8・餌付け
それから数日、レヴェッカは病院で過ごした。
あれほど傷付けられたはずの傷はすぐに跡形もなく治っていたが、問題は心の傷の方だった。誰かが近付けば、相手が家族でも医者でも、男と言うだけで気がふれたように悲鳴を上げる。誰とも口をきこうとせず、目を合わせる事さえ嫌がった。
そのため診察は彼女を眠らせてから行われた。
幸い身体に異常がないとの診断結果が出ると、看護役兼、監視役のアンドロイドと共にレヴェッカは自宅療養となった。学校に行かず、仕事にも行かず、寝ているか、ぼんやりと天井や空を見上げているか、それとも泣いているか。
レヴェッカはそうやって毎日を過ごした。
(怖い・・・怖い!)
あれ任務以来、レヴェッカは男を見るだけで、震えるような恐怖と猛烈な嫌悪を感じるようになった。顔を合わせるのは家族でも女であるアレクサンドラだけ。イアソンにもミカールにも会おうという気にはなれなかった。
それなのに、アレクサンドラが出かけ家に誰もいなくなると、無性に寂しくなって泣いた。そして、気付けば待っているのだ。自分を訪ねてくるその人物を。
ノックの音がして、レヴェッカは涙を拭いた。
「私だ。入っても良いか?」
「うん。」
レヴェッカが返事をすると、マシューは料理が載ったお盆を手に部屋に入ってきた。
マシューは自宅療養になってから、毎日やって来てはこうやってレヴェッカに料理を作る。すぐに帰る日もあれば、しばらくいる事もある。マシューはテーブルにお盆を置くと、レヴェッカの顔を見た。
「少しは顔色が良くなったな。」
「うん。」
素直に答える彼女に頷き、良かった、とマシューはつぶやいた。
レヴェッカはテーブルに近付き、料理の前に座る。湯気を立てる料理からはどれも食欲をそそる良い匂いがした。初めに薄い緑色をしたスープをスプーンですくうと、ふぅと息をかけ口に入れる。
「ん・・・美味しい。」
塩気とクリームの滑らかさが絶妙な味わいだった。
「そうか。翡翠スープと言うらしい。枝豆で作った。」
「ふぅん。」
スープの中に入った海老を食べながら、レヴェッカは思わず微笑んだ。大嫌いなマシューの作った料理を食べている自分が、なんだかおかしかったのだ。
自宅療養になって三日目。料理もろくに食べようとしないレヴェッカに、マシューは家族に心配をかけるなと怒った。
しかし、食べる事さえおっくうになっていたレヴェッカは、それに反発した。自暴自棄にもなっていたし、嫌っている相手に素直に従う義理はない。困らせるつもりで「マシューが作ったものなら食べる」と言ったのだ。マシューが料理など作れるはずがないと高を括っていた。無理に作ってくれたとしても、まずいからと突き返してやろうと思っていた。それなのに・・・。
(ホントに美味しい。)
嬉しそうに次の料理に手をつけるレヴェッカを、マシューはその瑠璃色の瞳でじっと見ている。
「何?」
大好きなレヴィと同じ顔で見つめられると、なんだか恥ずかしい気がして落ち着かなかった。だいたい、あんまり見つめられたら食べにくいのだとわからないのだろうか。
相変わらず人の気持ちがわからない男だ。
そう思いながらも不思議と以前のような怒りはわいてこなかった。二人きりでいることも不快だと思わなくなった。もしかしてこれを「餌付け」というのだろうか。
「レヴィが美味しそうに食べるから。」
変化はもう一つある。マシューがレヴェッカのことを愛称の「レヴィ」で呼ぶようになったことだ。
これにも特に不快感は感じない。
(やっぱり、餌付けされた、ってことなのかな。)
美味しいものを食べさせてくれる人。自分のために時間を割いてくれる人。
毎日欠かさず来てくれる彼に心を許してしまうのは仕方ないだろう。
そして、美味しそうに食べるから、と見つめられれば気になってしまう。
(嬉しいって意味なのかな?)
マシューは表情がほとんど変わらないので、何を考えているのかよくわからない。
だが、ここのところ毎日顔を見ているので、わずかな表情の変化からマシューの気持ちを予測できるようにはなっていた。
レヴェッカは食べていた鶏肉料理の皿をマシューに差し出した。
「食べたいの?」
「食べてみたいが無理だ。」
「だよね。」
アンドロイドが食べ物を口にするなんて聞いた事がない。アンドロイドはとても燃費が良くて、ごくたまに燃料を飲むだけで足りるのだ。では、なんだと言うのだろう?
「私の事は気にしなくていい。」
「うん。そうする。」
レヴェッカは頷き食べ始めた。
レヴェッカが食べるのをマシューは静かに見守り、美味しいといえば、何の料理か説明してくれる。最近レヴェッカはこの穏やかな時間をひそかに楽しみにしていた。
(私・・・マシューの事嫌いだったはずなのに。)
レヴェッカはマシューの事を、レヴィと違って冷たいだけの男だと思っていた。
レヴィは人当たりが良く、優しい笑顔で接してくれる。逆にマシューは表情が乏しく話し方が淡々としている。だからつい、レヴィは優しくてマシューは冷たいのだと思っていた。周りの評価もそうだった。でも、実際話すようになってみると、そうではないのかも知れないと思うようになった。
「レヴィ、付いてる。」
「?」
意味がわからずにきょとんとしていると、マシューはレヴェッカの顔に手を伸ばす。
(何!?)
レヴェッカは硬直し、マシューの瞳を見つめた。
マシューは指先でレヴェッカの唇の下に触れた。食べカスが付いていたらしい。呆然としているレヴェッカにフッと笑う。
その微笑みにレヴェッカはドキリとした。
(マシューが笑った。)
レヴェッカはマシューが笑った事に驚き、それ以上にマシューにドキドキしてしまった自分に驚いた。それを誤魔化すように下を向くと、レヴェッカはおかずを口に入れる。
(ビックリした。マシューも笑うんだ。)
レヴィの笑顔は見慣れているが、マシューの笑顔は初めて見た気がする。それに、意外に優しいところがあるのだ。食べカスを取ってくれるなんて思ってもみなかった。
レヴェッカが食べ終わると、マシューはいつものように話し始めた。
この二週間、レヴェッカはアレクサンドラとマシューとしか話をしていない。
初めはレヴェッカも、ミッションのその後の話を聞く事を嫌がった。しかし、聞きたい事だけ聞いていれば良い、とマシューが言うので、それ以上さえぎる事も出来ず、結局レヴェッカは話を聞くようになった。
今まで二人から聞いた話によると、このあいだのミッションが失敗したのは、内容があらかじめ向こうに漏れていた為らしい。しかも、治安維持部隊内にかなりのスパイがいる。そのせいで、情報が操作され、現場が混乱した。通信が途絶え、各班が孤立したせいで、死者の出た班もあると言う事だ。
スミレは意識不明の重体。
体内から薬物が検出されていたが、どうやって摂取されたのかはわかっていないそうだ。レヴェッカはトラック内で飲んだドリンクの事を話したが、証拠は発見されず、病院で検査を受けたレヴェッカの身体からは薬物の反応が出なかった。これによってトラック内のドリンクがあやしいという証言は、単なる疑い止まりとして扱われることになった。
それから二週間の間に治安維持部隊の内部捜査が行なわれたせいで、部隊内は混乱状態。いまだ要人の救出は成功していないと言う。
隊員の誰もがお互いをスパイかと疑って疑心暗鬼になり、連携は乱れた。上層部も情報漏れを警戒するあまり、必要以上に情報を隠す。横の連携も縦のつながりも無い組織などただの烏合の衆。そうなればミッションなど成功するはずも無かった。
(でももう、私には関係ない。)
レヴェッカはマシューの話に耳を傾けながらも、他人事のように思っていた。
(もう誰とも会いたくない。触りたくない。部隊にも、学校にも行きたくない。)
レヴェッカの世界は閉じかけていた。レヴェッカと外界をつなぐのは、アレクサンドラとマシューだけ。それ以外をすべて拒絶しなければ心の安定を保てないほど、レヴェッカは他者を恐れ、精神を病んでいたのだ。
「ボビーが意識を取り戻した。」
「スミレちゃんが・・・。」
それまでの話をなんとなく聞き流していたレヴェッカも、その言葉は聞き流すわけにはいかなかった。
スミレの事だけはずっと気にかかっていた。仕事のパートナーとして互いに信頼しあい、心を預け、親友のように思っていたのだ。それに、レヴェッカは激しく後悔もしていた。意識不明になったスミレをなぜ助ける事が出来なかったのかと。もし、このまま意識が戻らなかったら、と怖くてたまらなかった。そのスミレが、二週間経ってやっと意識を取り戻したのだ。
「どうする?会いに行くか?」
レヴェッカは迷った。心配し、助かって欲しいと心から願っていたけれど、実際会うとなれば怖かった。
スミレが男性だ、と言うのもあったが、何よりもスミレが今どんな姿なのか。無傷のレヴェッカを詰り、四肢を分解してしまったことを酷く責められるのではないか、と怖かった。
(どうしよう。)
迷った挙句、レヴェッカは首を横に振った。親しい間柄だったからこそ、会って拒絶されるのが怖かったのだ。
「そうか。なら私がレヴィの代わりに会ってこよう。」
「え?」
思いがけない申し出にレヴェッカは驚いた。
「私が様子を見てくる。そうすれば後でレヴィに見せられる。」
「どうやって?」
「私が見せようとすれば読めるはずだ。」
そう言うと、マシューはレヴェッカの手を取った。
「あっ・・・。」
マシューに触れた指先から、レヴェッカの脳に直接映像が流れ込む。映像の中には、まだ幼いレヴェッカがいた。どうやらレヴィから見た視界になっているようだ。
「レヴィ!」
はちきれそうな笑顔で両手を後ろに隠し、レヴェッカは駆け寄ってきた。しかしただでさえ頭の重い子供が、不自然な体勢で走ったのだ。足がもつれ派手に転び、持っていた包みが放り出された。
「大丈夫ですか?」
駆け寄ったレヴィが助け起こすと、レヴェッカは半泣きでレヴィを見上げた。しかし、あ!と叫び慌てて放り出した包みを拾ってくると、埃をはらって恥ずかしそうにレヴィに差し出す。
「今日バレンタインだから、これあげる!」
「私に?開けてもいいですか?」
「うん!」
元気良く答えたレヴェッカは、レヴィがどんな反応をするだろうかと期待に胸を膨らませ、キラキラとした瞳でその瞬間を待ち構えていた。
どこかで見たような光景だ。
記憶を探れば、切ない思いと共に情景を思い出した。
そうだ。あの日、友達と一緒に初めて手作りチョコレートを作ったのだ。
子供の両手ほどもある大きなハート型。周りは一粒一粒銀色のアザランでぐるりと囲み、ホワイトチョコを表面に塗った。その上にチョコで模様を書いてオレンジピールを散りばめた力作だった。
あんなに心をこめたチョコレートは作った事がなかったし、あれ以来お菓子すら作った覚えが無い。それを学校が終わった後でレヴィに渡しに行ったのだ。
だが、結果は最悪で・・・。
「あぁ、レヴィ。あの・・・。」
レヴェッカを気遣う困ったレヴィの声。
レヴェッカの空色の瞳は、開けられた包装紙の中、無残に割れてしまったハートのチョコレートに釘付けになっている。転んで放り出されたチョコレートが衝撃で割れてしまったのだ。見開かれたその瞳には見る間に涙が溢れ、堰を切ったように零れ落ちた。
「ぅああーーん。」
レヴェッカは大声で泣き出す。
「レヴィ・・・。」
転んでも泣かなかったレヴェッカだが、一生懸命作ったチョコレートが割れてしまった事にはひどくショックを受けていた。レヴィが慰めてもなかなか泣き止まない。
レヴェッカはそんな過去を見せられて、驚いていた。自分の記憶の中では、いつのまにか風化しおおまかな部分しか覚えていないのに、マシューから読み取る記憶は今起こった事のように鮮明だ。
(記憶じゃなくて、記録なんだ。)
あまりに鮮明な過去に、当時の記憶を呼び覚まされ、今さらながらレヴェッカは恥ずかしくなった。慌ててマシューの手から自分の手を引き抜く。
「バカだよね、私。レヴィがチョコなんか食べるわけ無いのに。あの時はそんな事知らなかったから・・・。ごめんね。あんなの渡して。レヴィを困らせちゃったよね。」
レヴェッカは早口で言った。
あの当時は幼くて、人間とアンドロイドの違いをよくわかっていなかった。後でアンドロイドが固形物を食べたりしないと知って、また泣いたのを覚えている。
「どうして謝る?レヴィは頑張って作ったと言っていただろう?食べる事はできなかったが、レヴィの気持ちは嬉しかった。」
レヴェッカは思わず顔を上げ、マシューの瞳を見つめた。
(嬉しかった?)
レヴェッカは複雑な気分だった。
あの日以来、バレンタインデーは人生最悪の思い出の日として強く刻み付けられている。だから、バレンタインデーになると憂鬱で、周りの女達が浮き立つほどイライラした。
(それなのに、嬉しかったなんて・・・。)
レヴェッカは過去に負った傷が癒されていくような気がした。しかし、同時に疑問にも思う。チョコレートはレヴィにあげたのだ。
「嬉しかったって、レヴィが言ったの?」
聞けば、マシューはほんのわずかに眉を寄せた。
「・・・そうだ。」
答えるまでの間が気になった。じっと見つめるレヴェッカに、マシューはもう一度答える。
「本当だ。」
「ふぅん。」
レヴェッカが言うと、マシューはテーブルの上を片付け立ち上がった。
「もう行く。」
「うん。あ・・・スミレちゃんの事、お願い。」
「わかった。」
マシューが出て行くと、レヴェッカはベッドに腰掛けた。そのまま後ろに身体を倒す。
(レヴィ・・・。)
考えてみれば、マシューには毎日会っているが、レヴィにはもう二週間も会っていない。レヴィとマシューがどんなタイミングで交代しているのかは知らないが、どうして見舞いに来るのはいつもマシューなのだろう。なぜレヴィではないのだろう?
レヴェッカは自分の手の平を顔の前に持ってきて見つめた。
先ほどマシューに触れたときに見た過去は、マシューではなくレヴィの時のものだった。だとすれば、少なくともマシューはレヴィと同じものを見て経験している。しかし、レヴィはどうなのだろう。マシューは、レヴィはチョコレートを貰って嬉しかったのだと言っていたが、あの様子だと、本当は同時に体験していたマシューが感じた事だったのではないか。レヴィは迷惑だと思ったのではないか。マシューはレヴェッカを傷付けないようにと気を使ってあんな事を・・・。
(ホントに嬉しかったのかな。)
一度不安になると、そうとしか考えられなくなる。レヴィは優しいから拒絶しないだけで、本当は自分の事を迷惑に思っているのではないか。レヴィが見舞いに来ないのはその証拠ではないのか。
レヴェッカの瞳に、じわり、と涙が浮かぶ。
(ダメだ。悪い方にばっか考えちゃう。)
この二週間、ずっとそうだった。明るく考えられない。前向きになれない。自分が幸せになれる気がしない。
これではダメだと自分でもわかっていた。このまま一生自分の部屋に閉じこもって生きていけるわけがない。一人で考えれば悪い方に想像して、落ち込んで、さらにまた悪い方に考えるようになる。それを避けたいなら本人に聞くしかない。
(明日マシューが来たら聞いて・・・。)
そう考えて、レヴェッカはハッとした。
いつのまにか自分は、マシューが毎日来る事をあたりまえのように思っているのだ。
マシューが作ってくれる昼食を食べ、話を聞く。この二週間繰り返されたそれに、すっかり慣れてしまったのだが、良く考えればおかしい。マシューが毎日自分を見舞いに来る理由が思いつかない。
ミッションが失敗したのはマシューのせいではないだろうし、自分があんな目に会ったのもマシューのせいではない。それに、見舞いに来てくれるほど仲が良かったわけでもない。
今までだって、たまに何かのミッションで一緒になる事はあっても、特査であるマシューとは班が違った。レヴェッカのパートナーはいつもスミレだった。だから仕事で会う事だって稀で、当然普段会うような仲でもない。つまり、マシューとはただの顔見知り程度の関係だったのだ。
それなのに、なぜマシューは毎日来てくれるのだろう?なぜ、レヴェッカの我儘に付き合ってまで、自分が食べられない料理を作ってくれるのだろう?
(なんで・・・。)
思い出すのは、マシューが助けに来てくれた時の事。裸の自分にマシューが上着を掛けてくれようとして、手が触れた。
その時、触れた指先から様々な情報が流れ込んできたのだ。
レヴェッカに対する同情や憐れみ、悲しみ、レヴェッカを酷い目にあわせた相手への憤りや憎しみ、そうなる前に助けられなかった悔しさ、後悔。そして、レヴェッカを包み込むような優しい気持ち。
あれは・・・愛情?アンドロイドには感情などないはずだった。そう聞いていた。だが、あの時指先から流れ込んできたもの。あれがプログラムだと言うのだろうか?あれはまるで人間に触れたときと同じ。感情のようだった。
(マシューには感情がある?)
思いつき、そんなバカなと否定するが、でも、と躊躇する。あの時確かに感じたように思ったのだ。マシューの気持ちを。マシューの心を。
(混乱してたから?)
ショックで自分が正常でなかった事は確かだ。だから、読み間違えたのかも知れない。
(もう一度触れば・・・。)
レヴェッカは自分の手を見つめた。しかし、すぐに首を振り、手を握り締める。
いったい何を考えているのだろう。マシューは人間ではない。レヴィだって同じ。彼らはレヴェッカの事なんて何とも思っていない。アンドロイドに感情なんてないのだ。
自分はこの能力があるせいで、今まで普通でいられなかった。人に避けられ、常に手袋はめなければ外に出られなかった。
今でさえそうなのに、この上アンドロイドに感情が、心があるなんて思い始めたら、さらに自分は普通の人間の枠から外れる事になってしまう。
(こんな力、これ以上使っちゃダメ!)
レヴェッカはきつく目を閉じた。




