第08話 「北の聖女」と、王都からの不愉快な手紙
水門の一件以来、私の生活は少しだけ……いいえ、劇的に変わってしまった。
「奥方様! これ、うちの畑で採れた一番いいカブです! 受け取ってください!」 「こっちはジャガイモだ! 奥方様が水を流してくれたおかげで、こんなに大きく育ったんだ!」
領地の視察に出かけると、領民たちが両手いっぱいの野菜を持って駆け寄ってくるようになったのだ。 彼らの目はキラキラと輝いていて、口々に「聖女様」「女神様」と呼んでくる。
(せ、聖女様だなんて大袈裟だわ……)
私は恐縮しながらも、差し出された泥付きのカブを受け取った。すると、カブからも声が聞こえてくる。
『食べて! 私を食べて! あの水のおかげで、私の中身は今、最高に甘くてジューシーなのよ! スープにしたら絶品よ!』
野菜まで自己主張が激しい。
どうやらアメジストのネックレスの効果もあってか、私の声を聞く力は、領地全体の植物や大地にまで広がりつつあるようだった。
「ありがとう、皆さん。美味しくいただきますね」
私が微笑むと、領民たちは顔を見合わせて歓声を上げた。その様子を少し離れた場所から見守っていたジークハルト様が、満足げに頷く。
『翻訳! 「素晴らしい……。民がこんなに笑顔を見せるのは初めてだ。コーデリアはやはり太陽だ。尊い。あのカブになりたい」……だそうです! ご主人様、カブへの嫉妬はやめようか!』
魔剣グラムのツッコミを聞き流し、私たちは穏やかな気持ちで城へと戻った。
この幸せな時間が、ずっと続けばいい。そう思っていたのに。
◇
城に戻ると、執事のセバスチャンが険しい顔で待ち構えていた。
銀色の盆の上には、一通の手紙が置かれている。封蝋に押されているのは、見間違えようもない、王家の紋章だった。
「……旦那様。王都より、早馬が到着いたしました」
その言葉だけで、場の空気が一変した。
ジークハルト様の纏う空気が、春の陽気から、真冬の吹雪へと逆戻りする。
彼は無言で手紙をひったくると、執務室へと大股で歩き出した。私も慌ててその後を追う。
執務室に入り、ジークハルト様がペーパーナイフで乱暴に封を切る。
ナイフが『ひえっ、ご主人様怖い! 八つ当たりしないで!』と悲鳴を上げる中、彼は手紙を広げ、視線を走らせた。
みるみるうちに、彼のこめかみに青筋が浮かんでいく。部屋の温度が五度は下がった気がした。
ガタガタと、机の上のペン立てやインク壺が震え出す。彼の放つ殺気が、物理的な振動となって伝わっているのだ。
「……あの、ジークハルト様?」
私が恐る恐る声をかけると、彼はバサリと手紙を机に叩きつけた。
「…………」
沈黙。しかし、その沈黙を破ったのは、やはりグラムの大絶叫だった。
『なぁにが「返還命令」だコラァァァァッ!! ふざけんなよ王都の古ダヌキ共が!!』
グラムが真っ赤になって怒っている。
『解説するぜ奥様! この手紙、マジで胸糞悪い! 「コーデリア・シルヴィスに冤罪の可能性あり。王都の城内設備に不具合が生じているため、彼女の魔術的関与が疑われる。よって、再調査と設備の修復のため、直ちに彼女を王都へ返還せよ」 ……だとさ! 自分たちで捨てておいて、困ったら「冤罪かもしれないから戻ってこい」? どの口が言ってんだアァン!?』
私は呆れてため息をついた。
やはり、王都では魔道具たちのストライキが起きているらしい。それにしても、「返還せよ」とは。
ジークハルト様は、ギリギリと奥歯を噛み締め、低い唸り声を上げた。その背中からは、どす黒い怒りのオーラが立ち昇っている。
『ご主人様の本音、聞く? ……いや、聞かない方がいいかも。今、ご主人様の脳内、「王都焦土化計画」と「使者の八つ裂き手順」で埋め尽くされてるから』
「ジークハルト様」
私は彼のデスクに近づき、その固く握りしめられた拳の上に、自分の手を重ねた。
氷のように冷たい手。でも、私の温もりが伝わると、少しだけ力が緩んだ。
「……私は、戻りません」
はっきりと告げる。ジークハルト様が、驚いたように顔を上げた。
「私を粗末に扱って捨てた方の元になんて、二度と戻りませんわ。あの方たちの都合で捨てられ、呼び戻されるなんて、真っ平御免です」
私はアメジストのネックレスに触れた。
「それに、私にはもう、守るべきものがあります。カブをくれたおばあちゃん、水路の開通を喜んでくれた作業員さんたち……そして」
私は真っ直ぐに、ジークハルト様の赤い瞳を見つめた。
「私を『宝だ』と言ってくださった、あなたのことです」
ジークハルト様の瞳が揺れた。彼は私の手を、壊れ物を扱うように両手で包み込むと、額に押し当てた。
「……渡さない」
祈るような、懺悔するような声。
『翻訳! 「絶対に渡さない。たとえ王軍が攻めてこようと、俺一人で蹴散らして君を守る。君がいない世界なんて、もう考えられないんだ!」……うっ、熱い! 愛が重い! 最高!』
グラムが茶化すが、私は嬉しさで胸がいっぱいだった。
「では、お返事を書きましょうか。『今は領地の復興で忙しいので、無理です』と」
私が提案すると、ジークハルト様は首を横に振った。
そして、新しい羊皮紙を取り出し、羽根ペンを一心不乱に走らせ始めた。サラサラと流れるような筆致。
数秒で書き終えると、彼は満足げに頷き、私に見せてくれた。
そこには、達筆な文字で、たった一行。
『 不 可 』
――以上。
「……えっと、これだけですか?」
「……うむ」
『ご主人様らしい! 「ガタガタうるせぇ、寝言は寝て言え」って意味が凝縮されてるね! これ送りつけたら、向こうの連中、顔真っ青になるぜ!』
グラムがケラケラと笑う。確かに、”沈黙の辺境伯”からの返信としては完璧かもしれない。
「ふふ、わかりました。では、これを送りましょう」
私たちは顔を見合わせて笑った(ジークハルト様は口元が数ミリ動いただけだが、私には爆笑に見えた)。
セバスチャンに手紙を託し、早馬を見送る。窓の外には、広大な領地が広がっていた。
『奥様ー! 今日もいい天気だよー!』 『風が気持ちいいぜ!』
風に乗って、無数の小さな声たちが聞こえてくる。
王都にいた頃は、私の「声」を理解してくれる人は誰一人いなかった。けれど今は、この不器用で優しい夫と、陽気な魔剣、そして領地中の「物」たちが味方でいてくれる。
「……何も、怖くありませんわ」
私はアメジストのネックレスをそっと握りしめ、静かに呟いた。
たとえこれから何が起きようとも、私たちはもう、簡単には折れない。
北の大地に根を張る木々のように、強く在れる気がした。




