SPIKE AND GRINN#20
逃走した悪魔を追跡し始めた三人。スパイクはグリンに言われて己の所有する大魔術の片鱗を起動するが、そこにこの場にいてはいけない魔人が現れた…。
登場人物
―スパイク・ジェイコブ・ボーデン…地球最強の魔術師。
―ライアン・ウォーカー/ヴォーヴァドス…事件を追ってLAにやって来た元〈旧神〉。
―グリン=ホロス…美しい〈秩序の帝〉。
―ジム・ロス…人間に擬態している悪魔、最初の殺人現場の血痕の持ち主。
事件発生日の翌日、朝︰カリフォルニア州、ロサンゼルス、ヴァン・ナイズ
家の中に踏み込んだスパイクはまず探知の魔術を使った。
右手の人差し指で斜めに傾いた三本の引っ掻き傷のようなものを描くと、その軌跡がぼうっと浮かび上がって彼に追従し、それが拡散するようにして消滅すると家全体にそのエッセンスのようなものが染み渡った。罠らしき反応は無し。
外のグリンは恐らく心配せずともすべき事をしてくれるだろう――神が彼の言う事を聞いてくれるなら。問題はライアンだが、しかしモンタナの一件を収束させた手腕は頼りになるような気がした。
とそこで、スパイクはこの家の中に漂う不快感に気が付いた。最初は気のせいかと思ったが、やはり内部はじわりじわりと漂って来る湿気が酷かった。
そして独特の匂い、恐らくはこの家を借りている者の体臭や生活臭が積み重なって作り上げられたオリジナルの香り――ピス・オフ、マザファカ。噎せ返りそうになり、汗がじわりと全身に滲む。最悪な気分だが彼は駆け抜けた。
家の中は薄暗く、カーテンを閉め切っているせいで余計に酷い。黴が生えている可能性も高く、借りているにも関わらず随分ふてぶてしい態度に思えた。
狭い家なので数秒で反対側まで着き、裏口のドアが開け放たれているのが見えた。そこからの光で床に散乱した成人誌のページが見え、他にも脱ぎ捨てられた男物の下着があったが、彼はそれらを踏み越えながら裏に出た。
中は外れ、既に家の外を逃走中、となると一つ手を打つべきか――彼は木製の柵を壊さないように蹴って三角飛びし、そこからは魔術的な補助で跳び上がって飛行し、通りに戻って車に乗り込みつつ電話を掛けた。
「グリン、今どこだ?」
車内で固定されたスマートフォンとハンズフリーで会話しながらエンジンを起動させた。
『家から北西方面向けて移動しています』
「クソ三下悪魔は獣みたいに爆走中か?」
『そうですね、今ちょうど屋根から逆側の通りへと飛び降りました』
涼しそうにそう言うグリンもまた信じられないような動きで追跡しているのであろう。
「ライアンはどうだ?」
『神としての正体を現して、別方向から回り込もうとしているみたいです』
「あいつはやっぱやる時はやるみたいだな」
四足歩行の猛獣か、あるいはモンスター映画の怪物か。先程まで太ったアメリカ人であったその男は凄まじい形相と殺人マシーンじみた目付きのままで四足を使って猛スピードで移動していた。
踏まれた屋根に穴が空き、それを尻目に道路へと飛び降りつつ、スローになった主観世界にてその四足歩行は躰を右回転で捻り、空中で背後を振り向きながら追跡者を捕捉した。
積み上げられた土嚢の壁のごとく丸々と太ったその肉体の腹部が脈動し、そこから名状しがたい触腕が出現した。
それが三フィート程度伸びるとその先端に埋め込まれるようにして握られた拳銃に赤い魔法陣が出現し、魔力が流れ込み、それは魔力による射撃の単なる強化ではなく、明らかに異界の法則を適用しようとしていた。
ではそれに狙われている対象である〈秩序の帝〉はどのように反応したか――彼女は全く表情を変えぬまま、先程四足歩行がいた屋根の上を軽やかに走りながら相手の出方を見ていた。
己の莫大な知識の中から相手が具体的には何をしようとしているのかを判断――特定完了。
追われるジム・ロスなる男は背後のグリン目掛けて触腕の銃を発砲した――七次元のとある物理法則が適用されており、三次元上では過程が存在しない射撃として成立した。
当然の事ではあるが相手はあのグリン=ホロスであり、遥か彼方の甲殻種族が崇める万神殿の神々に属する一柱であり、それ故彼女には過程が存在しない『という程度』の攻撃であれば容易にそれに割り込んで防ぐ事ができるのである。
それに過程が存在しないと言っても、例えばこの攻撃と惑星に終末を齎しに現れる四巨神のそれとでは次元が違う。
こうした実体が神などと呼ばれて畏怖されるのはそれ相応の理由というものがあったが、しかし彼女が人差し指で軽く防御しようとしていたところに第三者が割り込んだ。
「危ない!」
銀色の燃え盛る人型となっていたライアンことヴォーヴァドスが万物を消し去る力を宿す己の手で、過程無しにグリンへと到達するはずであった銃弾を消し去り、本来起きるはずであったクラスター爆発は理不尽にも不発として終わった。
「『危ない』ですか。私には防ぐ手立てがありましたが、ともあれありがとうございました」とグリンはいつもの冷ややかで淡々とした口調のまま礼を述べつつ、高速移動で向かいの建物の屋根へと移動していた。
彼女が移動し終えたタイミングで、全身を回転させて銃撃していた悪魔が道路に着地し、それを見て慌てて急ブレーキを踏んだピックアップが無理なハンドル操作で横回転を始めるのを尻目に、悪魔はグリンから逃れようと北西方向の屋根へと向かうため、とりあえず道路に対して斜めの軌道で歩道向けて疾走した。
ライアンは慌てて車に向かい、それが一回転したタイミングで進路上に割り込んで両手で回転を抑え込んだ。
任意に消去能力を切り換えられる事に感謝しながら車が吹っ飛んでいこうとする勢いを腕力で殺し、運転していた四〇代の無精髭の男に怪我は無いかと尋ねた。
「はぁ…なんだか知らねぇがありがとよ…」
驚愕と安堵の混じった目で見られている事に気が付き、その理由は己が美しき神としての姿に戻っているからであったと悟り、恥ずかしくなってその場を離れた。逃走者のこれ以上の破壊は抑えなければなるまい。
ハンズフリーにしたままのスマートフォンを空中に浮かせて追随させているグリンは無感動なままにスパイクへと言った。
「そろそろ、何故あなたが地球最強の魔術師であるかを証明してはどうですか?」
それと同時に北の方で急ハンドルを切ったであろう轟音が響き、ゴムが擦れるその音を置き去りにして急発進したオレンジのカマロが嫌でも悪魔の目に入った。
カマロの運転手である地球最強の魔術師は窓を開けてそこから腕を出し、手にしたリボルバーを発砲した。
物理的な燃焼ではなく精神に対する高熱を与える異次元の炎がエメラルドじみた色合いで燃え上がり、それは誰もいない悪魔の進行方向上の歩道の辺りを半径七ヤードに渡って燃やした。
数十秒でこの炎は完全に消えるものの、しかし恐らくはこの炎が何であるかを知らなかった悪魔は突っ切ろうとして接近した時に感じた心が火傷するような感覚によって背後へと飛び退いた。
服装の内ヘルメットのみが本格的なアフリカ本土系の顔立ちの自転車男性がびっくりした様子で急停止して来た道を逆走し、異変に気が付いた人々が遠巻きに見ていた。
「俺が最強の理由ねぇ。最強かどうかは実際知らねぇが、じゃあ一つ見せてやろうじゃねぇか」
咄嗟に後退したものの精神的な大火傷によって呻き、苦痛と共にのたうち回る太った男の二の舞いとならぬよう、スパイクは車を炎から離れた位置へと止めた。
もう少しで鎮火するであろう心を焼く炎の熱さが離れた位置からでも感じられるため、スパイクは内心穏やかではなかった。
「上等…じゃねぇか。テメェら全員ぶっ殺してやるぜ!」と目に見えぬ大火傷を負った巨漢は叫んだ。
声には憎しみが混じっていたが、しかしたかだか射殺すような目をしているという程度の相手はスパイクにとって下の下、彼が魔術と出会う前の幼少期から飽きるぐらい見てきたものであり、だからどうしたとしか言いようがなかった。
「いや、そいつは無理な話だな」
「ああ!?」
「『ああ!?』じゃねぇよ。クソ野郎が、抵抗するなら本気で泣かすぞ」
それを聞くとその悪魔は激昂した。グリズリーのようにだっと駆け出し、スパイク向けて全速力で突撃した。並みの相手なら不意の急加速に驚いている間に距離を詰められ、そして解体されていたであろうが、しかしスパイクは並みではなかった。
「〈旧大陸再要求〉を限定顕現」
その瞬間、周囲の時間が遅延して白い輝きに覆われた。
実際には半径約三〇ヤードの限られた範囲でその現象が発生し、緻密に組まれた古代の魔術が遅延の起きているエリアとその外部との調整を行ない、時空には何も異常が起きないようにしていた。
しかしスパイクが直接指定したジム・ロスは奇妙な時空の歪曲によって己の肉体を絞首台の死体のごとく吊るされ、地面から少し浮かんだ状態で身動きが取れなくなっていた。
限定顕現とスパイクが言った通り、今回の遅延は遅延可能な最大範囲よりも遥かに小さく、文字通りの『限定』であった。
それら周囲の出来事を尻目にスパイクはゆっくりと、わざとらしく足音を立てながら、映画の悪役のように悪魔へと接近した。もうそろそろ鎮火する精神を燃やす炎の影響は何かしらの力によって既に受けなくなっており、涼しい顔であった。
「接続者、スパイク・ジェイコブ・ボーデン」彼がそう言うと鍵が差し込まれて解錠されるイメージが赤い半透明の投影像として彼の眼前に出現した――認証が完了したらしかった。
「天級表遺物〈頂点〉、起動。第四聖能を要求」
「この、野郎…!」
悍ましい声で悪魔は言った。実際には完全にかつての能力を使用できてはいないライアンはこの時間の遅延の影響を不完全ではあるが受けていた。
彼の己に関わる全ての時間が通常の六割の速度にまで減速していたが、しかし同じく範囲内にいたグリンは一切その影響を受けていなかった。
〈旧大陸再要求〉は遺物と呼ばれる古ぶしき大魔術を起動するにあたっての初期段階であり、なおかつその時に一分間の時間の遅延を発生させる事で、周囲の脅威に対する安全性を確保する。
大洋に沈んだ大陸に文明があった時代の術式を再現したものであると言われるが、『リヴァイアサンへの回帰』『ナコト写本』『イステの歌』、及び『ロキの時間線観察記録』の原本記述を最も多く書き写す事に成功しているスワヒリ語版写本にも遺物とアトランティスの直接的な繋がりに関する記述が一切無いため、歴史研究は停滞していた。
天級遺物の〈頂点〉は二つ存在する最上級の遺物の片割れであり、スパイクはラゴス魔術院在籍時に空位であった〈頂点〉の使用者となる事に成功していたが、これらの物語はいずれまた本人の口より語られるであろう。
そしてスパイクはそれぞれの遺物が六つ起動できる聖能と呼ばれる魔術的機能の一つを発動させようとしていた。
彼の要求は明るい薄緑色の羽根の紋章が出現した事で受け入れられたらしく、後はその名を彼が口にするだけであった。スパイク・ボーデンは悪魔を鼻で笑いながら言い放った。
「今どんな気分だ、コックサッカー? 第四聖能〈征服大帝の地下牢〉、これでもっと気分爽快だろうぜ」
「このクソガキ、まさか――」
そのまさかであった。彼こそは〈頂点〉の使い手であるが故に地球最強の魔術師であり、それ故に天体を容易く崩壊させられるあのグラヴ・シェヴァリアとの戦闘をも成立させられたのである。
そして史上第三位の征服面積を誇り西洋ではタマレインと呼ばれた大帝の莫大な権力を魔術的に再現した恐るべき牢獄が顕現した。
端的に言えば、ジム・ロスは地面を透過して理不尽にも地中に埋まって閉じ込められた。
自転車で逆走していたエキゾチックな男は不意に立ち止まり、自転車から降りてヘルメットを脱ぐとサングラスも胸のポケットに戻した。彼の目は殺人マシーンなどという生温いものではなく、原初の惑星でのた打ち回る原形質の神々ですらここまでは恐ろしくはなかった。
「〈旧大陸再要求〉を顕現」男がそう呟くと、この広大な世界都市全体の近郊含めてすっぽりと覆い尽くす黒い輝きが現れた。
「接続者――」雑多な騒音や人々のスローのざわめきが彼の名乗りを遮ったが、しかし要求は滞り無しに承認されていた。
この場にいてはいけない怪物がいた。美しき人の姿をした怪物、少し長めのクルーカット状の髪を蓄え、髭を永久脱毛しており、細長い瞳と唇とががっしりとした印象を与え、同時に妖艶な美しさを湛え、濃厚色の高級ブラック・ウォールナット材のごとく深い味わいの黒い肌を持つ麗人。
ラフなジーンズと白いTシャツ、その上に羽織る長袖の白に黒のチェック柄半袖シャツのボタンを留めぬまま、風にたなびかせて佇む怪物。その実並みの悪魔など比ではない邪悪であり、スパイクを表の最強とするならば、彼こそは裏の最強。
「天級裏遺物〈頂上〉、起動。第一聖能を要求」
低い声は歴戦の軍事指揮官を思わせ、しかし実際には金のためにほとんどなんでもするケニア史上最悪の魔術師。
高水準で知られ東アフリカ最高峰と言われるケニアの魔術師達がその暗殺を幾度も試みて全て失敗し、遂にはその試みを挫いて心を折った魔人。
「第一聖能、〈憎炎の復讐鬼〉」
肉屋のワンブグことガティム・ワンブグが、あろう事かこうしてロサンゼルスに出現した。
既に彼の黒いフィールドがスパイクのそれと重なり合っており、鈍化した世界でスパイクは異変源を特定したスパイクはそちらの方を睨め付けた。
「ワンブグ!」
タマレイン=ティムール帝国建国者ティムールの西洋での呼ばれ方。ティムールが誰か、という事に関しては超有名なので説明の必要もなかろう…そのはず、多分。
アラーッディーン・フサインはゴール朝のスルターンである。彼はあのガズナのマフムード死後のガズナ朝と対立・交戦して撃破、マフムードのインド大征服によって莫大な富を蓄え栄えたガズナの首都ガズニーで略奪と破壊の限りを尽くし、マフムードとマスウードとイブラーヒームを除く歴代ガズナ君主の霊廟すらも手に掛けガズニーを灰燼に帰した逸話から世界焼却者と呼ばれた。
ヴァン・ナイズは果たしてロサンゼルス市の範囲内なのかいまいちわからない。




