PLANTMAN#1
人生とは何があるかわからない。何気なく生きていた人間が甚だしい唐突さで非日常へと巻き込まれていく事もあるのだろう。そしてそれは時に、普通の人間に対して途方もなく重たい大任の影をちらつかせるものだから。
登場人物
主役
―プラントマン/リチャード・アール・バーンズ…後にネイバーフッズへ参加する事になるエクステンデッドの青年。
―フィリス・ジェナ・ナタリー・リーズ…作家。
異種族
―先行せしものども…かつて大洋を支配していた種族の生き残り。
―可塑性の種族…その存在をきっぱりと否定されていた奉仕種族。
―ナイアーラトテップ…プロテクターズのメンバー。
他人への善行は義務ではなく、喜びであり、それ故にそなた自身の健康と幸福も高まるのだ。
――ゾロアスター
数年前:ニューヨーク州、モーニングサイド・ハイツ
アール・バーンズは昨日一体どのようにして安アパートまで帰ってきたかさっぱり覚えてなかった。ルームメイトはまだ夜勤から帰ってきていないようで、昨夜どうやって部屋に鍵をかけたのだろうかと疑問に思ったが思い出しようがなかった。恐らくは、どこどこ大のなになにカレッジのなんとかかんとかという子が送ってくれたと思われるが、そのアリシア・キーズ似の美人と昨晩どのような話をしたのかさっぱり記憶になかった。
そしてもっと不味いのは、吐き気や頭痛こそしないが体が異様に重く、自分自身を死体袋に入れて引き摺っている気分がした事であった。調子に乗って飲み過ぎて記憶が曖昧になったのは間違いなく、後日友人らにバッテリー・パークの辺りまで行ってなかったっけと尋ねて、そんなとこ行ってねぇよと笑いながら否定された。意識が段々とはっきりしてきたが、射し込む朝日は吸血鬼にとってのそれであるように感じられた。
そうやってベッドの上から降りようと体を必死で引き摺っていると、何故か点けたままのラジオ――酔っている間に何故か点けたらしい――からストーンズの『アフターマス』に収録されている曲が流れていた。それを聴きながらベッドから小さく落下し、引き続き這っていると自分が死に瀕しているような気がした。早く海兵隊中尉殿が帰宅してくれないとそのままくたばりそうだった。少なくとも彼の主観ではそうだ。
今日の授業は何だ。そこまで考えて今日は休みだと気が付いた。それから視線を前方に向けると、目的地のキッチンまでまだ300ヤードあるように見えて絶望感が漂ってきた。水を飲めばましになるという何の根拠も無い確信に基いてアールは行軍していたのだが、怠過ぎてそれも嫌になってきた。
そうこうしている間に、猛烈に嫌な予感がしてきて彼の胃がきりきりとし始めた。どうやら何か重大な見落としがあるらしかったが、それが一体何なのかがわからない。歯にハンバーガーの欠片が挟まっているような不快さだったため必死に考えを巡らせた。思い出せる限りで時系列を整理、俺は昨日何を、あるいはその更に前の日だったか。
すると見えない何かが一瞬見えて、彼ははっとした。頭の中で必死にその見えない何かを追い掛け回して、遂に完全に思い出した。
「今日ネイバーフッズが生放送出る日じゃねぇか!」
普段ニュースはほとんど見ないのだが、ネイバーフッズの特集をやるとなれば別だった。そしてネイバーフッズのチェアマンであるケイン・ウォルコット、メタソルジャーと呼ばれヒーローとしては珍しく実名が知れ渡っている彼が生放送で取材を受ける。 もちろん政治的な意図や発言に見えないよう無難な回答を用意しているだろうが、それでも彼はスーパーヒーローという存在が好きだった。録画という不粋な真似をせず、生放送で見ておきたかった。もちろん彼は基本的に抜けているから、その大事な日の前日に飲み過ぎたのだが。
あまり大声を出すと苦情が来るので何とか抑えつつ、気合を入れた。部屋の時計に目を向けると残り時間は3分程度だった。水を飲んで生き返ったらテレビへ直行する、そのような手順を頭の中で確認して体を動かそうとした。濡れた布の塊を担いでる気分がしたがさっきの死体袋よりはまだましだった。動く動かないじゃない、『動く』んだよ!
アールは以前プレイしたクソゲーのQTEで非常に疲れる連打を強いられたのを思い出した。今がちょうどそんな感じだったが、多分その時よりも労力が必要であった。必死に立ち上がろうとして、言う事を聞かない己の肉体を呪った。
すると今度はベッドの横のテーブル上にコミックのTPBと一緒に積まれている『ハスター・サイクル』に収録されている小説に出てきた冒涜的な呪文が脳裡を満たした。次は妄想のグレムリンが出てきそうなので気持ちを入れ替えて、もう一度体を立たせようとした。そうする事で彼は己の人生を永遠に変えてしまう扉を不本意に開いたのだ。
アールは突如として己の頭の中へと情報が流れ込んできたため、立ち上がろうとしているポーズのまま暫し硬直せざるを得なかった。
――超人的な怪力、超人的なスピード、超人的な防御力と肉体機能。そして飛行能力。
それらを認識した時、一瞬時間が止まったような気がした――反応速度が速過ぎて周囲の時間が止まっているように感じられたのだ。すると時間が再び進み出したように感じられた。まずは不安定なこれらを制御する必要がありそうであり、でないと少なくとも大学の講義が主観時間で数日に思える事は間違いなかった。
この感覚は一体何なのか。俺はヴァリアントになったのか?
「違う、頭に能力の情報が流れてくるって事は…」
この事実をどう受け止めるべきか、彼は困惑していた。
「エクステンデッドだ」
未来から来たと主張する男が60年代にしていた演説を思い出した。何となく気に入り、たまにYouTubeでその演説の動画を見ていた。
その男はかねてより世界中が認識しながらも黙認する傾向にあった、所謂超能力者であるエクステンデッドとヴァリアントについての講釈と、ヴァリアントが齎すという未来の災厄について話していた。
「まあ細かい事は後だ。よくよく考えりゃこれは凄い事だろう…浮けるかな?」
アールはそこまで深刻に考える性格ではなかったため、己が得た能力をまず使ってみようと思った。生まれて初めて自力で浮遊するという事で、彼なりに慎重だった。少なくとも天井を突き破ってそのまま屋上からマンハッタン上空まで飛んで行くのだけは避けたいと思っていた。そんな事になれば上の階の住人は驚愕の表情で絶叫するだろうから――彼はこの時こうして人間ロケットになってしまわないよう真剣に力加減などを必死になって頭の中でシミュレートしたので、その体験を真剣に覚えていた。
そのため数年後、仲良くなったヒーロー仲間であるボールド・トンプソンの家へと遊びに行って75インチもある大きな液晶でビルボードのランキングを見ていた際、不意打ち気味に映された『ターン・ダウン・フォー・ワット』の面白おかしいMVを見た時に大爆笑してしまった。その映像は人間ロケットの真逆で、ある意味人間掘削機だった。
アールは慎重に力を入れて浮かぼうとした。どうやったら飛べるかはエクステンデッド特有の能力に関する親切な脳内解説でコツを掴めていた。もちろん初めて車を運転した時同様びっくりしたが。気が付くと彼は床から3インチ浮かんでいた。その不思議な感覚や感慨に浸りながら、自分が匍匐前進の状態から立ち上がろうとしている微妙なポーズで浮いている事に気が付いて虚しくなった。
急速に興奮が冷めてゆくのを感じながら、彼はすうっとキッチンまでゆっくり飛んで行った。コップを取って蛇口を捻る時も特に問題はなかった。エクステンデッドはマニュアル付きなので力加減も測りやすかった。ヴァリアントなら水道業者の世話になっていた可能性もあったかも知れない。
念願の水を飲みながら、よくよく考えてみれば能力が覚醒した時に怠さが綺麗さっぱり消えていた事に今更気が付き、何もかも時間の無駄に思えて更に虚しくなった。
「ま、まあとにかく、テレビ見るか」
エクステンデッドとなったアールは床に降り立ちいつもの調子で歩き、いつもより加減しながらリモコンのボタンを押した。ちょうど番組が始まっており、ネイバーフッズの歴史を掻い摘んで紹介しているところだった。
スーパーパワーがあってもどうせ俺らはリビングでテレビを見ながらビールを飲むだけというような言葉をどこかで聞いたが、今がまさにそれだなと苦笑した。そうしていると目当てのメタソルジャーのインタビューが始まり、わくわくし始めた。堂々たるネイバーフッズのチェアマンの様子を見ていて彼はふと己の力が彼ら同様の社会奉仕に使えはしまいかと考えた。
インタビューが終わり、メタソルジャーが最後に一言述べた言葉が彼の耳に響く。
「何も難しい事ではありません。例えばエンストで困っている人にどうしましたかと一言声をかけて手助けしてあげる。ほら、これであなたも今日からヒーローだ」
数十分後:ニューヨーク州、セントラル・パーク
随分面倒な世の中になったのは間違いない。アールは人のいそうにない南極で能力を試す事にしたがそれには困難が待ち受けていた。よくよく考えれば海中深くを移動するのは潜水艦から怪しまれる可能性があるし、空はNORAD( 北アメリカ航空宇宙防衛司令部)が様々な手段で監視しているはずだった。多分にオタク的な彼は度々インターネットや書籍で気になった事を調べる習慣があり、付け焼き刃とは言えども人並み以上にはそういう方面に関する知識を持っていた。
あるいは中途半端に知識を持っているせいでこうして悩んでいるのかもしれなかったが。何であれ、今のところ彼のエクステンデッド能力ではソナーやレーダー波を感知できる程の過敏な感覚は持っていないため、一方的に捕捉されてしまうと思われた。海面すれすれか浅い水深を進むのも駄目そうだ。もう少し軍事的な知識があれば監視網の盲点に気が付き、これらの問題を打破できたのかと考えたが、どうせこの手のパターンでは防衛の観点から観測のやり方などで公開されていない情報があるんだろうなと溜息をついた。
彼がこうした監視網を気にする理由は至極簡単であった。すなわち住んでいるアパートまで追跡を受けて面倒な尋問を受けるのが目に見えていた――当時の時点でも恐らく彼の能力はかなり強力な方だったし、それは彼自身も知っていた。
彼はヴァリアントではなくエクステンデッドだが、強力なエクステンデッドが空を飛び回っているのを政府が無視すると、一般常識的に考えて到底思えなかった。
「畜生どうすんだよ」と悪態をつきながら周りを見た。彼はひとまずセントラル・パークに来て周りの人々を眺めていた。木々の向こうにはコンクリートと金属で計算高く作り上げられた塔の数々が生い茂っているのが見えた。さすがにここで能力を使えば軍かネイバーフッズが駆けつけるだろう。
そうなれば人生は終わりだなと苦笑していると、後ろから誰かがこちらに歩いて来ている事に気が付いた。振り向くとスーツ姿の長身の黒人が4ヤードの距離を空けて立ち止まった。第一印象から何らかの手段で能力の開花を察知した政府が送り込んだ人間ではないかとびっくりしたが、よく見ればそういう風でもなかった。もう少し安らかな雰囲気を纏っていて、何故かジャマイカ人であるような気がした。ジャマイカ人の男…まさかな。
「もう少し近付いても?」
「え?」
「あまり大きな声で話したくはないので。そういう類の話がしたい」
「あ、ああ。いいよ」
アールは何故この初対面の男の頼みをあっさりと了承したのか自分でもさっぱり理解できなかった。何となく信用に値すると思えたとしか言いようがなかった。そして彼は優雅に歩み寄り、囁くように喋った。
「どうやら君らしい。〈救世主〉が漸く現れたな。
「君は偉大な力を手に入れた。君は生来の善性故に、私がわざわざ要請するまでもなくその力を人々のために使ってくれるだろう。いつか君は大きな役割を背負う事になるが、今は己の直感に従うといい」
呆けた様子で相槌を打ちながら、アールは話の内容を理解しようとしたが、疑問も少なくなかったため、とりあえず質問した。
「えーと、あんた誰だ?」
「ナイと呼びたまえ」
ナイだって? もしかしてあのナイ? しかしブロックの尋常ならざる怪奇小説と裏腹に、このナイ神父はかなりいい人そうであった。
「すげぇ、マジモンのナイアーラトテップかよ…しかもあんた個々の化身がどうとか抜き絶対いい人だよ」
嬉しかったのか、ナイは少し微笑んだ。
「私はこの世を創り上げた者達の一人だ。我が子らは私をよく慕ってくれる」
「はっ、そりゃそうだ! あんたもしかしてヒーローやってない? なんか人助け好きそうなオーラが出てるし…おっと失礼、馴れ馴れしい口の聞き方でしたね、サー。あーいやロード? それともハイル・トゥ・ジー・ナイアーラトテップ? オール・ハイル・ナイアーラトテップ?」
何の根拠もない推測だった。しかし興奮していながらも周囲に丸聞こえの大声では話さない程度の分別はアールも持っていた。
「そこまで畏まる必要はない。君は私の信徒ではないのだし、いつも通りの調子で話すといい。
「話を続けよう。確かにそういう事はやっている。私はプロテクターズと呼ばれる集団に所属している――宇宙で活動するネイバーフッズのようなものだ。太古の昔、人々を苦しめていた悍しいアドゥムブラリを撃退した時の冒険は我ながらお気に入りだな」
「ホーリー・クラップ、アドゥムブラリも実在してたのか! とりあえずそこのベンチに座ろうぜ。
「あ、そう言えばさっきの何だっけ? 俺が〈救世主〉って一体何の話なんだ? よくわかんねぇんだけど」
するとナイは深刻そうな表情を見せた。
「君はいずれ、私がかつて戦った、尋常ならざる絶望的に穢らわしい実体と対峙する。何故なら君こそが、例えばゾロアスター教の伝承にある〈救世主〉なのだからな」
「えっ」
まさかエクステンデッドになっただけでこのような予想外の展開になるとは到底思えなかった。
「俺?」
「そう、君だ」
「やれやれ、そりゃまた随分だな。だがジョークやドッキリじゃなさそうだ」
ふうっと彼は溜息を吐いて遠くを眺めた。映画の主人公はこういう気分なのだろうか。大役とは往々にして重荷である。
「ひとまず君は自らの善性を信頼すればいい。そうすれば何が見える?」
「何って…」
芝生の上を走り回っている子供がスペイン語で喋っているのが聴こえた――今漸く外界の音が聴こえるようになった。どうやらそれぐらい会話に集中していたようだ。そうして己の善性とやらを見つめてみた。今までそんなものの存在を意識したことはなかったが、少なくともそれはブラックタロンを装填した銃を振りかざすにやけ面の悪党ではなかった。もちろんナタリー・ポートマンの姿でもなかったが。
そうやって善性を見つめていると幼い頃の記憶が思い浮かんだ。12歳の頃クラスに体の大きな男子生徒がいて、性格や態度も見かけ通り大きかった。事実上クラスを牛耳っていたようなもので、誰も逆らえなかった。やがて彼はグリズリーと呼ばれるようになり、本人もそれを鼻にかけた。
アールはその横柄な態度に段々いらいらしてきていた――普段アールで通している彼をグリズリーは執拗にディックと呼び、力で威圧してきたのが彼をむかつかせた。家に帰って悔しさに泣いたのは一度だけではない。
しかしある日、泣き腫らした彼の目に、お気に入りのスーパーマンのコミックが見えた。父親に買ってもらったそれは擦り切れたソフトカバーだったが宝物も同然で、その内容はスーパーマンに勇気を貰った少年がクラスの非行少年に立ち向かうというものだった。ぱらぱらとページを捲っていると自分にもできそうな気がしてきた。
そんな彼の様子を1週間眺めていた両親が声をかけた。手助けは必要かい。いや大丈夫、やれるだけやってみるよ。2人は何も言わずアールを抱きしめて頬にキスをした。
実際アールはよくやったと思う。他のクラスメイトがグリズリーに手で押されたり背中を嫌がらせのやり方で叩かれていたが何もやり返せずにいたのが見えた。それを見ていると復讐心とは違う感情が湧き起こる事にアールは気が付いた。その感情は彼に力と勇気を与えた。
アールは叫びながらグリズリーへ突出していった。それに気が付いたグリズリーがふり向いたところへ体重を乗せた体当たりが直撃し、たまらず倒れ伏した。アールはその時グリズリーに何と言ったかは憶えていなかったものの、少なくともグリズリーは痛みを知った。背中を強打し、内臓に衝撃が響き、初めて人前で泣いた。
自分が与えてきたものが返ってきた事を痛感し悲嘆に暮れるグリズリーにアールは赦しを与えた。やり過ぎたとして罪悪感が湧いたのかも知れないが、とりあえず手を差し出した。
グリズリーと呼ばれた少年の父親は酒浸りでよく母親が殴られていたとアールは後で知った。アールは彼と仲良くなり、あの時はやり過ぎたなとよく謝ったものだった――もし頭を強打させていたら一生後悔していたとよく謝っていたものだった――が、そういう時は決まってグリズリーはいいんだと諫めた。
やがてグリズリーは素行がよくなって、その後コロンビア大に通うトップエリートになりたまらずアールは最高だな、と苦笑したものだった。だが彼が駄目人間の父親と和解したと聞いた時は素直に嬉しかった。
それらの回想を終えたアールは、もしかしたら自分にもヒーローが務まるかも知れないと徐々に自信が生まれつつあるのを感じた。今までも間違っていると感じた事には抗議し困っている人に可能な限り手を貸してきた――昨晩は手を『貸された』わけだが――から、これからもそうすればいいのだろう。そう結論付けると人の姿をしたナイアーラトテップに堂々と己の意見を述べた。
「まだ学生だし色々大変だよ。いきなりえーとなんだっけ? そうそう〈救世主〉ね、それになれって言われても困惑しちまうよ。だけど少しずつ新しい自分に目を向ける事はできる。俺は昔からヒーローが好きだし、さっきだってヒーローになる前の予行練習ができないかって悩んでたんだ。テレビに出てた偉大なヒーローも勇気をお裾分けしてくれたしな。だからヒーローになれと運命が俺に強いるならこう言ってやるよ、よい一日を(Have a nice day)ってな」
「はて…私は買い物客ではないが…」
「えっ」
不敵な笑みを浮かべたアールだったがいまいちユーモアがナイアーラトテップには通じなかったようで、恥ずかしくなってきたので話題を逸らした。もちろん彼のユーモアのセンスはアメリカ全体で見れば高い方ではないだろう。
「ま、まああれだ、俺は前向きだからなー、なんだかんだ言って喜んで運命は受け入れるぜ? そのあんたが言う汚い邪悪だかゲロだかの奴らは今から引退スピーチを考えるべきだろうな」
アールが正体不明の邪悪に対する決意表明を冗談交じりに示した時、確かにナイアーラトテップは安堵の表情を見せたように見えた。何か重大な過去があったのだろうか。しかしそれを詮索するのは冒涜的な行為に思えたので話題を変えた。
「それより聞いてくれ」
「何かね?」
「えーと、とりあえず南極で人目を気にせず能力のテストがしたいんだが、その悪いけどあんたテレポートとかそういう能力は持ってないかなーって。神様だしできそうだとね」
数分後:南極、ベリングスハウゼン海沿岸
昨日までなら凍えていたであろう南極の気候も今のアールにとっては真夏日の日陰程度に感じられた。あれからナイアーラトテップはセントラル・パークの人目につかない場所へとアールを連れて行って、奇妙な結晶を取り出した。それを見たアールが「すげぇ、マジモンのシャイニング・トラペゾヘドロンだぜ」と驚いている間に気が付けば彼らは寒々とした南極の地に立っていた。
念願の南極へとやって来たアールは心優しいナイアーラトテップに礼を言うと、恐る恐る自分の得た能力を試し始めた。ゆっくりと浮かび上がると、やがて吹っ切れたように笑い声をあげて空を飛び回り始めた。最初は時速数百マイル出してみて、ここならスピード制限無しで疾走できるなと笑っていたが、やがて一気に力を入れて音よりも速く駆けた。そして静止して振り返ると弾丸のように移動した自分に気が付いた。
エクステンデッドは己の能力を簡単に把握できるため、その際アールは猛スピードを出した時の物理的な副産物をある程度キャンセルできる事を知っていた。お陰で街中でも気兼ねなくX‐ウイングごっこができそうだった――そんな事をする機会があればの話だが。
次に彼は陸地へと降り立ち、ダッシュのテストを行なった。とりあえず時速120マイルで疾走してみると、それはもう随分爽快な体験であった。高校の頃彼はフットボール部だったのだが、その時体験した感慨が再び戻ってきたのである。
「はっはっはっ、誰も追いついてきてないみたいだな!」
陸地からスタートした彼は流氷の方までダッシュし、その上でどさりとタッチダウンを決めた。一応服が濡れないよう流氷が割れない程度に力加減はしていた。既にこうしたおふざけができる程度には、彼は己の能力に習熟し始めていたのである。その姿を付き添いのナイアーラトテップは満足そうに眺めている。
次に彼は氷を丸めてヘルメットぐらいの大きさにしてから、それを軽々と投げ飛ばした。加減したつもりだったが、その飛距離はハドソン川で係留されているイントレピッドの全長を優に超えていた。
「おっと、今のはヤバかったかな」
「大丈夫だ、付近に我々以外大きな生物はいないから」
「え、ああ、そうだな…」
視力もかなり強化されていたのだが、前方しか確認していなかったので少々焦った。耳を澄ませると何かの動物の鳴き声が聴こえてくる、という事もなくどうやら今のところは本当に何もいないようだった。ニューヨークにいた時点では特に気にしていなかったが、聴力の程度についてもプライバシーの侵害になるレベルにまでは達していなかったようで、そこは安心した。
もし今後更に能力が強くなればどうなるかは不明だが、とりあえず行われている犯罪を見つけるのには充分使えそうである。
それにしても、とアールは心の中で苦笑した。思えば俺は普通の服のまんま南極に来ちまったな。幾ら南極でもこうやってどたばたやってるとどっかの軍が衛星で俺に気が付いて出動してくるかな。それともナイアーラトテップが隠してくれてるかな。
そうやって色々と考えながら少し休憩していたところ、妙な音が聴こえ始めた気がした。最初は気のせいかとぼんやりしていたが、隣にいるナイアーラトテップが背後へ振り向いたので、それにつられて振り向いた。今日は結構風が強く、内陸の方は吹雪いていて遠くが見えにくかったものの、奇妙な笛らしき音が聴こえてきていた。南極で笛だって?
「おいおいまさか」
アールはこれから何が起きるのかが薄々わかり始めていた。ナイアーラトテップが実在する事はわかった。目の前にちょうど本人がいる。では彼の好きなクトゥルー神話とは、空想のお話ではなく実在のものだったという事だろうか? この妙な感覚には覚えがあった。それは一体どこでだったか。
「あー、そうかいそうかい。なるほどそりゃまた随分だな」
「どうかしたかな?」
「いやね、デジャヴって奴だよ。ラヴクラフトの小説が実は人類への警告だった、みたいなプロットの小説がよくあるんだけど、それと同じなんだよ。つまりこの笛みたいな声は…ヒュー、こいつはすげぇぜ!」
吹雪の中から複数の未知なる実体が姿を現した。だがアールには事前知識があったので少々驚いてしまった。というのも、彼の好きな怪奇小説ではよく対立し合っている海百合型の実体達と可塑性のある原形質の実体達が歩みを並べて現われたからである。
異星から訪れたであろうそれらの生物は海百合じみた頭部を備え、胴体は樽型をしており、全体的には濃い緑色をしていた。そしてその元従者であろう者達はアメーバのようにごぼごぼと形状を変え続けており、肉と泥が混ざり合ったように見えた。しかしそのどちらも、ナイアーラトテップ同様に全く嫌な感じがしなかった。
空想の存在だと思われていた者達が目の前に現れたら人は興奮するものだ。彼もその例に漏れず、先程からずっと興奮していた。
「うおっ、すげぇなぁ。海百合とショゴスが仲良く並んでるとこなんて100万ドル払っても普通見られねぇよ」
また、それら実体が特に敵意らしきものを向けてこないのも驚きであった。クトゥルー神話を題材にした作品を書いた作家達は怪しげなヴィジョンもしくは夢に影響を受けたのかも知れないが、もしかしたらそれらを元にした小説の描写にはある程度不正確な部分があったのかも知れなかった。何かの理由で脚色したか、単なる解釈違いか。
HPLは今日古きものとして怪奇小説のファンに知られる海百合に似た異星人を少々観念が異なるだけの人間として描写していた。フリッツ・ライバーもそれに倣い、海百合とミ=ゴは地球人類とも協力し合える余地がある事を示唆した。しかしコリン・ウィルソンの場合は少々異質だった――そして気のせいか、目の前にいる海百合達と、それに作り出されたであろう可塑性のあるのたうつショゴス達はかなりくたびれているような気がしてならなかった。
「彼らを知っているようだな」とジャマイカ人の姿をしたナイアーラトテップはアールに言った。
「まあね。俺さー、コミックとか怪奇小説とか大好きでさー、いやいや、まさか小説のキャラがマジで実在してるとは恐れ入るね。こんな貴重な体験ができるならもっと早くエクステンデッドになりたかったもんだ」
「ふむ、君らしいな。ひとまず私は彼らに挨拶しておくとしよう」
そう言うとナイアーラトテップの姿が名状しがたい変化をし始めた。気が付けば三本足で直立し、黯黒のマントと深緑の甲冑を纏った美しい姿が現われた。その姿があまりにも美しかったため、アールは今日何度目かもわからない感嘆の表情――呆けた間抜け面だった――を示した。
「無茶苦茶かっけぇ…」と彼が呟くのを尻目に三本足の神は海百合と可塑性の生物に視線を向けた。暫く彼らが無言で向かい合っていたので何をやっているのだろうかと疑問に思っていると、美しい三本足の神はテレパシーで会話しているのだと説明してくれた。彼らの笛のような音声を使った言語はアールには理解できないから、英語を理解できるショゴスが通訳を買って出てくれるようだった。確かに原形質の実体であるショゴスであれば発生器官を拵える程度は容易いだろう。
なんかすげぇ異文化交流始まったなぁと眺めていると、笛のような音声が聴こえ、次にそれを翻訳し解説してくれるショゴスの声が聴こえてきた。
「我々のかつての主人――先行せしものどもとでも呼ぶといい――はこの最後の安息所の周囲で飛び跳ねていた君に大層驚いていた。長らくこの地に足を踏み入れる者はいなかったから」
「あ、すみません…」
どうやら迷惑をかけたようだった。ごぼごぼと変化するショゴスの様子が抗議を意味している気さえした。
「あれ、でも南極って調査されまくってるんじゃ…」
「君の国を始め、地球人とは秘密協定を結んでいる。というより、不可侵条約だがな。私が歴史を説明しよう。
「先行せしものどもの先祖が別の星系から飛来し、この星の南極へと降り立った。その頃既にベル=ヤーナクのヴォーヴァドスや八腕類のトゥルーは眠りについており、新たな神々が退行した地球人の新たな信仰対象となった。何故地球人の古代文明が滅んだのかはよくわかっていない。恐らく何者かが古代文明の栄えていた大陸を海中へ沈めたと思われるが…新たにやって来た神々のほとんどは君達の神話や伝承にも出てくるから、より身近な存在だろう。私の創造主達は生活圏が地球人達と被らないよう南極や大洋にコロニーを建設し始めた。こうした歴史を地球人がある程度ぼかして物語に仕立てていると聞いている。さて、その時はまだ先行せしものどもにも分別があり、南極に定住した新たな神々を深く尊敬していた。先行せしものどもとは当時の地球人の識者達が創造主達に付けた呼び名だ――皮肉な事に、この星で真に先行していたのは彼らの古代文明だと言うのにな。ともかく、この頃はまだ平和な入植だった。しかし滅んだ銀河から飛来した時間旅行者達が現れると、先行せしものどもと彼らの間で戦争が起きた。時間旅行者達は精神を別の時代へと飛ばして別の生物と肉体を交換する能力を持っており、それは悪魔の所業じみていたとする壁画による記録が残っている。軍拡競争が始まると先行せしものどもは地球人への敬意を段々と捨て始め、彼らの住む陸地の領域を奪い始めた。南極の神々は地球人が暮らす地の神々とこの件について頻りに協議していたが、決定的な介入が行われる事はなかった。やがて新たな来客が訪れ、全てを一変させた。滅んだ次元から訪れた強固な同盟――ミ=ゴと名乗る甲殻類じみた菌類とポリプの姿をした異質な生物が手を組んだ連合軍が先行せしものどもと時間旅行者達の両方を攻撃し始め、最終的にはほぼ敗戦に近い形で和議が結ばれた。連合軍はどうやら異星人が原住種族の地で好き放題争っているのが気に食わないらしかった。先行せしものどもは南極へと引き上げ、時間旅行者達はこれ以上精神交換を行わないという条文に調印し、使用していた肉体を持ち主に返却すると元の時代へと帰っていった。異次元の連合軍も地球から立ち去った――彼らは故郷の次元が滅んだ後こちらへやって来て、当時は宇宙を旅していたようだ。
「南極へ引きこもった創造者達は疲弊しており、既に文明も斜陽に差し掛かっていた。何せ他の星系と連絡を取るための装置が壊れてもそれを修理する事さえできない有様だったから。己が孤立した事を悟った彼らは奉仕種族として我々ショゴスを作り上げた。暫く平和が続いたが、やがて自我を得るに至った我々と創造主達の間で新たな戦争が始まってしまった。南極の神々は大いに嘆いたが、停戦するまでに夥しい血が流れた。やがて両者が疲弊したところで南極の神々が仲裁し、主従関係が解消され対等の立場となった。この頃にはもう創造者達に宇宙を駆ける程の能力はなく、衰退はいよいよ足音が聴こえるところまで近付いて来ていたのだ。生身での飛行が無理なら宇宙船を、と思ったようだがそれを作り出す技術も既に喪失して久しい。我々はこの氷の大地に取り残されたのだ…以上がこの地の歴史だ。最早隠遁するしかないため、君達の種族とは不可侵条約を交わしてひっそりと暮らすのが精一杯である。」
相槌を打ちながらじっとショゴスの解説を聞いていたアールは思った。やべぇ、この人達むっちゃ困ってるじゃん…。
数年後…ニューヨーク州、チェルシー
あの南極における邂逅の後も何事も起きなかったかのごとく日々は過ぎていった。エクステンデッドとなった事で〈救世主〉がどうこうという話ではあったものの、特に変わらぬ日常が続いた――アールにとっての全てを決定的に変えてしまうはずであったあの二日酔いの朝の変革と、それ以降の日常の変化でさえも、気が付けばそれも新たな自分だとして受け入れていた。
気が付けばヒーローになっていた。気が付けばネイバーフッズに入っていた。決して受け身で流されるままではなかったが「ま、人生ってそういうもんだろ」と就職難にめげず煙草を吸って夕日を眺める若者みたいな事を思っていた。
それに、他にも考えるべき事があったのだ。アールは大学在学中にこれから自分がどういう分野で働くのかを考え始め、やがて彼はある仕事に着目した。確かにコミックや小説は好きだ。
しかしどうだろう、彼がコミックらしきものを描いても本気で描いたというのにレイジ・コミックスが素晴らしい技巧のアートに思えるぐらい下手だった。何か這う生き物の跡がのたくったような線形文字か、もしくはそれ以上に謎の絵だった。
執筆も似たようなものだった――いざ書くとなれば矛盾が出ないよう様々なストーリー上の気配りが必要で、登場人物の背景設定や舞台となる土地の下調べなども必要だった。いっそ架空の土地や世界を舞台に選ぼうかと思ったものの、すぐにアールはそれもまた同じぐらい苦難に満ちた道である事を悟った。
実は以前アールはのたくる線形文字らしきものや精一杯書いたオリジナルの小説――彼は自嘲気味に怪文書と呼んだ――を学校で友人達に見られて大爆笑された苦い経験があったため尚更苦手意識は強い。その時の、喉がからからに乾き、体に汗が滲む感覚は今でも悪夢そのものに思えた。
そういう事もあって、そうした物語を紡ぐ仕事にもっと別の形で関わる道を意識し始めた。作家と会社を仲介するような出版エージェント業がある事に彼は気が付き、何故かこの仕事がとても魅力的に思えたのである。他の分野の仕事はすぐに見えなくなり、彼の興味はこの一点へと引き寄せられた。
調べていく内に、単に作家の代わりとして売り込んだりするだけでなく、面倒な著作権的問題を作家の代わりに対応する事などもこの仕事に含まれている事を知った。なるほど確かに作家は作品を書くのが仕事であり、そうした交渉や面倒事の解決は専門外だろう。少し尻込みした後、彼はこう思ったものだ。素晴らしい、かかって来やがれ。
「まさか実際になれるとはねぇ」とアールはわざとらしく嘲る調子で斜陽の街並みを眺めて呟きながら、日本の主要都市間を結ぶ新幹線さながらのスピードで過ぎ去って行った己の過去を振り返った。彼は時々時間の流れる速さがあまりに速く感じられる時があった――エクステンデッドとして得た、その超人的な身体能力故に主観的な時間をとてものろまなものにできる彼にとって、それは大いに皮肉である。
出版エージェントになるという夢が叶い、しかも匿名のスーパーヒーローとして空いた時間を人助けに活用できた。睡眠時間が減ったので夜警に出かける事も多かった…こうして全てを手にした男が他に一体何を望むというのか。
アールはホール&ホッジ・エージェンシーというエージェント会社に入社する事ができた――大手から独立した会社で社員はそう多くなかったが、既に次世代の才能をいくつか掘り返していたところだった。日々権利や報酬を巡る様々な訴訟や他社との競争が行われるこの業界で淘汰される事なく生き残っている会社だった。
社名にもなっているクレイトン・ホッジが独立する際に元の会社のサム・ヘイルと揉めたが、幸い至極どうでもいいよくある類の訴訟沙汰には発展せず、それらの厄介事を独立後まで持ち越す事にはならなかった。好意的な者達は特に違和感も抱かずH&Hと気軽に呼び、嫌悪する者達はコック&ナッツという前時代的で品に欠ける呼び方を使う、ホール&ホッジはそんな企業だ。
四苦八苦しながらも仕事に慣れてきたアールは実際に作家を担当するようになり、それらの責任も認識し始めた。思うように出版社との交渉が進まず、どの面下げて作家と話すか悩んだ日もあったが、それを乗り越える事は彼にも可能でありやがて自信も付いてきた。大学でした人生初めての『明確な夢に向けての勉強』は予想以上に役立ったものだ。
ところでアールにとって幸運だったのはホール&ホッジ・エージェンシーの立地条件が良かった事だった。何の偶然なのか彼がそれまで暮らしていたモーニングサイド・ハイツから幾らか南下したアッパー・ウェスト・サイドにオフィスを置いていた。
大学までは徒歩20分という何とも言えない距離だったが、たまたま見つけたホール&ホッジ・エージェンシーも同じように『何とも言えない距離』であったため、強烈な運命を感じたものだった。新しいアパートを探すのはそれなりに面倒だから、大いに助かった。
だが彼のルームメイトはさる人物であって、それは彼の人生に少なからず影響を与える事となった。特に、この数年後のドレッドノート事件には。
この日のアールは担当しているチェルシー在住の男性作家宅で次の作品の件を話しに来ていた。その作家は正直言ってその辺にいそうな普通の禿げた中年だが、スタイリストをしているという目を見張るぐらいハンサムなプエルトリコ系の青年が途中で帰宅してきた。アールは青年とも何度か話した事があり印象も良かったが、内心なんでこの好青年は禿げたオッサンを選んだんだろうと不思議がったものだ。
作家宅を出てからは、ふと心に響くものがあった――彼はヒーロー仲間によく電波を受信したと冗談混じりに話していた――ので人目のつかない場所へと移動し、ちょっとした『社会奉仕』をしていた。相手が凶器を持っていても超人的な身体能力は非常に役立つ。恐らく翌日の新聞に載るだろう。
着替えてからコーヒーで一服後、事務所へ戻ろうと地下鉄へ向かう途中だったが、そこへ上司から電話がかかってきてニュージャージーの新人と話してきてくれと電話が入った。
電話を切った後「明日行くつもりだったのに適格な指示をしてくれてありがとうございます~」と彼はふざけて毒づきながら地下鉄でニュージャージーへ向かった。この日は中古で買ってあったアムネジアを開封して遊ぶ予定だったが、今が5時過ぎだから新人作家との話し合いと往復で恐らく帰宅すると8時か9時になる予感がした。帰宅が遅めだとあまりゲームをする気にならない。いいね、目眩がしてきたよ。
がたがたと揺れる車両の中で窓の外の闇を眺めながらアールは黄昏れた。ひとまずニュージャージー行きのバスが出ているところまで地下鉄で移動して、そこからバスに乗り継いだ。
ニュージャージー州、ベイヨン
バスから再び電車へ乗り継いで、向こうへ着いた頃にはもうかなり暗くなっていた。事前に電話でやり取りをしていたので適当な場所で待ち合わせる事になった。夜まで営業しているカフェがあるらしい。
相手の作家とは電話で既に何度か話しているが別段何も思いはしなかった。書類によるとフィリス・ジェナ・ナタリー・リーズという人物である。強いて言えばデビューするならフィリス・リーズかナタリー・リーズでよさそうだなと思った程度であった。少なくともこの時点の彼にとっては。
カフェにある屋外のテラスに一人の女性が座っているのが見えた。あの人かなと思ったアールは声をかけようとして、自分が動けなくなっている事に気が付いた。エクステンデッドになって以降強化された視力と聴力はその女性についての情報を洪水のように教えてくれたが、普通その程度の事で彼が動揺するはずもない。
どうしたんだ俺。自問自答故に誰も答えてくれなかった――自分自身を除いて。歳は30代前後だろうか。9月上旬のニュージャージーの風を受けながら黒い髪がゆらゆらと柔らかく揺れていた。少し褐色のかかった肌はフロリダやジョージアで焼いたというわけでもなさそうで、もっと自然な色をしている。茶色の瞳は知的な光を湛えて細いフレームの眼鏡越しに暇潰し用と思われる地元紙を眺めており、それからするりと左手で鞄から出した小ぶりな白いスマートフォンをちらりと見た。心理学の講義など受けた事もないしそれに関する本など一度も読んだ事のない彼ではあったが、その女性はとても落ち着きがあって彼よりも人生経験があって、そしてかっこよく頼りになる事だろうと考えた。
そして彼女を見ているとざっざっ、というサブリミナル効果のような何かのイメージが見えた。山のように大きく蠢く林にも見えたが、再びそれを意識しようと思っても何も見えなくなった。
俺が腕時計買ってやろうか、そう考えたところで何をさっきからまだ直接面と向かって話してさえいない女性についてあれこれ考えているのだろうかと恥ずかしくなった。とりあえず歩き出したが、それから辿り着くまでのたった30ヤードが銀河と銀河の間ぐらいに感じられた。
まさか、とアールは思った。恐らく信じられないぐらい俺は今緊張してるのかも知れない。
やっとの思いで隣の銀河へ辿り着いて、そこに座する女性に話しかけた。場所は? 服装は? 全部合ってるよな? 話しかけつつも間違っていたらどうしようと思ったのは初めての経験である。
「よろしいでしょうか? ホール&ホッジ・エージェンシーの担当の者です。リーズさんですね?」
あれ、作法とかこれでよかったっけ。いつもどういう風に初対面の作家と話したか忘れてしまった彼であった。
「ええ、そうです。まあ、あまり畏まらないでフィリスで構わないわ」と彼女は女性政治家のような確固たる強そうな意識に満ちた表情を崩さぬまま優雅に微笑んだ。なんというかかっこよかった。アールの頭の中は既に既に可愛いなー可愛いなーという言葉で埋め尽くされ始めていたから、彼が表面上まともな応対を行えたのは奇跡的としか言いようがない。
実際にこうして話してみると予想以上とも言える成果を得られた。警察関係のドラマに出てくるクールでタフなヒロインをふと思い浮かべる。完全ではないがそういうヒロインとも似ていた。平静を装う彼が彼女にどのような印象を持ったのかは明白だ――うわっこの子無茶苦茶可愛いぜ。
ついさっき見えていた謎のイメージはあれからも全く見えなかったが、そのイメージ自体は不快ではなくとても暖かで母、それこそ地母神ガイアのような包容力を持っている気さえしたので、ひとまずアールはそれらを良い記憶として心にしまっておいた。
ところでこうしてのぼせて話しているものだから、仕事しに来たのに一体俺は何をやっているのかと邪念を振り払いたかったが、とても難しかった。カナダのバンドのMVさながらで、目の前の女性の事が頭を占領して仕事に集中できないでいる。
「ちょうどウチの社が得意としてるタイプの作品ですしね。それに他の新人作家と比較しましても、あまり荒削りさを感じないものですから驚きました。どこかで文章を書く勉強を?」
「あらそう? 独学なんだけどね」
ふふっと笑う彼女はとても大人びていて、実写サイクはジーンにこういう心境であったのかと一人よくわからない結論を出した。こうして悶々としているアールの思考をチームメイトのボールド・トンプソンが読めば苦笑する事は確実だった。はっきり言えば気持ちが悪い。
「2年前までは普通に働いていたわ。大学を出たから結構稼ぎのいい仕事に就けて。でも小さい頃からの夢が頭を彗星みたいに掠める夜が続いた。だからある日友達のホームパーティーで少し飲んだ後ソファで横になりながら思ったわ、ああ私やっぱり小説書きたいのねって。お世辞にも人生設計の先見性はなかったけど、元々貯金する方だったし」そこで一旦区切ったので、促されている気がしてアールも話してみた。
「実は私も小説家か、コミックのライターやペンシラーにでもなれないかなって思っていたんです。才能はお察しですが」
フィリスは笑ってくれた。
翌日:ニューヨーク州、アッパー・ウェスト・サイド
表面上、アールは仕事をまともにこなしていた。昨日フィリスと行なった交渉の進捗については既に印刷して提出してあるし、今日は午後2時まで外回りの予定もないのでそれまではデスクワークがメインだった。
しかし手が勝手に動いているような気がして、自分が自分ではないかのように思えた。何時間かパソコンと向き合ってから――欠伸をしない生活もそれはそれで寂しいなと彼は最近思い始めた――昼になったので窓際の机に行って同僚と安っぽい昼食を食べ始めた。
「――おい、アール。お前さっきから空気だけ食ってるぞ。聞いているのかねディック君!」
そこで漸く我に返ったアールは中西部の訛りが残っているコール・ハモンドに言い返した。
「おいおい、ディックって呼ぶなって言ってるだろ!」
「それは置いといて。お前どうしたんだ? さっきフォークでありもしないサラダを掬いながら食べてたぞ」
「えっ」
彼は言われて初めて自分の異常を意識した。口の中にサラダの感触はないし、プラスチックの容器に入ったサラダは先程から減った形跡が無い。我に返るまでにリックが何を言っていたのかも記憶していなかった。これはどういう事か。
間抜けに口を開けたまま彼は考えた。超人的な反応速度によって主観的な時間は引き伸ばされ、3秒間は彼にとって数分並みとなった。一コマでべらべらと台詞を捲し立てる古いコミックの登場人物めいた様子で思考を巡らせた。
そしてヤク中を見るような目でコールに見守られながら、アールはあっと心の中で声を挙げた。俺は昨日から今まで、彼女を頭から追い出せないでいる! 俺のそうした試みが無駄に終わるのを、神はお見通しなんだ…アールはこの上なくデッドマンだった。
ちなみに彼が以前実際に遭遇した神は三本の足で直立し容姿端麗であった。
うっかりナイアーラトテップの方を先に投稿してますが…。
とりあえずこの楽観的で皮肉屋でディックと呼ばれる事を嫌うアールことプラントマンが物語全体の主人公、そしてフィリスちゃんがアールにとってのヒロインになると思います。アイアンマンみたいにヒロインと死に別れたりするわけではなくスーパーマンにとってのロイスを目指そうかなと思いました。
アールが南極で古きもの&ショゴスを相手にあの後どうしたのかはADVENTURE NOVELSというシリーズで取り扱う予定で、アールがヒーローになるまでどのような事が起きたのか(何故スーパーマン型の強靭な肉体を持つヒーローなのにplantという一見無関係な通称で呼ばれるのか)は多分このPLANTMANで取り扱うと思います。
他の主要ヒーローのオリジン、それにネイバーフッズやプロテクターズの結成秘話。そして公民権運動などと平行してエクステンデッドやヴァリアントに関するもう一つの戦後アメリカ史、とあるアールにとっての重要キャラに関するオリジンなんかも書かないといけないので、実際かなり無茶な風呂敷広げではありますがちょっとずつ頑張らないと…。
最近気が付いたんですがネイバーフッドは元々複数を指すみたいなのでネイバーフッズとしなくてもいいみたいですね。痛恨のミス。アベンジャーズを見て適当に思いついたチーム名ですがネイバーフッズという響きが気に入ったので、なんで複数形になったのか、その辺りに触れたエピソードも書いてみるかな。
エクステンデッドやヴァリアントについてはマーベルのFFとX-MENの関係みたいなものを想像していただければ。




