第07話 領地の声と、渇いた大地
翌朝。
私は、頭の中に響く大合唱(デスメタル並みの音量)で目を覚ました。
『水ぅぅぅ! 水くれぇぇぇ!』 『カサカサだよ! お肌の曲がり角だよ! 干し野菜になっちゃうよぉ!』 『誰か! 誰か気づいて! 俺の葉っぱがパリパリと音を立て始めている!』
それは、いつもの家具たちの陽気なお喋りとは違った。もっと切実で、必死で、そして数えきれないほどの数の「農作物の悲鳴」だった。
(……うるさい……いえ、何かしらこの声)
私は寝起きのエフェクト(微弱な頭痛)を感じながら、ベッドから起き上がった。
胸元には、昨日ジークハルト様から頂いたアメジストのネックレスが輝いている。
どうやらこのネックレス、ただの装飾品ではないらしい。これをつけてから、私の「耳」の感度が格段に上がっているのだ。以前なら触れないと聞こえなかったような微細な声までもが、遠くから波のように押し寄せてくる。
私はガウンを羽織り、バルコニーへと出た。
眼下に広がるのは、少し春めいて土が見え始めた領地の風景だ。声は、そこから聞こえていた。
『土が硬いよぉ……パックリ割れてるよぉ……』 『水路さん、なんで水くれないの? 意地悪なの?』 『違うんだ……俺だって流したいけど……詰まってるんだよぉ……』
畑の土、作物の芽、そして張り巡らされた水路たち。彼らが一斉に、深刻な水不足を訴えていたのだ。
「……これは、放っておけないわね」
私は急いで身支度を整え、部屋を飛び出した。
◇
執務室では、ジークハルト様が書類と睨めっこをしていた。
その形相は凄まじく、眉間の皺は渓谷のように深く刻まれ、背後には不動明王のような炎が見える(気がする)。
「……失礼いたします、ジークハルト様」
「! ……コーデリア」
私が入室すると、彼はバッと顔を上げ、慌てて怖い顔を緩めようとした。が、焦りすぎて逆に引きつった笑顔(一般的には威嚇と呼ばれる表情)になってしまっている。
『おっ、奥様ヤッホー! ご主人様、朝から顔面凶器! 「しまった、難しい顔を見せて怖がらせたか!? 今すぐ鏡を見て笑顔の練習をしたい!」ってパニック中だよ!』
机の上に置かれた魔剣グラムが、今日も元気に通訳をしてくれる。
私は苦笑しながら、彼の机に近づいた。
「お仕事中にお邪魔して申し訳ありません。……何か、お困り事ですか?」
私が机の上の書類に視線を向けると、ジークハルト様はバツが悪そうに視線を逸らした。
「……水が、来ない」
彼が指差したのは、領地の地図だった。
青いインクで描かれた水路のラインに、いくつものバツ印が書き込まれている。
『補足するぜ! 「雪解け水を利用した農業用水路があるんだが、なぜかここ数日、水がピタリと止まっちまったんだ。このままだと、春の作付けが全滅してしまう。俺の領民たちが植えた可愛いカブたちが……!」……だそうです! ご主人様、カブの心配で魔王顔になってました!』
やはり、さっき聞こえた声と同じだ。
ジークハルト様は拳を握りしめ、悔しげに呟く。
「……私の、不徳だ。……民に、詫びねば」
この人は、すぐに自分のせいにする。
自然現象や設備の不調さえも、自分の統治が至らないからだと背負い込んでしまうのだ。
「いいえ、ジークハルト様のせいではありませんわ」
「……?」
「原因はわかっています。……水路の『水門』さんが、へそを曲げているだけですから」
私が言うと、ジークハルト様はキョトンとした顔になった。
「……水門が?」
「ええ。先ほどから、遠くの方で野太い声が聞こえるのです。『痛いんだよ! 触んな! 開けてなんかやるもんか!』って」
私はネックレスのアメジストに手を添えた。
「私に行かせてください。きっと、直せると思います」
◇
数十分後。
私たちは馬車に乗り、領地の北端にある巨大な貯水施設へと向かっていた。
ジークハルト様は「危険だ」「君を働かせるわけには」と渋っていたが、グラムの『奥様、やる気満々だよ! デートだと思って行こうぜ!』という助言と、私の上目遣いの「お願い」にあっさり陥落した。
現地に到着すると、そこには巨大な石造りの水門がそびえ立っていた。
数十人の作業員たちが、泥だらけになりながら何かを叫んでいる。
「ダメだ! ハンドルがびくともしねぇ!」 「錆びついてやがるのか!? 油を持ってこい!」 「おい、ハンマーで叩いて無理やり動かすぞ! 気合だ!」
作業員の一人が大きなハンマーを振り上げた瞬間、私の耳に怒声が突き刺さった。
『やめろぉぉぉ! 叩くな野蛮人! 脳みそ筋肉か! そこじゃないんだよ! 錆びてるんじゃない、歯車に小石が挟まって痛いっつってんだろ!』
水門のキレキレのツッコミだ。
『あーもう、油かけるな! ヌルヌルして気持ち悪い! あとお前ら、汗臭いんだよ! もっと優しく扱え!』
どうやらこの水門、潔癖症で神経質な性格らしい。
「待ってください! 叩かないで!」
私は馬車を飛び降り、叫びながら駆け寄った。
突然の辺境伯夫人の登場に、作業員たちがギョッとして手を止める。その後ろから、魔王のような形相(本人は心配しているだけ)のジークハルト様が現れたものだから、現場は一瞬で静まり返った。
「か、閣下!? それに奥方様まで……!」 「なぜこのような危険な場所に……!」
現場監督らしき男性が震えながら土下座しようとする。
私は息を整え、水門を見上げた。巨大な鉄の扉は、見るからに頑固そうに閉ざされている。
「その水門を、無理に叩かないであげてください。……彼は今、とても痛がっています」
「は、はい? 痛がる……?」
監督が困惑した顔をする。
私は水門に近づき、冷たい石壁にそっと手を触れた。
「こんにちは、水門さん。大変でしたね。乱暴にされて怒るのも無理はありません」
私はゆっくりと、彼らに寄り添うように意識を向けた。グラムさん曰く、私の魔力は道具たちの「心の錆」や「不調」を取り除くオイルのようなものらしい。
『うっ……。あ、あんた、わかるのか? 俺の声が……』 「ええ、聞こえていますよ。小石が挟まって痛いのですよね? それに、油でベタベタするのも嫌だと」 『そうなんだよぉ! 三日前の増水で、変な石が噛んじまって……。なのにこいつら、ハンマーで叩いたり、変な匂いの油かけたり……俺をなんだと思ってんだ! 繊細な精密機械だぞ!』
水門がボロボロと愚痴をこぼし始める。
私はそれを聞きながら、よしよしと撫で続けた。
「わかりました。……ねえ、少しだけ力を抜いてみて? 私がその石を砕く手伝いをするから」
『……わかった。あんたなら、信じられる気がする。……いい匂いするし』
最後の一言は聞き流しつつ、水門の強張りがふっと緩んだのを感じた。私は振り返り、ジークハルト様を見た。
「ジークハルト様。右側のハンドルの付け根、そこから下へ三センチほどの場所に、小さな亀裂があります。そこに……そうですね、軽く衝撃を与えていただけますか? 剣の柄でコツンと叩く程度で」
「……ここか」
ジークハルト様は理由を問わず、私の言葉通りに動いてくれた。
腰の魔剣を抜きもせず、鞘のまま、指定された一点を軽く突く。
カキン。
澄んだ音が響いた直後。 ゴリッ、と何かが砕ける鈍い音が内部から聞こえた。
『あッ! 取れた! 取れたぞおおお! すげぇ楽になった!』
水門が歓喜の声を上げる。 私は監督に向かって微笑んだ。
「もう大丈夫です。ハンドルを回してみてください。きっと、驚くほど軽く回りますよ」
半信半疑の作業員たちが、恐る恐るハンドルに手をかける。
すると。
スルスル……!
今まで大人数でハンマーを使っても動かなかった巨大な扉が、まるで新品のように滑らかに上がり始めたのだ。 どうと、堰き止められていた水が流れ出し、水路へと勢いよく注がれていく。
「う、動いた……! 直ったぞおおお!!」 「魔法か!? いや、奇跡だ!」
歓声が上がり、作業員たちが抱き合って喜んでいる。その光景を見ながら、水門もまた、満足げに呟いていた。
『ふぅ……生き返ったぜ。ありがとな、姉ちゃん。……あと、そこの強面の兄ちゃんも、顔は怖ぇけどいい腕してるな。痛くなかったぜ』
私はジークハルト様に寄り添った。
「水門さんが、お礼を言っていますよ。『いい腕だ』って」
「……そうか」
ジークハルト様は相変わらず無表情だったが、魔剣グラムが鞘の中で震えている。
『翻訳! 「すげえ……。コーデリアは本当に女神なのか? 触れただけで直してしまった。尊い。今すぐ抱きしめたいけど衆目があるから我慢する、俺の理性頑張れ!」……だそうです!』
領地に水が戻った。遠くの畑からも、『来た! 水が来たよー!』『生き返るぅぅ! 奥様バンザイ!』という喜びの大合唱が風に乗って聞こえてくる。
これが、「万物の代弁者」としての、私の最初の大仕事だった。
この一件以来、領民たちの間で「奥方様は物たちと話せるらしい」「聖女様ではないか?」という噂が広まり、私の行く先々で野菜や農具たちが大歓迎してくれるようになったのは、言うまでもない。
私は胸元のアメジストを握りしめ、戻ってきた水の音と、人々の歓声に心地よく耳を傾けた。




