第14話 忘れられた森の「泣き虫」
新しいベッドの寝心地(と、旦那様の不器用な腕枕)を堪能した翌日。
私は、城のバルコニーで風に当たっていた。
今日も北の大地は平和だ。
遠くの畑からは野菜たちの『もっと肥料くれー』『水うめぇー』という元気な声が聞こえてくるし、中庭では使用人たちが洗濯物を干しながら、和やかに談笑している。
――ヒュオオォォ……。
その時。風に乗って、どこか悲しげな、低い唸り声が聞こえてきた。
『……うぅぅ……』 『……痛いよぉ……ひとりぼっちは嫌だよぉ……』
それは、野菜や家具のような軽い口調ではない。もっと野性的で、それでいて子供が泣きじゃくるような、切実な響きだった。
「……あの森から?」
視線の先にあるのは、領地の北端に広がる深い針葉樹林。
そこだけ黒い霧がかかったように薄暗く、鳥の声さえ聞こえない場所だ。
「……コーデリア」
背後から声をかけられ、振り返るとジークハルト様が立っていた。
彼は私の視線の先――あの森を見ると、わずかに眉を顰め、無意識に左頬の傷跡に手を触れた。
「……あの森は、危険だ」
「ジークハルト様? その傷は、もしかして……」
「……昔、あそこに棲む『白い魔物』につけられた」
彼は静かに語った。
十年前、まだ彼が若かりし頃、森から現れた巨大な魔獣と戦い、相討ちに近い形で追い払ったのだという。
その時についたのが、この頬の傷。彼が「人斬り」や「狂犬」と呼ばれるようになったのも、その時の鬼気迫る戦いぶりが噂に尾ひれをつけて広まったかららしい。
『補足するぜ! ご主人様、「あいつはヤバい。マジで強い。コーデリアには指一本触れさせたくないから、絶対に近づくなよ」って警告してるんだ。……珍しく真剣な顔だぜ』
腰の魔剣グラムも、いつになく真面目なトーンだ。
でも。
『……えぐッ、えぐッ……痛いよぉ……』 『……誰も来ない……寂しいよぉ……』
私の耳には、どうしてもその声が「凶悪な魔獣」のものには聞こえなかった。
あれは、怪我をして動けなくなった迷子の声だ。
「ジークハルト様。……行ってみませんか?」
「! ……だめだ」
「でも、泣いています。『痛い』って」
私が訴えると、ジークハルト様は驚いた顔をした。
しばらく葛藤するように目を伏せていたが、やがて深くため息をつき、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……俺の背中から、離れるな」
◇
鬱蒼とした森の中は、昼間でも薄暗かった。
ひんやりとした冷気が肌を刺す。木々たちも『来るな』『あいつが暴れるぞ』と怯えているようだ。
ザッ、ザッ……。
私たちは警戒しながら奥へと進む。そして、開けた場所に出た瞬間。
「グルルルルッ……!!」
地響きのような唸り声とともに、白い巨体が目の前に現れた。
体長は2メートルを超えているだろうか。白銀の毛並みを持つ、巨大な狼――伝説の魔獣「フェンリル」の亜種だ。
その瞳は血走って赤く光り、鋭い牙からは涎が滴っている。
「下がれッ」
ジークハルト様が瞬時に私を庇い、魔剣グラムを抜いた。紫色の閃光が走り、殺気が膨れ上がる。
『ッシャアア! やるかワン公! ご主人様の古傷の礼、たっぷりさせてもらうぜ!』
グラムも臨戦態勢だ。魔獣が、低い姿勢で飛びかかろうとした、その時。
『……うあぁぁぁん! 怖いよぉ! またその痛い棒(剣)を持った人が来たぁ! いじめないでぇ!』
魔獣の口から発せられたのは、咆哮ではなく、全力の「泣き言」だった。
「待って! ジークハルト様、待ってください!」
私は慌ててジークハルト様の腕にしがみついた。彼は寸前で剣を止めたが、驚いて私を見る。
「……コーデリア!?」
「違います! その子、怒ってるんじゃありません! 怖がってるんです!」
私は震える魔獣の前に進み出た。
「グルルッ……(来るな! 噛むぞ!)」
「怖くないわよ。……ねえ、どこが痛いの?」
私が優しく語りかけると、魔獣はピタリと動きを止めた。
赤い瞳が、不安そうに揺れる。
『……わかるの? ボクの言葉……』
「ええ、わかるわ。……足を見せて?」
魔獣はおずおずと、巨大な前足を差し出した。
よく見ると、肉球の間に、錆びついた古い罠の金具が深く食い込んでいた。化膿して、パンパンに腫れ上がっている。
『痛いんだ……取れないんだ……』
どうやら、密猟者が仕掛けた罠にかかってしまい、それを自力で外せぬまま、痛みと人間への恐怖で暴れていたらしい。
十年前、ジークハルト様と戦った時も、もしかしたら虫歯か何かで機嫌が悪かっただけなのかもしれない。
「かわいそうに……。今、取ってあげるわね」
私が手を伸ばすと、ジークハルト様が「っ!」と息を呑んだが、私が目配せすると、彼は剣を収め、無言で見守ってくれた。
私は罠に手を触れ、魔力を流し込む。
「少し我慢してね。……えいっ」
パキン。
私の魔力干渉で錆びた金具が弾け飛び、ポロリと地面に落ちた。
『あ……! 痛くない!』
「これで大丈夫。……ジークハルト様、傷薬を持っていますか?」
私が振り返ると、ジークハルト様は呆然としていたが、すぐに懐から最高級のポーションを取り出して渡してくれた。
それを患部にかけると、傷はみるみるうちに塞がっていく。
『わぁ……! 治った! すげぇ! ありがとう、白い姉ちゃん!』
魔獣――フェンリルちゃんは、嬉しさのあまり、ブンブンと尻尾を振った。その風圧だけで木が数本倒れそうになる。
そして。
ペロリ。
巨大な舌が、私の顔を舐め上げた。 ザラザラしていて痛いが、感謝の気持ちは伝わってくる。
「きゃっ、くすぐったい!」
私が笑っていると、突然、視界が暗くなった。
ジークハルト様が割って入り、私とフェンリルの間に立ちはだかったのだ。
そして、フェンリルを物凄い形相で睨みつける。
「……離れろ」 『ひぃっ! ごめんなさい! もう舐めません!』
フェンリルが即座にお腹を見せて服従のポーズをとった。
『翻訳! 「俺の妻だぞ。気安く触るな。というか唾液がついたじゃないか、今すぐ拭いてあげたいけどハンカチ忘れた、くそっ!」……だそうです! ご主人様、犬相手に本気で嫉妬すんのやめてもらっていいスカ?』
グラムの呆れた声が響く。
◇
結局、そのフェンリルは「ポチ」と名付け、城に連れ帰ることになった。
城に到着すると、使用人たちは腰を抜かしたが、ポチがお座りをして私の指示を待つのを見て、恐る恐る受け入れてくれた。
「……番犬には、なるか」
ジークハルト様は不満げに腕を組んでいたが、実は満更でもないらしい。 あとで大広間を通った時、壁の遠見の鏡さんが『アタクシ、見ちゃったのよ』とこっそり教えてくれたのだ。 私がポチの水を用意するため席を外した隙に、彼はポチの背中を撫でていたらしい。
『旦那様ったら、無表情のまま「もふもふだ……悪くない……」って呟いてたわよ。本当に素直じゃないんだから』
こうして、ただでさえ賑やかな我が家に、また一つ大きな(物理的にも)声が加わった。
畑、鉱山、そして森の主。
北の領地は、今や鉄壁の「コーデリア親衛隊」によって守られていると言っても過言ではない。
平和で、温かくて、頼もしい仲間たち。 これなら、どんな敵が来ても大丈夫。
――そう思っていた矢先のことだ。 城の門番が、慌てた様子で駆け込んできたのは。
「か、閣下! 奥方様! お客様です!」
「……レイモンドか?」
「いえ、違います! その……『お父様』と名乗る男性と、派手なドレスの女性が……」
私は息を呑んだ。 父。
レイモンド殿下からの追放命令をこれ幸いと受け入れ、高額な結納金と引き換えに私を厄介払いした、実家の父だ。
そして、派手な女性というのは、おそらく継母だろう。
王都からの強硬手段が失敗したと見て、今度は「情」と「親の権威」を使って私を連れ戻しに来たのだ。
「……会わなくていい」
ジークハルト様が即座に言い放つ。 しかし、私は首を横に振った。
「いいえ、会います。……そろそろ、きちんと『さようなら』を言わなくてはなりませんから」
私はドレスの裾を強く握りしめた。 これは、過去の自分との決別だ。
今の私には、彼らの理不尽な言葉など、もう痛くも痒くもないのだから。




