第10話 歓迎しない大地
領地の南端、王都と北国を繋ぐ国境の峠道。
普段は商隊が行き交うその街道は今、異様な殺気に包まれていた……わけではなかった。
どちらかと言えば、異様な「悲鳴」に包まれていた。
「ひぃっ! なんだこの道は! ぬかるみが……足が抜けない!」 「馬が! 馬が言うことを聞かん! 進もうとすると嘶いて暴れるぞ!」 「さ、寒い……! 鎧が冷たすぎて肌に張り付く!」
王都から意気揚々と乗り込んできた、レイモンド殿下率いる近衛騎士団。
彼らは今、領地に入る手前の山道で、完全に行軍を停止していた。
彼らは知らない。この峠の地面や岩、そして吹き付ける風までもが、すでに私の「お願い」を聞き入れていることを。
◇
私とジークハルト様は、峠を見下ろす高台に立っていた。
眼下では、銀色の鎧を纏った騎士たちが、まるで蟻地獄に落ちた蟻のように泥道でもがいている。
『うっわ、傑作! 見ろよあのザマ!』
腰の魔剣グラムが大爆笑している。
『地面たちが「踏むな汚らわしい」「鉄の靴が痛いんだよ」ってブチ切れて、わざと泥状になって足を絡め取ってるぜ! 風の精霊も「お前らの匂い嫌い」って、向かい風全開だし!』
グラムの言う通りだ。
私はここに来る前、街道の入り口で地面に手を触れ、こう頼んだのだ。 『乱暴な人たちが来るけれど、どうか通さないであげてね』と。
北の大地の精霊たちは、よそ者に対して厳しい。ましてや、彼らの主であるジークハルト様を敵視する相手なら尚更だ。
「……コーデリア」
隣に立つジークハルト様が、ポツリと呟いた。彼は眼下の惨状を見て、少しだけ憐れむような、それでいて呆れたような目をしている。
「……私の出番は、あるだろうか」
彼は魔剣の柄に手をかけていたが、抜く気配がない。
それもそうだろう。敵はまだ、こちらの姿を確認するどころか、自分たちの足元と戦うのに必死なのだから。
「ふふ、もう少しだけ様子を見ましょう。……あら? あそこで一番騒いでいるのが、レイモンド殿下ですね」
私が指差した先。豪華な馬車から引きずり出され(馬車が『もう動きたくない』と車輪をロックさせたらしい)、泥だらけの道に放り出された金髪の男性がいた。
「ええい、何をしている! たかが泥道ごときに足を取られるとは、近衛の名折れだぞ!」
レイモンド殿下は、泥に汚れるのを嫌って、部下の騎士の背中におぶさっていた。
その姿に、ジークハルト様の眉間の皺が深くなる。
「……騎士の背に、乗るなど……」
『ご主人様、ドン引きです! 「部下は乗り物じゃない。指揮官なら先頭を歩け」ってガチ説教したくてウズウズしてます!』
その時、レイモンド殿下がこちら――高台の上に立つ私たちの姿に気づいた。
「あ、あれは……! ジークハルト! それに、コーデリアか!?」
彼の絶叫が風に乗って聞こえてくる。距離はあるが、その顔が怒りで歪んでいるのがわかった。
「貴様ら! こんなぬかるんだ道を用意して出迎えるとは、王族に対する不敬だぞ! 今すぐ降りてきて、この泥を舐めとって土下座しろ!」
相変わらずの傲慢さだ。
私はため息をつき、ジークハルト様の腕に手を添えた。
「ジークハルト様。少し、ご挨拶をしてきてもよろしいですか?」
「……一人では、行かせない。だが、この崖は急だ」
ジークハルト様が足元の断崖絶壁を見て眉をひそめる。普通の令嬢なら足がすくむ高さだが、私はニコリと笑って地面に視線を落とした。
「ふふ、大丈夫ですよ。……ねえ、岩さんたち。下まで降りたいのだけれど、力を貸してくれないかしら?」
私が優しく語りかけると、ゴゴゴ……と低い音が響いた。
『おうよ! 奥様のお通りだ!』 『任せろ! 足場作るぜ! 滑らないように表面ザラザラにしとくな!』
岩肌が意志を持って動き出し、歩きやすい石畳の道を作り出してくれる。
まるで王族のパレードのように優雅に降り立つ私たちを見て、騎士たちが「な、なんだあれは……魔法か!?」とどよめいた。
「久しぶりですね、レイモンド殿下」
私は、泥沼の真ん中で立ち尽くす(正確にはおんぶされている)元婚約者に、涼やかな笑顔を向けた。
「北の地へようこそ。……と言いたいところですが、どうやらこの土地の皆様は、あまり歓迎していないようですね」
「黙れ! この魔女め!」
レイモンド殿下が、騎士の背中から降りようとして、バランスを崩してドチャッ! と泥の中に手をついた。
「ひっ!? つ、冷たい! 汚い!」
「おやおや。……大丈夫ですか?」
私が心配するフリをすると、レイモンド殿下は泥だらけの手を震わせて私を指差した。
「コーデリア! 貴様の仕業だな! 王都の設備を壊したのも、この異常な道も、すべて貴様の呪いだろう! わかっているんだぞ!」
「呪い? いいえ、違います」
私は胸元のアメジストに触れ、キッパリと否定した。
「それは『嫌悪』です。王都の道具たちも、この北の大地も……ただ、あなたのことが嫌いなだけですわ」
「なっ……!?」
「物を粗末にし、感謝もせず、ただ利用するだけのあなたには、誰も力を貸したくない。……それだけの話です」
私の言葉に、レイモンド殿下の顔が朱色に染まった。
図星を突かれた怒りと、屈辱。 彼は腰の剣(借り物の予備剣)を引き抜き、喚き散らした。
「殺せ! 総員、突撃せよ! この生意気な女と、化け物辺境伯を討ち取れ!」
騎士たちが躊躇いながらも剣を構える。
しかし。
ザッ。
ジークハルト様が、無言で一歩、前に出た。たった一歩。
それだけで、空気が凍りついた。
彼が腰の魔剣グラムの柄に手をかける。
抜刀はしない。ただ、赤い瞳で騎士たちを一睨みしただけだ。
「……退け」
低く、地を這うような声。
それは比喩ではなく、実際に物理的な「殺気」の衝撃波となって騎士たちを襲った。
「ヒッ……!?」
「うわあああ!?」
最前列の騎士たちが、腰を抜かして泥の中に倒れ込む。馬たちが恐怖で棹立ちになり、制御不能に陥る。
『翻訳は……いらねーな! ご主人様の本気モードだ! 「俺の妻に剣を向けたな? その腕、切り落とされたい奴から前に出ろ」って顔に書いてあるもん!』
グラムが楽しそうに囃し立てる。 戦力差は歴然だった。
泥に足を取られ、寒さに震える騎士団と、大地そのものを味方につけた”沈黙の辺境伯”。
この勝負、戦う前から決着がついている。




