第38話 お掃除令嬢と、開かずの間
元・男爵令嬢のリリィが新しい使用人として加わってから、城内では早くも「嵐の掃除屋」という二つ名が定着しつつあった。彼女が通った後は、文字通り嵐が過ぎ去ったかのように埃一つ残らず、床は鏡のように輝くからだ。
ただし、その過程で花瓶を倒したりする被害も稀にあるのだが、最近はセバスチャンの熱血指導により、多少はマシになってきた……はずだ。
ある晴れた日の午後。私とジークハルト様は、昼食後の腹ごなしに城の廊下を歩いていた。窓から差し込む光が、磨き上げられた床に反射して眩しいほどだ。
「……綺麗になったな」
ジークハルト様が、感心したように周囲を見渡す。
「はい。リリィさんが毎日張り切ってくれていますから。床板さんたちも『背中が軽くなった!』って喜んでますよ」
「……ああ。だが、もう少し静かだと助かるのだが」
ジークハルト様が、こめかみを軽く押さえてため息をつく。
『昨日の窓拭きの音、ヤバかったぜ! キュッキュッていうより「ギャギャギャ!」って、黒板を爪で引っ掻いた音みたいでさ! 俺様、鳥肌が止まらなくて鞘から飛び出しそうだったんだからな! ご主人様もビビって書類落としてたし!』
腰のグラムがここぞとばかりに訴えてくる。
私は苦笑した。リリィさんの掃除は、汚れとの「戦い」なので、どうしても熱が入ってしまうのだ。
「あ、そうですわ。リリィさん、今日は張り切って『開かずの間』に挑むと言っていましたよ」
「開かずの間……? 北棟の、旧実験室か」
ジークハルト様の表情が曇る。
そこは数代前の当主が魔術の研究に使っていた場所で、実験の失敗により長年封印されていた、いわくつきの部屋である。以前から「あそこだけ空気が淀んでいる」と、城内の家具たちが恐れていた場所でもある。
「危険はないか? あそこには、古い薬品や魔術の残滓が残っているかもしれない。俺も立ち会おう」
◇
北棟の廊下は、他の場所に比べて少し薄暗く、空気がひんやりとしていた。
その最奥にある重厚な扉の前で、リリィさんが仁王立ちしていた。頭には「必勝」と書かれた白いバンダナを巻き、口元を布で覆い、両手に二刀流の如くモップとはたきを構えている。
「リリィさん」
「あ、奥様! それに旦那様!」
私たちが声をかけると、彼女はビシッと軍人のような敬礼をした。
「ご苦労。……開けるのか?」
「はい! この扉の向こうから、汚れたちの挑発的な気配を感じますの! いざ、突入です!」
彼女は気合の声を上げ、勢いよく扉を開け放った。
ギギギィ……。
重々しい音と共に扉が開くと、中からボワッと噴き出したのは、紫色がかった毒々しい埃の煙幕だった。
「ケホッ、ケホッ! な、なんという瘴気!」
『ゲホッ! うわ、臭ぇ! なんだこれ、カビと埃と……古漬けみたいな臭いがするぞ!』
ジークハルト様の腰で、グラムが叫ぶ。
煙が晴れると、部屋の惨状が明らかになった。
床には数十年分の埃が雪のように降り積もり、カーテンは変色し、蜘蛛の巣がシャンデリアを覆っている。家具たちの『苦しい……埃を退けて……』という悲鳴が聞こえてきた。
普通の人間なら逃げ出す光景だ。しかし、リリィは目を輝かせた。
「あら、素敵な敵(汚れ)ですこと! やりがいがありますわね! 覚悟なさい!」
彼女は雄叫びを上げ、埃の海へと飛び込んだ。
「まずは換気! 悪しき空気よ、去りなさい!」
バァァン! と窓を開け放つと、新鮮な空気が流れ込む。それだけでも、家具たちが深呼吸するのがわかった。
「次はこれよ! 必殺! 高速回転・竜巻はたき!」
シュババババッ!
リリィが両手のはたきを回転させると、積もっていた埃が一瞬で舞い上がり、窓の外へと吸い出されていく。その動きはもはや掃除ではない。剣舞だ。
ジークハルト様が、その動きを見て目を見開いて呟く。
「……速い。……ただの掃除屋ではないな」
『ご主人様、感心してる場合!? あれはたきだよ!?』
グラムのツッコミももっともだが、確かにリリィの身体能力は異常だ。
「まだまだ! 次は床ですわ! 特製・激落ち魔洗剤!」
リリィはスプレーボトルを抜き、早撃ちガンマンのように床に噴射した。
シュッシュッシュッ!
リリィが独自の配合で生み出した強力な洗剤が、こびりついた汚れを浮かび上がらせる。
「とどめですわ! モップ・エクスカリバー!」
彼女はモップを聖剣のように掲げ、渾身の力で床を拭き上げた。
キュッキュッキュッ!
凄まじいスピードと圧力。黒ずんでいた床が、一拭きごとに本来の飴色の輝きを取り戻していく。
「すごい……! リリィさん、魔法みたいです!」
私が拍手すると、リリィは汗を拭いながらニカッと笑った。
「お礼には及びませんわ! これが私の生き甲斐ですから! さあ、ラストスパートですわよ! 仕上げに奥の棚も拭き上げますわ!」
彼女は勝利を確信し、意気揚々と部屋の奥へ歩き出した。そこには、ガラスケースに入った年代物の実験器具が並んでいる。
しかし、その直後。
「あ、あら? 足元が……」
ツルッ。
あまりに床を完璧に磨きすぎたせいで、そこはもはや氷の張った湖面よりも滑らかだった。
勢いよく踏み込んだ彼女は漫画のように足を滑らせ、派手に宙を舞った。
「きゃあああああ!」
ドガシャァァァン!!
盛大な破壊音と共に、リリィはガラスケースの棚に、解き放たれた矢のように突っ込んだ。
「…………」
静寂。舞い上がるガラスの破片と、こぼれた謎の薬品の匂い。
その中心で、リリィが瓦礫に埋もれながら「てへっ☆」と舌を出した。
「……あ」
ジークハルト様が、割れたフラスコの一つを見て固まっている。それは、複雑なガラス細工が施された、見るからに高価そうな一点物だった。
『あーあ。あれ、初代当主が愛用してた「賢者のフラスコ」じゃね? 国宝級だぜ?』
グラムの声が私の脳内に響く。私は青ざめて、リリィに伝えた。
「リ、リリィさん……。グラムさんが言っています。『あれは国宝級のフラスコだ』って……」
私の言葉を聞いた瞬間、リリィの顔がサーッと青ざめる。
「も、申し訳ございませんんん! 私、私……一生働いても返せませんわ!」
パニックになるリリィ。ジークハルト様は額を押さえ、深いため息をついた。
しかし、その表情に怒りはなかった。彼はゆっくりと部屋を見渡した。かつては幽霊屋敷のようだった部屋が、今は窓から差し込む光で満たされ、清浄な空気が流れている。家具たちは『わーい! 綺麗になった!』と喜んでいる。
「……まあ、いい」
ジークハルト様は、割れたフラスコの破片を拾い上げ、苦笑した。
「フラスコ一つで、この部屋が蘇るなら……安いものか」
「だ、旦那様……!」
「それに、あれは……どうせ使い道もわからん」
なんという大雑把な(けれど優しい)慰め。リリィは涙目でひれ伏した。
「……ただし、セバスチャンへの報告は、君が自分で行うように。……俺は、かばいきれんぞ」
「ひぃっ!?」
リリィの悲鳴がこだました。
結局、その日の夕食時、正座をさせられたリリィが、セバスチャンから長時間のお説教を受ける姿があった。
けれど、その横顔はどこか晴れやかだった。
翌日。ピカピカになった「元・開かずの間」は、日当たりの良い客室として開放されることになった。
リリィのドタバタ劇のおかげで、この城の暗い過去がまた一つ、光に満ちた場所へと変わったのだ。
ジークハルト様は、綺麗になった部屋を見て、ボソリと言った。
「……まあ、悪くないな」
どうやら、彼もこの賑やかな変化を、楽しんでいるようだった。




