第02話 魔剣グラムの通訳
私の目の前には、凍てつくような冷気を纏った”沈黙の辺境伯”ジークハルト様。
そして私の頭の中には、彼の腰にある魔剣のやかましい絶叫が響き渡っていた。
『うわあ、目が合った! 今俺を見たよな!? 可愛い! 瞳が宝石みたい! やべえ、ご主人様がガチガチに固まってる! 顔怖いよご主人様! もっと笑って! 口角上げて! あーダメだ、緊張しすぎて表情筋死んでるぅぅぅ!』
魔剣がギャーギャーと脳内に直接響く声で騒いでいる。
刀身からは紫色のオーラが漏れ出ていて、いかにも「呪われてます」という風貌なのだが、声のテンションが異常に高い。
ジークハルト様は眉間に深い皺を寄せ、凍えるような低い声で、一言だけ発した。
「……帰れ」
冷徹な拒絶。空間ごと断ち切るような、有無を言わせぬ一言だった。
エントランスの空気がピキリと凍りつく。控えていた使用人たちも、悲痛な顔で俯いた。
やはり、噂通り私は歓迎されていないのだろうか。
ショックを受けかけた、その時。魔剣が絶叫した。
『違うだろおおおおお!! 何言ってんだご主人様ァ! そこは! 「ここは寒くて何もない場所だから、君のような華やかな女性には相応しくない。これ以上君が不幸になる前に、どうか温かい故郷へ帰って幸せになってほしい」っていう長文の気遣いだろうが! コミュ障こじらせすぎて、脳内編集の結果「帰れ」の二文字になっちゃってるよおおお!』
「……え?」
私は思わず、ジークハルト様の顔を凝視した。
氷の彫像のような無表情。 しかし、よーく見ると、銀髪の間から覗く耳が真っ赤に染まっている。
そして、わずかに指先が震えていた。
『やっちまった……って顔してるよ! 心の中で土下座してるよ! 「終わった、嫌われた、死にたい」ってメンタル崩壊してるよ! この人、見た目は魔王だけど中身はピュアな子犬なんだよ! 誰か! 誰かこの不器用な男の言葉を通訳してくれえええ!』
なるほど。
”沈黙の辺境伯”の正体は、冷酷な殺人鬼などではなく、ただの極度の口下手で、人見知りで、とてつもなく不器用な方だったらしい。しかも、初対面の私に対してこれほど気を遣ってくれているとは。
私は、可笑しさを噛み殺しながら、震えるジークハルト様に一歩近づいた。
そして、にっこりと微笑んで問いかける。
「あの、ジークハルト様。もしかして、『ここは寒くて不便な場所だから、私のような者がいたら風邪を引いてしまう。だから私の身を案じて、帰したほうがいい』とおっしゃりたいのですか?」
その瞬間。
ジークハルト様の青い瞳が、カッと見開かれた。そして次の瞬間、コクコクコクッ! と、残像が見えるほどの速度で頷いた。
『えっ!? 通じた!? なんで!? ご主人様の超圧縮言語が通じるエスパーなのこの子!? 運命じゃん! 女神じゃん!』
魔剣が盛り上がっている。
私はクスクスと笑い、彼の冷たく大きな手をそっと取った。
「ふふ、ご配慮ありがとうございます。でも、帰りませんわ」
「……?」
「だってこのお城、とっても賑やかで楽しそうですもの」
『は……?』
ジークハルト様が、ポカンと口を開けた。
クールな仮面が崩れ、呆気にとられた顔は、なんだかとても可愛らしい。
私は彼の手をギュッと握った。
「それに、旦那様がこんなにお優しい方だと知ってしまいましたから。これからどうぞ、よろしくお願いいたしますね?」
私がそう言うと、ジークハルト様の顔が、耳だけでなく首筋まで真っ赤に染まった。
彼は何かを言おうと口をパクパクさせたが、結局言葉にはならず、ただ潤んだ瞳で私を見つめ返し、強く私の手を握り返してくれた。
『うわあああん! 天使だ! ご主人様、聞いた!? 天使が嫁に来たよ! 神様ありがとう!』 『よかったなジーク!』 『おめでとう! 今日はお祝いだ!』 『シャンパン抜け! 暖炉の火をもっと強くしろ!』 『おい誰か! 奥様がつまずかないように絨毯の毛並みを整えろ!』
魔剣だけでなく、床の絨毯や壁の燭台、窓枠に至るまでが祝福の声を上げ始めた。使用人たちも、最初は驚いていたが、ジークハルト様が私の手を握っているのを見て、安堵の涙を浮かべている。
どうやら私の新生活は、退屈することはなさそうだ。
◇
その後、私は執事のセバスチャン(彼だけは最初から優しげな目をしていた)に案内され、客間へと通された。
部屋に入った途端、またしても大合唱が始まる。
『いらっしゃいませー! ここが一番日当たりがいい部屋よ!』 『ベッドのふかふか具合には自信あります! 昨日のうちに天日干ししておきました!』 『カーテンの柄、ちょっと古いけど気にしないでね!』
家具たちの歓迎を受けながら、私はドレッサーの椅子に腰を下ろした。
どっと疲れが出た。王都からの長旅、そして緊張の初対面。
でも、不思議と心は軽かった。
「……いい人だった」
鏡に映る自分に向かって、小さく呟く。独り言ではない。鏡が『そうでしょそうでしょ! 旦那様は顔が怖いだけなのよ!』と相槌を打ってくれたからだ。
王都では「呪われた辺境伯」と恐れられていたけれど、実際の彼は、自分の言葉で相手を傷つけることを極端に恐れる、優しい人だった。その不器用さが、私には愛おしく思えた。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「失礼いたします、奥様。旦那様より、お着替えと温かいお食事を用意するようにと」
入ってきたのは、年配のメイド長だった。
彼女の後ろには、数人の若いメイドたちが、質の良さそうなドレスやお湯の入ったたらいを抱えて続いている。
「ありがとうございます。あの、旦那様は?」
「執務室に戻られました。……その、顔を合わせるのが恥ずかしいそうで」
メイド長がくすりと笑う。
あの後、ジークハルト様は顔を覆って逃げるように去っていったのだ。きっと今頃、執務室で魔剣相手に反省会でも開いているのだろうか。
(ふふ、これから毎日、あの心の声が聞けるのね)
私は、これから始まる日々を想像して、自然と笑みをこぼしていた。
王都を追い出された時はどうなることかと思ったけれど、ここは案外、私にとっての楽園になるのかもしれない。




