SPIKE AND GRINN#21
ガティム・ワンブグはスパイクと同等の最強の異物を所持しており、彼はジム・ロスを始末するために現れたらしかった。何もかもが不確かなこの状況で、様々な事が起きた。
登場人物
―スパイク・ジェイコブ・ボーデン…地球最強の魔術師。
―グリン=ホロス…美しい〈秩序の帝〉。
―ライアン・ウォーカー/ヴォーヴァドス…事件を追ってLAにやって来た元〈旧神〉。
事件発生日の翌日、朝︰カリフォルニア州、ロサンゼルス、ヴァン・ナイズ
いかにも恐るべき話ではあるが、何故かこの場に凶悪犯たるガティム・ワンブグがいた。彼は最強の遺物の片割れである〈頂上〉の保持者であり、それを別としても魔術師としてはトップクラスであった。
実際のところケニアが主催した過去のワンブグ抹殺計画において、彼はただの一度も迎撃を目的としては遺物を起動していない。そうでありながら、この場ではあっさり使ってきたというのか。
徹底的なトラップ、心理的誘導、咄嗟の判断を最小限にするための膨大なパターン化、そして最終的に頼らされる直感と判断力の研ぎ澄まし――これらはワンブグ抹殺任務を生き延びたシンヤ・ジョウヤマが提出したレポートにある考察ではあるが、それとてどれが正しいのかは一切保証が無かった。
何であれ、二四/七、三六五日の昼夜問わない暗殺の脅威という名の心休まらぬプレッシャーを掛け続けていたはずのケニアの魔術師達の心を逆にへし折り、自国はもちろん諸外国の志願した魔術師達の犠牲で永久に消えない心痛を残した怪物である事は事実であり、そしてとある身分でアメリカに入国後、今度はロバート・スティルマンという身分で暗躍していた。
実際のところ、アメリカもこの男の危険性は承知している。アメリカ自体がワンブグの『仕事』の標的や舞台になった事は一度も無い――少なくともアメリカが分析する限りは――が、しかし他国における恐らくワンブグのものであろうと思われる難易度の高い『仕事』の内容を見れば、否が応でも仮想敵のリストに入れなければならないだろう。
CIAやFBIと言ったフィクションでもお馴染みの組織においてもワンブグは監視対象になっており、彼の現在知られる身分は全てファイルに纏められ、そのファイルには現在知られているワンブグの経歴――面白い事にこうした情報は存外その八割か九割以上が公に公開された情報の蓄積である――が羅列されていた。
そのワンブグ本人がスパイクの目の前で悠然と歩いており、しかも彼は聖能の一つを要求・発動させるに至ったのだ。スパイクとワンブグは互いにどのような聖能を保有しているのか、内一つが互いの知るところとなった。
というのも、聖能とはそれぞれの遺物に六つのスロットがあり、各々の聖能のスロットには三つの聖能の選択肢がある。聖能は遺物の要求権を得た時点で一度だけ選択可能であり、その時は脳内にてデモを見る事もできるが、ともかく一度決めてしまえば要求権を所持している限りは二度と変更できない。
そのためどの聖能を選択し、どのようなデッキを組んだか、それも駆け引きの手札として使う事もできるが、スパイクは鈍化した世界にて己の聖能が露見するとは考えておらず、まさかこの場に敵対的な魔術師、それも同じ最強の遺物使いである肉屋のワンブグがいるなどと考えてはいなかった。
しかし彼は己のそれを犠牲にしてワンブグの手札を一枚だけ見る事ができた――しかし実際のところは別の犠牲もあったが。
「御機嫌よう、地球最強の魔術師。実を言えば僕も君がここにいるとは予想していなかった。君の到着は二時間四五分後だと予測しており、この時間ここにいるのは僕のスケジュール的にもこれ以上は望めないという事でもある」
低い声で妖艶なケニア人の男は言った、まるでわざとスパイクに聞かせるような調子で。細長い目は心から滲み出る悪辣さを湛え、夜空に輝くイサカの相眸じみていた――そう、己はイサカに関わる連続殺人を追い掛けていたのだと、ワンブグ登場で激昂したスパイクの脳が今になって思い出させた。
そして彼が発動させた聖能は一体何を引き起こしたか、スパイクは警戒していたが、何も起きなかった事を不審に思った――不味い。
「おいおいおい、まさかお前!」
スパイクははっとして〈征服大帝の地下牢〉で沈めていた悪魔を引き上げた。地面を透過して沈めていたグリズリーじみた物騒な悪魔は、スローになった悍ましい声を撒き散らして燃え盛っており、とても無事には見えなかった。
〈憎炎の復讐鬼〉はアラーッディーンが生前その権力によって使用した発火・焼却能力の魔術的な再現である。
兄弟達を殺めたガズナ朝への復讐心が具現化し、彼はその焔によってガズニーを焼き尽くし、その威力は〈影達のゲームという時空を超えた権力者同士の対峙の場にてアラーッディーンと対決したマームード――言うまでもなく軍神エアリーズが歴史上に投げ込んだ〈混沌剣〉の一振り――をして『正面から戦うのは熱くて嫌だねぇ』と言わしめた。
一方で『セルジュークの小僧はよくこんな人間松明を力で屈服させたものだよ』とも零し、実際にはアラーッディーンが復讐を完了した事で対セルジュークの際はその威力が弱まったのだが、ともあれその威力は甚大であった。
ところで〈征服大帝の地下牢〉はあくまで幽閉を目的とした聖能であり、タマレイン自身は己に匹敵する強敵である雷帝を破った際、これを虜囚にするために使用した権力異能の魔術的な再現である。
後に世界帝国へと成長する強国に君臨した雷帝バヤズィット一世はキリスト教世界を恐怖のどん底へと叩き落とした大征服者であり、その権力は彼に恐るべき権力異能を発現させるに至った。
彼は文字通りの雷の帝であり、その用兵もさる事ながら、雷系能力者としても非常に強力であり、これを破った際にはこれを幽閉できるだけの権力異能が必要であった。
雷電の化身のごときバヤジィット一世が反抗の気力を無くすまで幽閉するため使われた牢獄が〈征服大帝の地下牢〉なのだが、これはあくまで幽閉者を幽閉する機能であり、幽閉者を外部の干渉から守る特別な機能などは存在しなかった。
「彼に話されては困る事があるのでね」
ワンブグは〈憎炎の復讐鬼〉の二つある用途の内、単体の焼却を選んだらしかった――この聖能は、一切加減できず手で触れた箇所から向こうを円形の範囲で灰燼に帰す用法と、単体しか狙えないが時間遅延中の範囲内にて地点や座標を指定してそれを焼き尽くす用法の二種類があった。
恐らくは更に細かい使用上のルールや制約もあろうが、ともあれ狙った対象を炎上させるという用途としては一切文句の付けようが無いと思われた。
実際のところ〈憎炎の復讐鬼〉の温度は華氏六千度と見られ、何らかの魔術や能力によってこれ以上の高温を発生させる事は別に不可能ではない――ほとんど全てをSFのレーザー光線のように切断してしまうだろうから、ある一定以上の高温というのは通常の用途ではそこまで必要とはならないが。
しかしこの憎悪の焔の特徴は魂や精神に対しても華氏六千度の業火を作用させられるという点であろう。これによって通常の物理的無いしは異次元法則の適用に対する免疫がある相手であろうとも傷付けられる可能性がある。
悪魔は物理的な破壊に対してはかなり高度の耐性を持ち、そのため低位の悪魔であろうと警官隊や軍隊による斉射を受けても平然と反撃してくるものである。
もちろん魂や精神に対しても同様の耐性はあるにせよ、しかし〈憎炎の復讐鬼〉の業火がかような効果を与えている以上、悪魔に対してもかなりの威力を発揮するものと思われた。恐らくは魂や精神に対しては肉体以上のダメージを与えているらしかった。
「見てくれ、さすがはここではない世界に属する実体、復讐が具現化した炎を受けても肉体の損壊は最低限に抑えられている」
ワンブグの言うと通りジム・ロスという身分を人間界で持つ悪魔は、肉体そのものへのダメージは思った程でもない。
恐らくはそれだけであれば修復可能のはずだが、しかし肉体と魂と精神への同時攻撃、特に魂と精神とを集中的に焼却するこの聖能によって死を免れられない運命にあった。
ワンブグは年齢以上に渋みのある低い声でぺらぺらと喋りながら状況を窺っており、スパイクは今すぐ攻撃したいという欲求を抑えるのに必死であった――裏の人間に知られている通りの評判であれば、ガティム・ワンブグがただ突っ立って喋っているだけのはずがない、例えそうとしか見えないとしても。
悪魔は遂にばたりと倒れ、炎が勝手に消火し、それはほぼ燃えてはいないのにも関わらず明らかに焼死したであろう苦悶の表情のまま死んでいた。
かつて偉大なるドラゴンのクトゥルーらと共に地球を守護したヴォーヴァドスことライアン・ウォーカーは、恋人の友人を殺した誰かを求めてワイオミングからこの世界都市へと繰り出した己がかようにして蚊帳の外に置かれている現状が気に入らなかった。
無論ではあるが彼がかつての彼であれば、まさかこの程度の時間の遅延を受けたところで影響を受けるはずもあるまい。
しかし現実には、かつて程の力が無いために、スパイク及びあのワンブグとかいう謎の人物の対峙から『置いて行かれて』おり、歯噛みする他無かった。
しかも彼の言語能力は現状では神のそれには程遠く、そのためワンブグがどこか異国のアクセントの英語で喋り、なおかつ対峙している両者以外は低速下ているせいで影響下の者にとっては早口となり、とても聞き取り辛かった。
実際のところ、ワンブグ自身はこの手の国際的な犯罪者の例通り高い言語能力を持ち、その気になればアメリカ西海岸やスパイクの地元に似せたアクセントや方言で喋る事もできた。
異物使いから見れば、時間遅延の影響下にある全ては一部の例外を除いて停止していた――そうとしか思えない程に鈍化していた。
ヴォーヴァドスは神速で駆け出したつもりであったが、しかし平時であればあの恐るべきガス生命体との激戦において見せた速度によって肉迫できようものを、それの三割程度の速度しか出せていなかった。無論それとて常人には視認すらできぬ凄まじい速度であったが…。
「ライアン、よせ!」
スパイクの異様な早口――ライアンにはそう聞こえる――声が響き渡り、それを追い越して何者かがワンブグの背後に五ヤードの辺りへと出現した。
「愚かな人間ですね」
〈秩序の帝〉であるグリン=ホロスは腕を交差させて空間を引き裂き、〈王の旗竿〉の量産品を改造した対艦槍とアイスランド人の諸サガに登場する名剣をそれぞれの手に持ち、躰の前で交差させた腕を非交差へ戻すようにしてそれらを逆手持ちのまま投げ付けようとした。
その瞬間ワンブグの背中から後方へと向けて何かが爆発し、蒼い輝きがグリン=ホロスを包み込んだ。
だがさしものワンブグもここにこのような実体がいるとは考えてはいなかった。あのライアンと呼ばれた者はともかく、まさか本物の神と一緒に行動していたとは。
彼は予め決めていた撤退の手順を踏みながら最後に言った。
「さすがにこれは冷や冷やとした。ではこれにて僕は失礼する」
彼はそう言い残すと不意に姿を消し、彼のいた辺り目掛けて何かがスローの世界を通常速度で斬り裂きながら着弾し、異様な黒曜石が一瞬で成長するようにして、着弾点を中心とした四ヤードを通常速度で瞬時に埋め尽くした。
ワンブグは消えており、殴るために踏み込んでいる途中であったライアンも静止し、スパイクは一分が過ぎて通常に戻った世界に気が付くと〈旧大陸再要求〉を解除した。
はっとして先程の何かが着弾した辺りから狙撃点を割り出すと、見知ったラティーノの青年が数百ヤード向こうの建物の屋上でM99対物ライフルを両手で持ってこちらを裸眼で見ていた。
スパイクは何故彼がここにいるのかはひとまず考えないようにした――でなければここで立て続けに起きた一連の騒動を整理できない。
何はともあれ爆炎の向こうへと駆け寄り、グリンの名前を叫びながら安否を気遣った。スパイクが彼女の立っている歩道の辺りへと近付いたところで蒼い爆炎が晴れ始め、グリンの状態がわかった。
「大丈夫か!?」
「はい」
何か手応えが無い。
「怪我は!?」
ちらりとライアンを見たが既に人間の姿に戻っており、怪我は無かった。だがグリンは一体。
「いいえ」
スパイクは歩いてグリンに寄り、彼女の肩に両手を置いた。グリンはしかし、一切羞恥の無いあの目でこちらを見てこようとはしなかった。
俯いたままの彼女の服は所々が擦り切れたように破れ、その下の皮膚には一切傷が無かった。
「お前どうしたんだ?」
「あなたに借りたこの上着が酷く損傷しました」
言われてみれば特に上着への被害が酷いように思えた。革が所々燃えたようにべっとりと変異している箇所も見られ、右の袖は肘から先が破けてフレイルのようにぶら下がっていた。
「服なんかどうでもいいだろ。まあよくはねぇがお前が無事ならそれでよしとしようじゃねぇか」
「ですが、手痛い損害でした。ガティム・ワンブグはディッセンタ・ヴァルファンティール帝国の黎明騎士が使う狙撃槍と同じ原理の装置をトラップとして使用し、私は結果としてあなたの大事な服を守り切れませんでした」
グリンはスパイクに借りていたぼろぼろになった上着を脱ぐと、それを感慨深そうに抱き締めてそれに顔を埋めた。
「一体なんですかそれは」と思わずスパイクは言葉遣いが皮肉的な丁寧口調となった。
「…轟々と燃え盛る真田虫の姿をしており…貴族ないしは氏族の社会を持つ…異次元の種族、及びそれの武器です」
彼女はやっと顔を上げた。声も表情も冷淡そのものでいつも通り冷ややかだが、いつものグリンよりも落ち込んでいるように見えた。しかしそれなりの期間一緒にいたので彼女の変化に何となく気が付いた。
「そうか。まあ気にすんな」スパイクはグリンを抱き締めた。抵抗されるかと思ったが彼女は何もせず、彼に身を預け、彼の胸に己の頬を当てて目を閉じた。「生憎手掛かりはそこで焼死しちまったが、俺達は無事だったろ」
「時には人間の言葉が神の慰めにもなるようですね」
「そうだな」とスパイクは皮肉っぽく言いながらも、ふっと笑った。
近付いたり声を掛けようとしたりして躊躇っているライアンは背を向けた――またさっき車の中でもしてたけど、またイチャイチャしてる…。
彼らの方へと駆け寄って来るスパイクの仲間の魔術師を尻目に、ヴァン・ナイズの片隅は再び通常通りに運行を始めた。
遠くでパトカーのサイレンが鳴っており、国家から数少ない正式の魔術師として認められているとは言え、彼はここで起きた事を然るべき機関の然るべき部署へと説明する必要があるだろう。
そうでなくともあの肉屋のワンブグがカリフォルニアにいるというだけでも既に悪夢であり、暫くは醒めそうに無かった。




