第2話 未完の音
翌朝、翔は早くに目が覚めた。
ホテルのカーテンの隙間から、冬の朝の光が差し込んでいる。
けれど、その光はどこか白く冷たく、部屋の空気を温めることはなかった。
昨夜、悠真の声を聴いたあと、何度も夢の中で彼を見た。
笑っていた。
あの頃のまま、ドラムスティックをくるくる回しながら、「おい、翔、テンポ走ってるぞ」と茶化すように言っていた。
目が覚めた今も、その笑顔がまぶたに焼きついている。
枕元には、あのCDが置かれていた。
悠真の母から受け取った、未完のデモ。
翔はしばらくそれを見つめ、ため息をひとつ落とした。
——もう一度、みんなで音を鳴らせたら。
そんなありえない願いが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
***
午前十時。
翔は地元駅近くの喫茶店「風見鶏」に向かった。
この店は、かつてバンドの溜まり場だった場所だ。
まだSNSもなかった時代、連絡はすべてこの店の電話番号をメモして残していた。
十年ぶりに開けたドアからは、あの頃と同じコーヒーの香りがした。
「……翔」
カウンター席に座っていた海斗が手を挙げた。
スーツではなく、ラフなシャツ姿。
教師をしているせいか、清潔感があって、昔より少し大人びて見えた。
「早いな。昨日、あまり寝られなかっただろ」
「まあな。お前もだろ?」
「……ああ」
二人は軽く笑い、マスターにコーヒーを注文した。
昔はここで、どちらが奢るかで揉めたものだ。
今日はそんなこともなく、自然に黙って同じブラックを飲む。
沈黙の中、翔は鞄からCDを取り出した。
テーブルの上にそっと置く。
「これ、昨日の。……聴いたか?」
「聴いた。家に戻ってから。……途中で止まるやつだろ」
「ああ。最後のあの声……なあ、海斗。あいつ、ほんとに——」
「本気だったと思うよ。もう一回、やりたかったんだろうな」
海斗の言葉に、翔は胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
悠真は、まだあの音を追っていた。
自分たちが置き去りにしたものを、彼だけが抱え続けていたのかもしれない。
「……もしさ」
翔は小さく息をついた。
「この曲、最後まで完成させられたら——少しは、あいつに届くのかな」
その言葉に、海斗は目を細めた。
「まさか、またやる気か?」
「やるってほどじゃない。ただ……音を合わせてみたいだけだ。最後にもう一度」
「無理だろ。俺たち、もう三十だぞ。学生の頃みたいには——」
「それでもいい。形にならなくても、あの音を思い出せたら、それでいいんだ」
翔の声は震えていた。
海斗はため息をつき、カップの底を見つめる。
「お前、相変わらずだな。昔からそうだ。言い出したら止まらない」
「悪いな」
「いや……嫌いじゃないよ、そういうとこ」
ふっと笑い、海斗は残りのコーヒーを飲み干した。
「美鈴に話してみよう。どうせあいつも、同じことを考えてるさ」
***
昼過ぎ、駅前の公園。
紅葉が風に揺れ、ベンチに座る美鈴の肩に木漏れ日が落ちていた。
カメラを膝に乗せ、ファインダーを覗いている。
翔たちに気づくと、柔らかく笑った。
「二人とも早いね。私も、ちょうど連絡しようと思ってた」
「そのカメラ、まだ現役か?」
「うん、もう十年モノ。だけど壊れないんだ。あの頃の音と一緒でね」
翔は小さくうなずいた。
海斗が切り出す。
「美鈴、悠真のCD、聴いたか?」
「聴いた。昨日、家で。泣いちゃったよ」
美鈴は苦笑した。
「最後の声、ズルいよね。“もう一回やろうよ”って……。あんなの、断れるわけないじゃん」
三人の間に静けさが流れる。
遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
その音が妙に眩しく、痛いほどだった。
「……じゃあ、やってみるか」
翔が口を開いた。
「曲の続き。俺たちで完成させよう」
美鈴は目を見開き、少しの間考え込むように俯いた。
やがて、小さく頷く。
「やろう。私、まだベース持ってる。弦は錆びてるけど」
「俺も、ギターくらいならまだ弾ける」
海斗も続けた。
「じゃあ決まりだな」
翔の声が、少しだけ弾んだ。
十年前のように、何かを始める瞬間の音が、胸の奥で鳴った気がした。
***
その日の夕方。
三人は海斗の勤務する中学校の音楽室を借りることになった。
放課後の静まり返った校舎。
吹奏楽部の残響が廊下の奥に遠ざかっていく。
「ここのピアノ、まだ音が生きてるな」
翔が鍵盤を叩くと、柔らかな音が返ってきた。
海斗はギターをケースから取り出し、コードをつま弾く。
美鈴はベースを肩にかけ、アンプのツマミを確かめた。
最初の音を合わせた瞬間、空気が少し震えた。
十年の空白を埋めるように、音が部屋の隅々まで満ちていく。
ぎこちないけれど、懐かしい。
どの音にも、かつての自分たちの匂いが残っていた。
「……悪くないな」
海斗が呟く。
翔は笑って答えた。
「だろ? 俺たち、まだ生きてるよ」
その言葉に、美鈴の目が少し潤んだ。
「悠真、聴いてるかな」
「きっとな。笑ってツッコんでるさ、“テンポずれてるぞ”って」
海斗の言葉に、三人は思わず笑った。
音楽室の窓の外では、夕焼けが校庭を染めていた。
懐かしい放課後の匂い。
あの頃とは違うけれど、確かにここに再び音が生まれていた。
***
練習を終えたあと、三人はグラウンド脇のベンチに座り、オレンジ色の空を見上げた。
空気は冷たく、指先が少し震える。
でも、心は不思議とあたたかかった。
「なあ、翔」
海斗がぽつりと呟く。
「もし、あいつが生きてたら、今頃どんなバンドになってたんだろうな」
「わからない。けど、たぶん俺たちよりずっと楽しんでただろうな」
「そうだな。……あいつ、そういうやつだった」
風が吹き抜け、落ち葉が足元を転がっていく。
その音が、どこかドラムのリズムに似ていた。
「翔」
美鈴が小さく声をかける。
「また、練習しようよ。次は私のスタジオ、借りられるから」
「スタジオ?」
「知り合いのカメラマンがやってるの。撮影スペースだけど、音も出せる」
「いいな。それなら、あの曲……完成させられるかもしれない」
翔は立ち上がり、夕暮れの空に目を細めた。
十年前、夢を置き去りにしたあの日から、初めて前を向いた気がした。
「よし。やろう。悠真の“未完の音”を、俺たちで終わらせよう」
その言葉に、海斗も、美鈴も静かに頷いた。
風が吹き抜け、三人の影が長く伸びる。
まるで、遠い春の日に続いているように。
——あの春を、まだ追いかけている。
そんな思いが、胸の奥で静かに鳴り響いていた。




