第11話 泥まみれの敗走
「ひ、ひぃぃッ! 化け物だ……!」 「足が! 泥が掴んで離さないんだ!」
ジークハルト様が放った殺気だけで、精鋭であるはずの近衛騎士団は恐慌状態に陥っていた。
彼らは武器を構えることすら忘れ、ただガタガタと震えている。
無理もない。今のジークハルト様は、愛する妻(私)を守るために、本気で怒っているのだから。
「こ、腰抜け共め! 相手はたった二人だぞ! 行け! 行ってその女を捕らえろ! ふん縛って俺の前に引きずり出せ!」
レイモンド殿下だけが、泥の中に腰まで浸かりながら、金切り声を上げて命令を飛ばしている。
その醜悪な姿に、ジークハルト様は冷ややかな目を向け、ゆっくりと腰の剣を抜いた。
シャラッ……。
美しく、そして背筋が凍るような金属音が響く。現れたのは、紫色の燐光を放つ国宝級の魔剣グラムの刀身だ。
『ヒャッハー! 久しぶりの外だぜ! ご主人様、やっちゃう? あいつら全員、スライスチーズみたいにしちゃう?』
グラムが物騒な提案をするが、ジークハルト様は首を振った。
そして、騎士団の遥か後方――空の彼方に向かって、無造作に剣を振り抜いた。
――ズンッ!!
轟音。
直後、空気が裂けるような衝撃波が騎士たちの頭上を通過した。
彼らが悲鳴を上げて地面に伏せると、分厚く垂れ込めていた雲の層が、地平線の彼方まで真っ二つに裂け、そこから一直線に青空が覗いていた。
「…………」
静寂。
ただの「素振り」である。魔力も乗せていない、ただの腕力による一振りで、天候が変わってしまったのだ。
「……次は、外さん」
ジークハルト様がボソリと告げる。それは死の宣告よりも恐ろしく、騎士たちの心臓を鷲掴みにした。
『翻訳します! 「妻に指一本でも触れてみろ。次は雲じゃ済まないぞ。……あと、泥が跳ねてコーデリアのドレスが汚れたら、お前らの国の予算で弁償させるからな」……だそうです! 後半、所帯じみてます!』
騎士たちは顔面蒼白になり、次々と武器を捨てて両手を挙げた。
「こ、降参だ!」 「勝てるわけがない! お助けください!」 「国へ帰ります! 二度と来ません!」
戦意喪失。もはや軍隊としての体を成していなかった。
「な、貴様ら! 命令違反だぞ! 戻れ! 戦え!」
レイモンド殿下が喚くが、誰も聞く耳を持たない。
それどころか、彼が握りしめていた予備の剣までもが、パキン! と音を立てて自ら折れた。
『やってらんねーよ。こんな弱虫の主人のために折れるなら、いっそここで自害するわ』
剣の最期の言葉を聞き届け、私は静かにレイモンド殿下に近づいた。
彼は折れた剣を呆然と見つめ、尻餅をついたまま後ずさる。
「く、来るな! 魔女め!」
「レイモンド殿下。……いいえ、ただのレイモンド様」
私は彼を見下ろし、冷徹に告げた。
「ご覧の通り、この北の地はあなたを拒絶しています。騎士たちも、武器も、そして大地さえも」
「ぐっ……うぅ……」
「これ以上、恥を晒す前にお帰りください。王都で、壊れた水道管や開かない扉と向き合う方が、まだ建設的かと思いますわ」
私の言葉に、レイモンド様は悔しさに顔を歪めたが、背後に立つジークハルト様の冷たい視線に射抜かれ、ついに心を折られたようだった。
「……お、覚えていろ! このままでは済まさんぞ!」
彼は捨て台詞を吐くと、泥まみれのまま這いずり回り、なんとか逃げ出した馬にしがみついた。
「撤退だ! 総員、撤退ーッ!」
その号令を待つまでもなく、騎士たちは我先にと逃げ出した。
泥道が『ほらよ、帰るなら通してやるぜ』と急に硬くなり、彼らの逃走をスムーズにサポートしたおかげで、あっという間に王都軍の姿は見えなくなった。
◇
嵐が去った後には、静寂だけが残った。
ジークハルト様は、グラムを鞘に納めると、ふぅ、と小さく息を吐いた。そして、恐る恐る私の方を振り返る。
「……怖かったか」
眉を下げ、不安そうに聞いてくる。
さっきまでの魔王のような覇気はどこへやら。まるで、いたずらが見つかった子供のような顔だ。
『ご主人様、反省会入りまーす。「あんな乱暴なところを見せてしまった。幻滅されたかもしれない。野蛮人だと思われたらどうしよう。雲斬るの、ちょっとやりすぎたかな?」ってビクビクしてます』
私は思わず吹き出した。そして、泥一つついていない彼の胸に飛び込んだ。
「いいえ、ちっとも! とっても素敵でしたわ!」
「……!」
「私を守るために、あんなに怒ってくださって……。私、世界一幸せ者です」
私が彼を見上げると、ジークハルト様は真っ赤になって目を泳がせ、それからぎこちなく私の背中に腕を回し、抱き締め返してくれた。
「……守る。……何があっても」
「はい、信じております」
『ヒューヒュー! 熱いねぇ! 岩も溶けちゃうよ!』 『まったく、見せつけてくれるわねぇ。アタクシも磨かれたくなっちゃったわ』
グラムだけでなく、私のネックレスのアメジストまでがからかい始めた。
北の大地の風が、祝福するように優しく吹き抜ける。
こうして、王都からの第一次侵攻(?)は、ものの数分で鎮圧された。
しかし、これで全てが終わったわけではない。逃げ帰ったレイモンド様が、このまま大人しくしているはずがないし、王都の混乱も収まってはいない。
けれど、今の私には確信があった。
この人と、この賑やかな道具たちが一緒なら、どんな困難も乗り越えられると。
「帰りましょう、ジークハルト様。お腹が空きました」
「……ああ。……今日は、シチューだ」
『やったー! シチュー! 俺、人参切るの手伝う!』
「グラムさんは大人しくしてて! まな板が傷つくから!」
私たちは笑い合いながら、温かい我が家――城へと歩き出した。




