数の槍が出現して犠牲を出したが、しかしパーディシャーの及ぶ権力は莫大であり、その中で力を振るうのはいつもの調子とはいかなかった。
そのため色白の公は時折激烈な反撃を蒙り、血で作り出した外延部が破壊された――崩れても再形成できるはずの血を粉々に砕いて使用不能にしてくる軍勢の攻撃は恐ろしいものであった。
大砲が凄まじい轟音で発射され、先程まで公がいた場所で炸裂し、それの炸裂した場所には凍えそうな程の冷たい黒い液体が暫く渦巻いていた。
パーディシャーは全軍の支配者として莫大な権力を供給され、それによって己の力を保持していた。しかしその実彼は自ら攻撃などしておらず、軍勢に迎撃を一任させていた。
彼は己が何に巻き込まれているのかはっきりと理解していた。この影の闘争は歴史上繰り返されてきた裏の戦いであり、忌むべき何かがそれを裏で牛耳っている事もある程度予測していた。
恐らく神は己のその冷酷さを嫌ってこのようなゲームへと参加するよう運命を定めたのであろうが、しかしそこで思ってもみない巡り合わせを得た。
己の祖父である征服帝ですら苦戦を強いられた怪物と巡り合ったと悟った時、彼はにわかに心が踊るのを感じた。この男であれば、あるいは…そのような考えに支配されたのだ。
かつてのワラキア公はオスマン帝国のかつての支配者である己を、ある感情の虜にしてくれるかも知れない。
しかし、なんと期待外れであった事か。お前なら私を『お前を殺してやる』という純粋な殺意に浸らせてくれると思ったものを。
パーディシャーは懐からローズオイルの入った質素な小瓶を取り出し、その中身を嗅いで己の失望を慰めた。
チャルディラーンの地でサファヴィーの神童とやらを撃破した時も全く同じであった。
己の帝国に忌むべき不穏の種を植え付けるものどもの最高誘導者であり、因縁の敵であると思っていた。そのために帝位を求め、そのために親征までしたのだ。
そのために同じムスリム相手でも、聖戦も辞さない覚悟でいたのだ。それが、どうだ。なんなのだ、これは。冷酷帝は無敵と謳われた神童を打ち破った。そこには何も無かった。
いや、そもそも戦闘開始した時点で何も感じられなかった。相手を憎めると考えていたが、そこには何も感じられなかったのだ。
自ら刀を抜いて討ち入るような、あるいは自ら銃を手に…そのような事を前夜考えた。
だが、イスマーイールと名乗るその若い男を、殺そうという気にはどうしてもなれなかった。彼は慈悲に目覚めたのではない、ただ単に、この男を殺したいという欲求が全く無くて、それに困惑したのだ。
何が足りないのかはわからなかった。己の帝国の敵を殺したいと思うのは君主として当然なのではないか。なのに、何故殺意が湧き上がらない?
アナトリアには同じテュルク系ながらオスマンに対して反発している候国が元々あり、それらの領土を帝国領に組み込んでからも、中央集権的なオスマンの支配態勢への反発はあった。
神童たるイスマーイール一世はある意味では冷酷帝とも似ていた。すなわち神童たるサファヴィーのシャーもまた残酷さを見せる事があり、改宗を拒むスンナ派住人や旧勢力の者達に対して無慈悲な殺戮を働いた。
一方で両者共に詩人であり、冷酷帝はペルシャ詩を、神童はトルコ詩を遺した。共に軍事的天才でもあった。
しかし一方で全く違う面もあった。神童にとって殺戮はメッセージであり、純然たる殺意と共に後ろめたさをも併せ持っていた。しかし冷酷帝にとって殺戮はただの手段であった。事務手続き上の手法であり、必要に応じて大量殺戮から特定個人の粛清まで実施した。
スルターンの中のスルターンはそもそも殺意など無く、事務的に命令して殺させたのみであった。彼は軍で最も支持を受けた王子であり、苛烈さを奮ったが、それらはあくまで手段でしかなかった。
彼はMによって破壊的征服者として設計された剣でありながら、殺意は感じず、破壊にも一切感じるものが無かった。彼はある意味で壊れており、設計上の在り方と大きくずれていた。
故に彼は『誰かを本気で殺したい』と思った事が無く、深く悩んでいた。サファヴィーに通じると言われた四万人にも及ぶ反抗者を始末したと伝わるが、しかしこれも彼の心を満たす事は無かった。
己の帝国を疾患に導く異国と通じる者達に対して怒りと殺意を抱くと思っていた己の心はしかし、何も感じなかった。
彼の冷酷さは多くの命を奪ったが、当の本人にとってそれは政策上の手続き以上の何者でもなく、彼は困惑を覚えた。
ではやはりこれしかない、と最後に縋ったのがイスマーイールであった。やはり彼に対してであれば、純然たる殺意を持てるかも知れない。
自らの帝国の安寧を脅かす外患と対峙し、そこで激戦でも演じれば更に殺したいという欲求が高まりそうに思えた。
しかし彼は単純な数学的な問題を勘違いしていたらしかった。すなわちゼロにゼロを掛けても、それはゼロでしかないのだ。
八年の短く、しかし濃密な在位期間を送ってこの世を去った冷酷帝はMの催す〈影達のゲーム〉の〈参加者〉として、死後の愚弄に浴した。
アッラーの使徒にして下僕である己が得体の知れない正体不明の何者かの遊びに駆り立てられる事を他人事のように受け止めつつ、その中で彼は運命の相手を待ち続けた。すなわち己が全力で殺したくなるような相手を。
理由はどうでもいい。憎さや嫉妬、あるいはそれ以外でも構わない。とにかく殺したいと思えるような相手を見付けたかった。適当に部下に処刑させるのではなく、己の手で葬り去ってやりたい相手を渇望した。
故に彼は己の偉大な先祖である征服帝を苦戦させたワラキア公であれば、まさに帝国の憎き敵として深く憎悪し、自らの両手で縊り殺してやりたいとすら思えるのではないかと期待した。
しかもワラキア公は人ならざる者の力を手にしていると聞く。いかなるジンか、あるいは異教の怪物か。まあ、なんであれ邪悪な化け物を討伐するという大義名分に燃えられそうな予感がしていた。
かつて大帝国を統べ、あらゆるイスラーム世界を屈服させた己が討伐すべき相手であると認識できる予感がしたのだ。
しかし、冷酷帝セリム一世は串刺公ヴラド三世に対して、何も感じる事ができなかった。
「陛下、お体に触ります。どうか退避を」
己の軍勢として蘇っているある種の霊体じみた家臣どもがそのように言っていた。だが、それがどうしたのか。
軍勢は谷になっている箇所で布陣しており、谷を挟んでいる両側の小高い山も確保していた。不意打ちは縦方向からでないと難しく、そして縦に深い陣営であった。
冷酷帝は予め指示をしていた。敵を誘い込めるよう迎撃の手を少し緩めさせた。敵の戦闘能力を予想して深追いや過度の交戦を禁じさせ、犠牲を少なくしようとした。
そしてそれと同時に、敵が己の陣にまで迫るリスクを作り上げた。
彼はそうする事で、すなわちハーンの中のハーンでありスルターンの中のスルターンであるパーディシャーにそこまでの驚異を与えるよう『仕向けて』やれば、自動的に己ははその敵を深く『殺したい』と思うはずであると。
しかしすぐ数百メートルにまで迫る喧騒を聞いたところで、結局何も感じるものはなかった。相手は愚かにも無策でここまで乗り込んできていたらしかった。
征服帝はこのような無策な輩に苦しめられたのか、あるいは串刺公とやらは、己の獣性にでも飲み込まれて戦術の冴えを捨ててしまったのか。
いずれでもよかった、何故なら冷酷帝セリム一世にとってもはや、串刺公ヴラド三世は『事務的』に始末させる程度の問題でしかなかったから。




