NYARLATHOTEP#24
這い寄る混沌は邪悪を討滅するものであり、当然の結果としてグレート・コンシューマーの全権大使に勝利した。しかし見方を変えれば、この女とてかの神の可愛い子供達の一人である事は否定できなかった。
『名状しがたい』注意報――この話は冒頭から文体がけばけばしく、改行が極端に少ない。
登場人物
―ナイアーラトテップ…美しい三本足の神、活動が確認されている最後の〈旧支配者〉。
―パルヴァライザー…超エネルギー生命体グレート・コンシューマーのエージェント、現パルヴァライザーである未知の種族の女。
【名状しがたいゾーン】
約五〇億年前、〈惑星開拓者達の至宝〉の一件以降:不明の銀河
女は悍ましい意志を持っていたが、しかし吐き気を催すそれは三本足の神によって打ち砕かれた。滅殺するものであるかの神の力には終ぞ叶わず、パルヴァライザーは己を覆っていた赤いオーラを減退させて海面に浮かんでいた。するうち銀色の不燃性エタノールの海面は時化が終わり、再び穏やかな水面が悠久なる営みを見せ始めた。夜闇を照らす星明りと巨大な衛星の反射光がぼうっと銀色の海面を浮かび上がらせ、妖艶なる白蛆の魔王ルリム・シャイコースの幽玄なる宮殿じみた趣きがあった。己の敵対者を見下すために一旦上空数十マイルまで浮かんでいたかの神は、銀河帝国の裁判官のごとき厳粛さを纏ってゆっくりと下降しつつ、パルヴァライザーなる瀆神者が落ちた海面の方へと進んで行った。その様があまりにも神秘的であり、同時に厳かであったものであったから、周囲の森羅万象が恭しくこれに敬意を示し、あらゆる全てが穏やかになった。ふと見れば空の地平線や水平線に近い辺りをぼんやりと覆っていた赤い色合いが霧散し始め、緑色のそれへと変わり始めた。思えばこれらもあの女が纏うグレート・コンシューマーのエネルギーに典拠した現象であるのかも知れず、目の前の変化から察するに恐らくそれで間違い無いと思われた。文明の喧騒から遠く離れたこの星系に再び穏やかな運行が戻り、その寿命を急激に縮めていた近縁のブラックホールはその死に向かう消散から解放されたらしかった。慈悲のある沙汰がその辺りには齎されたと思われたが、一方で愚かにも最後の〈旧支配者〉に叛逆するという、アザトース崇拝者の異端派の狂信者の最も奔放な妄想にすら終ぞ登場する事無き自殺行為に浴した八本腕の女は、己の行ないが作り上げた慄然たる結果に直面する事となった。冒瀆的なパルヴァライザーは海面を仰向けで漂いながら、彼方の上空からゆっくりと降下してこちらに向かって来る美しい三本足の神の姿を認めた。数十マイル向こうからあえてゆっくりとやって来るその姿は冷酷極まる執行人のそれを思わせ、女は絶えて久しい感覚を味わった――あらゆる柵の外側に出て好き放題できると思っていた己が、純粋な恐怖に打ち震えているのだ。よもや頂点捕食者達に名を連ねたつもりでいた己が、何者かに著しく侵害されるという暗澹たる事実に直面する事になるとは、永い事思考に浮かんだ事すら無かった。
パルヴァライザーは超エネルギーの実体であるグレート・コンシューマーの現世における全権大使であり、すなわち代理人であり、化身であり、ある意味では側面とすら言えた。実際のところグレート・コンシューマーという総体の三次元部分全体をその身に宿しているのであるから、少なくとも今の彼女は三次元上におけるグレート・コンシューマーそのものと言えた。であるのに、ゆっくりと向かって来るナイアーラトテップは這い寄る混沌であり、大力の者であり、原初世代のインドラであり、邪悪を嘲笑う滅殺者であった。故にかの神が当然のように勝利し、好き放題己の傲慢を肯定できた女はかようにして恐怖に身を蝕まれていた。パルヴァライザーは彼女が望めば当然の結果として惑星が干上がり、粉々に砕け散ったものであった。彼女は気紛れで星間文明の時計の針を文明誕生前に戻すかのごとき大破壊で灰燼に帰す事ができ、そしてこれまでと同様にこの銀河も、飽きが来て遊び終われば丸ごと破壊してエネルギーに変換して貪り食おうと考えていた。そこまでの超常的な力を有するはずの己が今こうして何もできぬまま波の上で倒れ、何もできぬまま処刑人の到着を見守っているのだ。やがて彼女は恐怖に匹敵する別の感情に支配された。シャイターンの廷臣どもとてあえて夢想などせぬナイアーラトテップへの苛立ちを募らせ、己の運命を呪いながら激怒していた。
何故か、何故コズミック・エンティティの類いであるこの己が、このような手酷い敗北に塗れておらねばならぬか。これは他の雑魚どもが享受すべき運命ではないのか、それが何故己のような、気紛れで他の虫けらどもを蹴り飛ばして宇宙を歩む者に適用されねばならぬのか。他の者ならいざ知らず、己こそはグレート・コンシューマーと等しき身なれば、かような沙汰などあり得てたまるか。
しかし彼女の激怒は現実を変える力を持たなかった。彼女は万全であれば、その力の使い方を工夫すればニルラッツ・ミジ、すなわち己の望みによって現実を再構成する力をある程度行使する事すらできた。恐らく力へと更に習熟すれば、宇宙を支配して時空連続体そのものを己の俯瞰する箱庭として管理できるであろう。しかし現実にはそうならなかった。芽は摘み取られたのだ、グレート・コンシューマーを若造扱いする事すら可能な古き実体によって。
「さて」と美しい三本足の神は言った。かの神の頭上で星界の海が燦然と輝き、この惑星が持つ輪がぼうっと輝き、衛星もまた独特の存在感を放っていた。
「貴様は敗北したのだ。私の宣言通り貴様はそこにいる。私は貴様を『崩れる事の無いように思われた一生涯の玉座』から引き摺り下ろし、そして裁きを待つ身へと落としてやった。貴様は無様に堕天する叛逆者であり、頂点捕食者の成り損ないであり、そして所詮下郎は下郎に過ぎぬという根本的な事実の、新たなサンプルとなったのだ」
アルゴンを主成分とする大気は安定し、風は鳴りを潜め、惑星上のありとあらゆるものが今この場で起こっている事をじっと見守っていた。神に逆らうという愚行の代償がどのようなものであるかという、興味深いにしてもあまりに恐ろしいそれを見る事になったのだ。
「無様よな、貴様。高らかに神を冒瀆しておきながらその様。今貴様は己の運命を覆す事叶わず、虫けららしく横たわるのみなり」
その声はすぐ後方から聞こえた。女が力無くそちらに視線を送ると、そこには三本足の神がいた。
「弱者が強者に逆らって見せた、とでも形容してやろうか? 勝てるはずもないのに貴様はこの私に戦争を売り付けたのだ、だが知っておくべきであったな、相手が戦争を買ったという事は、万が一貴様が敗北する事に成り得ると」
その声は彼女の右側から聞こえ、見ればそこにもまた三本足の神がいた。
「どのような厳罰をくれてやろうか? 死か? それともそれ以外か?」
その声は頭上から聞こえ、そこには腕を組んで己を見下ろす三本足の神が見えた。彼女は己からある程度距離を離した地点で浮遊している三本足の神の複数の側面に取り囲まれ、無様な敗北について詰られていた。
「今の内に晒せるだけの無様を晒しておけばよい、貴様に許されるのはそれのみなれば。ナイアーラトテップはそれ以外を許可しておらぬ。貴様は理解せねばならぬのだ、私が貴様の全てを掌握しているという事実を。貴様は私に敗北して傷付き、今や力も満足に振るえぬ始末。私が望めば掻き消される程度でしかないと知れ。誰と戦って負けたかを自覚し、これから起こる事に恐怖し、無様な恐慌を見せろ。貴様の創造主がそれを望めば、貴様はそのようにせよ」
それを言うナイアーラトテップの側面は彼女の眼前にいつの間にかいた。そして見ればいつの間にか、七体どころか数十数百――あるいは数万かも知れなかった――の側面が彼女の周囲に浮かんでいた。
「莫迦なものよな、私に話し合いを持ち掛ければあるいは情けを掛けてやってもよかったものを。貴様は自ら勝ち目の無い最終戦争を選択し、そしてその結果としてここにいるのだ。その意味を知れ」
身をもってな、とは口にしなかった。かの神の同じ姿をした大量の側面達は結晶じみた戦鎚を構え、そこに凄まじいエネルギーの渦が発生した。名状しがたいドールの眷属が大口を開いたがごとく、それらエネルギーの渦は底知れぬものを感じさせ、これから起こる事を明瞭に物語っていた。俯瞰して己の総体を同時操作しているナイアーラトテップはそれらを一斉に行使させ、己の望む結果を作り上げた。
最後の瞬間、力無く屈辱に浸る女は、恐怖と怒りの混ざった蜘蛛じみた九つの目で己に迫るそれらを眺め、どうしようもない己の運命を大層理不尽に思った。
そしてそれを感じ取った美しい三本足の神はこのように思った――貴様に摘み取られたあらゆる全てとて、今の貴様と同じ心境であったのだ。それが理解できておれば、貴様は慈悲深き旅人として各地で施し、敬われ、謙遜を覚え、やがて語り継がれたもの。
だがそれと同時にこうも考えた。己の子らの一人が、またこうして悪の道の果てに破滅した。
それを思えば、悪による汚染を広めた〈旧神〉を愚弄するのではなく、憎む他無かった。




