NYARLATHOTEP#20
美しい三本足の神は今や全能ではない――諸宇宙の設計者である彼ですら知らない諸力が存在し、かの神は不燃性エタノールの銀色の海を持つ惑星でその一旦と遭遇する。
『名状しがたい』注意報――この話は冒頭から文体がけばけばしく、改行が極端に少ない。
登場人物
―ナイアーラトテップ…美しい三本足の神、活動が確認されている最後の〈旧支配者〉。
【名状しがたいゾーン】
約五〇億年前、〈惑星開拓者達の至宝〉の一件以降:不明の銀河
宇宙の空虚な深淵の果てに、悍ましいものを見た経験は一度や二度ではなかった。美しい三本足の神は、真の邪悪を飽きる程目にし、その都度それらとの対峙を望んだ。尋常ならざる非ユークリッド幾何学的な角度を持つ異界の悪鬼どもを薙ぎ払い、悪意ある風刺画を戯画化したものよりも遥かにグロテスクな悪意を滾らせた邪悪どもを討ち滅ぼした。しかしながら次から次へとそれらの縁者かそれに近い虫けらどもが最後の〈旧支配者〉を悩ませるに至った。それらはもしかすれば今後も無限に出現するかも知れず、時間線そのものを俯瞰する事は不可能となった現在の三本足の神にとっては、暗澹たる今後の行く末が死にゆく恒星のごとく重く伸し掛かった。彼はあらゆる宇宙とあらゆる位相――及びそれ以外の領域――に己の側面を派遣し、今もこの多元宇宙のどこかでそれらと戦い続けていた。かの神は己が唯一心から愛する妻と会う間すら惜しまねばならず、大量にいるが無限ではない側面の内の一体が時折彼女と時間を共有するのみであった。
かようにして最後の〈旧支配者〉であるナイアーラトテップは苦難の道を歩み、全体的な視点で見ると増えているのか減っているのかもわからない悪の内、明らかに〈人間〉の手に余る者と優先的に交戦していた。這い寄る混沌の名で知られるかの神は邪悪を嘲笑い、その尽くを打倒してきた次第ではあるが、しかし宇宙がかようにして無慈悲かつ無秩序である以上、汚染されてしまったこの土壌が次の巨悪を生み出し続けていた。終わりも見えず、そもそも終わりがあるかも定かではない黯黒の中を歩み続け、とにかく手当たり次第戦い続ける他無かった。通常の時間概念で考えると、あの吐き気を催すグロテスク極まる悪逆の徒ども、己らを〈旧神〉と名乗る史上初の悪どもと戦争した日々から地球時間で言うところの五〇億年が経過したが、しかし未だにかの神は全盛の力を取り戻す事叶わなかった。こうしている間にも、どこかで未知の邪悪どもが闊歩し、過小評価できぬレベルの被害を発生させ、それによって星々が涙を流す有り様であった。かようにして行く先々にて山河のいずれもが血染めの有り様である以上、かの神が束の間の休みとて惜しまねばならぬ身である事にも納得がいくというものであった。
かの神の側面、あるいは地球人の一部が後に化身と呼んで理解する事となる総体の一部がある惑星の残骸の上に座していた。遠方の星が十回瞬くまで休憩しようと思い、ついでにかの神は高速で思考して現状を確認していた。美しい三本足の神ナイアーラトテップはこの場におり、それと同時にあらゆる場所に存在していた。それぞれが直面する問題について同時に処理している最中であり、神と呼ばれる高次元の実体にこそ可能な業であった。彼にとってはつい先日の事である出来事、呪われるべきリーヴァーとの戦いを思い返し、地球人の時間単位で言えば何十億年前、今後暫く栄える凍て付くガス状生物の時間感覚では六万年前程昔の事であるあの日の事を思い返し、己の無力さ故に二つの種族を救えず、彼らが対立の果てに手を取り合って手にした平和を守れなかったという事実が暗雲のごとく思考を覆った。この直径三万光年程の銀河の一角を蹂躙せしめた超新星爆発が自然のものであるかを調査するのがこの場にいる側面の使命であり、無数の側面を俯瞰して動かす這い寄る混沌の総体は他の多くの事を考えながらこの銀河が『自然』な在り方である事を祈っていた。神なる身で祈る他無い己の無力さを傍観し、ややうんざりしながら周囲の黯黒を睨め付けた。数百光年先にはブラックホールが見え、『周囲の物体の営みを利用したブラックホールの存在認識』ではなく光を飲み込む超重力源を直接視認できるかの神は、束の間の椅子としていた惑星の残骸から立ち上がってそちらへと向かった。超光速の視力という数少ない残された全盛の力の一部で観察したところ、黯黒の周囲の星系は超新星爆発の範囲外であるらしかった。惑星は無事であり、もう少し待てば生命誕生の兆候があるものと予測できた。尋常ならざる天体同士の作用が手に取るように把握できる三本足の神はそこに細やかな希望を思い描き、それが現実になる事を望んだ。かつての彼であれば現実を再定義するミルラッツ・ニジ、現実歪曲を可能としたが、しかしそのような能力を積極行使する事は嫌っていたし、今となっては行使したくともできぬ無様さであった。だがこの弱り切った姿こそがかの神の現状であるから、受け入れる他無き状況であった。
光の速さを超えて移動するかの神の心は、未だ休まる事はなく、今後も僅かな慰めを糧に戦い続けねばならないものと思われた。ぞっとするような深海じみた深緑の甲冑と星空のマントを相棒にして、右手に持つ不揃いな多面体が先端に装着された戦鎚を道先案内として、美しい三本足の神は彼方へと去って行った。
約五〇億年前、数時間後:不明の銀河、ブラックホール近縁の星系、第二惑星地表
星系は標準的な大きさであった。奇妙な緑色に輝く降着円盤を備えたブラックホールは特に異常も見られず、原則的には誰も帰って来れないそれの内側――通常の文明圏の常識ではだが――をも調査したが特に何も無かった。蒼いガス惑星はやや大きめの部類に入るし、大気が希薄な岩石惑星は豊かな鉱物資源を持っているから、今後ここに生まれる文明などがあれば初期の宇宙開発に有用であろうと思われた。かの神は華氏一二〇度というやや厳しいとは言え比較的穏やかな環境の惑星に降り立ち、周囲を眺めた。ここは文明の痕跡が見られず、また、過去に文明があった兆候も無ければ、異文明がここを通り掛かった様子も無かった。空は星空がそのまま見えており、しかし大気は生命が生まれ易い程度には分厚かった。アルゴンと硫化水素を主成分とする大気の向こう側には大きな衛星が見え、他にはこの惑星が備える四重の輪が存在感を放っていた。それら惑星外の景色はやや赤みを帯びており、空も地平線や水平線のすぐ上辺りにはそうした赤みがあった。大気の層を貫いて届く微量な放射線を糧にする紫っぽい色合いの結晶と草の中間のようなものが所々生えていたが、基本的にこの辺りの大地は荒涼としていた。地殻及び侵食の成せる業が緩やかな山々を形成し、丘のようなそれらが点在するこの一帯は雄大な印象を与えた。
だが、降り立った時にかの神は確信した――あの超新星爆発は自然の沙汰ではなかった。それの原因と思わしき奇妙なエネルギー反応を探知していた。
美しい三本足の神は惑星を探索するためにゆっくりと浮き上がり、地上から少し浮かんだ状態で移動し始めた。暫くそうしていると表面が不揃いな泡のような模様で区切られたクラーバトの鏡面が広がる地域に出て、空を写す神秘的なそれらの向こうには不燃性エタノールのやや銀色が掛かった海が広がっていた。もう数千年もすれば最初の生命が生まれると思われ、かの神の経験からすればこの惑星はとても豊かであるように思えた。星系自体も長期的な文明発展には充分であり、巨人のごとく佇む近隣のブラックホールも向こう十三億年は大人しいと見られた――というより何かしらの理由で成長が止まり、後は肥大化するでもなく蒸発するのを待つのみであった。なんであれこの惑星はとても魅力的であったが、しかし星系に微かに残っている異常な反応源として有力なのはこの惑星のみとなった。嫌な予感を打ち消せず、口以外の部位が無い逆三角形の頭部を備えたナイアーラトテップは暗澹たる心境に沈んだままで調査を続けた。何光年か先の視認不能のはずの黒色矮星を眺めては、それの冷たい様をせめてもの慰めとした。
惑星を一周した頃には何か変化があるかと思ったものの、かの神の沈んだままの心は未だ深き海溝の闇帷にあった。次第にグロテスクな感情が湧き上がるのを抑えるのが難しくなり、今や邪悪と対峙する時の面持ちと何ら変わりが無かった。現状のところかの神には破壊できないエッジレス・ノヴァの巨躯がごとき蒼の太陽は既に地平線の向こうへと沈み、空はやや暗くなっていた。太陽との距離が近いためあのように見えていたのであろうが、いなくなったらそれはそれで寂しくも思えた。荒涼たる大地と銀の海もやや闇を受け入れたものと見え、あの結晶と草の中間のようなものがぼんやりと光っていた。それもまた幻想的な様ではあったものの、しかし今のところ何ら事態の解決には至っていなかった。ふとあの腐り果てた暴食漢のリーヴァーを思い出したものの、あれの反応とは全く異なっていたため、少なくともあれとは全く関係の無い何かしらの異常であろうと思われた。しかしこのような無人の惑星に、一体どのような形で超新星爆発の原因が存在すると言うのか。星空のマントを纏い、深海のごとき深緑の甲冑でその肉体を覆う最後の〈旧支配者〉は暫く海上から少し浮かんだままで思案していた。爽やかなエタノールの潮風が緩やかに吹き、心が少しだけ満たされたような気がした。やがて三本足の神は思い立った様子で懐中へと潜って行った。薄い銀色を帯びた海水は次第に黯黒へと変わり、そのまま潜り続けていると辺りは既に闇に閉ざされていた。であるが、既に確信はあったらしかった――何かが深海に潜んでいる。未だ生命が生まれていないこの惑星に、いるはずの無い何かがいるのだ。やがて光無き黯黒の海溝、この惑星のいかなる山の標高をも上回る深みに、招かれざる異邦人の姿を認めた。
それは非ユークリッド幾何学的な実体ではないらしかったが、しかし不思議な姿をしていた。確かに美貌ではあるが、受胎して然るべき月日が過ぎた後の〈空を眺めるものども〉の胴体を独特のセンスでぐちゃぐちゃに歪めたかのようなエキゾチックな風貌であった。胴と一体化している頭部には蜘蛛のそれじみた九つの黒い目があり、口に当たる器官は見えなかった。恐らくは皮膚を通して大気中から何かを摂取する種族の出身であろう。巨大な水疱のようなものに覆われ五本の指を有する腕が八本あり、腕部と脚部とを兼ね備えていると思われるやや筋肉質のそれらは異郷的とでも言うか、実にエキゾチックな印象を与えた。麗人である事は真違い無いのであるが、しかしどうにも異邦人的であるのだ。胴の下部は白い歯列がランダムな配置で何箇所も生えた歪んだ何かの顔面を模したかのような、まるで神々やその使いの天人どもが纏うそれにも劣らぬ優美な生々しいピンクの服を着ていたが、こうして全体像を見ると、ぼうっと赤く輝いては赤い靄のようなものを放っているこのエキゾチックな美形の女――初見の種族だが立ち振る舞いが彼の経験上からはそう見えた――は露出度が高いようであった。
とは言え、かの神はこの美人が明らかにその種族の常と異なる事が理解できた。というのも、この女が纏う赤いエネルギーは明らかに〈人間〉が備えるような類ではなく、それらの文明が開発したり支配したりできるような規模ではなかったのだ。少なくとも宇宙の果ての窮極へと達した種族でもなければ制御する事など絶対にできまい。経験や消去法で考えればこれは明らかに何かしらのコズミック・エンティティのエージェントであった。
「いきなりで悪いな。我はナイアーラトテップ、宇宙の創造主達の一人なれど、既に私にとっても未知が増え過ぎたがため、そちらがどのようなものであるかを知らぬ」
不燃性エタノールの深海の闇帷の中でかの神は不思議な印象の美人に話し掛けた。内心では平和裡に解決できる事を祈っていた――神である己が祈った事でそれが叶った試しはほとんど無かったが。
「おや、私を、その背後の力を知らないのかしら? 神ともあろうものが?」
現在とそれ以外の時間が曖昧な声で、女は悪戯っぽく笑いながらそう言った。あたかも、至高の甘露である邪悪の魂を前にして恍惚としている慄然たるリヴァイアサンのごとく。
莫大な量の海水を掻き分け、かの神は尋常ならざる力によって山より深い海底から一気に数千フィート上空まで吹き飛ばされた。
「私はグレート・コンシューマーの現パルヴァライザーよ。神様相手でなら少しは退屈凌ぎになるかしらね?」
奇妙に歪んだ胴体から八本腕を生やした麗人は海面に浮かびながらそう言った。吹き飛ばされながら三本足の神は戦鎚を構え直し、上空で不意に停止して戦闘態勢に移った。
「我が子と思って慈悲を掛けるべしと思ったものの、しかしこれではな」
這い寄る混沌ナイアーラトテップはばさりと星空のマントを広げ、〈輝ける捻じれ多面体〉の柄を伸ばして両手持ちとし、執行人じみた厳粛さで眼下の敵を見下ろしていた。なるほどこれが超エネルギーの実体グレート・コンシューマーの依代であるパルヴァライザーであるか。我が敵たる虫けらどもはいつもこういう危険な手合というわけだ。
フェニックス・フォースのパクリ。




