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3.婚約破棄を万全の態勢で待ち構える令嬢の相談

「婚約破棄されることにになりました。おそらく一か月以内に婚約破棄が宣言されるのはのことでしょう」

「へ?」


 月の光の降り注ぐ頃。学園寮の北の端にある一室。そう話を切り出した令嬢に、部屋の主である『親愛なる導き手』は思わず気の抜けた声を返した。

 

 月の光の満ちる今宵、相談に来た令嬢は伯爵令嬢ルザレシア。燃えるような赤い髪に切れ長の赤の瞳。その佇まいに隙は無く、その所作には一切の乱れがない。華麗にして洗練されたその様は、宝石職人が磨き上げたルビーのようだ。

 

 『親愛なる導き手』が気の抜けた声を発してしまったのは、贈られた本にある。月の輝く夜、恋愛小説を渡して恋愛相談を始めるというのが『親愛なる導き手』と呼ばれる幽霊との作法だ。

 しかし今回、伯爵令嬢ルザレシアが用意した本は「恋の手ほどき 彼の気を引く21の秘訣」。小説ではなく実用書に属する。確かに恋愛がらみの本ではあるが、これから恋愛相談する相手に恋愛指南書を渡すのはおかしなことだ。

 そこに気を取られたところに婚約破棄の予定を言われれば、明敏と名高い『親愛なる導き手』も気の抜けた声を出して島というものだ。しかしすぐに立ち直ると、落ち着いた声で言葉を返した。


「なるほど。つまり一か月以内に婚約相手とよりを戻す相談をしたいということですね」

「いえ、婚約者のことは既に見限りました」

「え?」

 

 またしても気の抜けた声が出てしまい、『親愛なる導き手』は口元を抑えた。そんな彼女にかまうことなく、ルザレシアは燃える瞳で炎のように熱い言葉を発した。


「私に隠れて浮気をし、婚約破棄を企てるなど許せることではありません。既に浮気相手の男爵令嬢の家は徹底的に調査済み。男爵家の債権の大半を押さえてあります。上位貴族にも話を通しておりますから、婚約相手の子爵家ももはや身動きがとれません。婚約破棄に及んだら最後、二人とも確実に貴族社会から消えることになるでしょう」

「えぇ……」


 『親愛なる導き手』はこれまでいくつもの恋の悩みを解決してきた。嫉妬の炎を燃やし婚約者への報復を誓う過激な令嬢を相手にしたこともある。しかしルザレシアの報復は、そんな経験豊かな彼女でも若干引いてしまうくらい、貴族的かつ徹底的なものだった。

 

「……既に婚約破棄については決着したも同然ではありませんか。いったい何を相談しにいらしたのですか?」


 もし婚約者とよりを戻したいというのなら、『親愛なる導き手』はいくつもの助言をすることができる。

 しかし既に決別すると心に決め、ここまで完璧な準備を整えているというのなら、今さら恋愛相談もないだろう。

 『親愛なる導き手』の問いかけに、ルザレシアは深々とため息を吐いた。

 

「胸に、引っかかるのです」


 先ほどまでの決然とした雰囲気は鳴りを潜め、ルザレシアは物憂げに視線を落とした。

 

「関係修復は不可能と諦めて、貴族令嬢としてしかるべき対策を施しました。全ては終わったことのはずなのに、何かが胸にひっかかるのです。『親愛なる導き手』様のお噂を耳にして、何か助言がいただけるのではないかと思い、ここに来ました」


 『親愛なる導き手』はふむ、顎に手を当てた。しばらくの思案ののち、ルザレシアへ語りかけた。


「わかりました。でも助言するには情報が足りません。婚約者とはどんな関係だったか、お聞かせ願えますでしょうか。できれば、出会った時のことから教えてください」

「承知しました。でも、退屈な話ですよ?」


 ルザレシアは気の進まない様子で、婚約者との関係を語り始めた。

 

 

 

 伯爵令嬢ルザレシアが子爵子息エスタピートと出会ったのは学園に入学する1年ほど前のこと。縁談の席で初めて対面した。

 エスタピートは鮮やかな金髪と、凛と輝く瞳が印象的な青年だった。


「私が当主となれば、伯爵家はますます繁栄することだろう!」


 二人きりになったとたん、エスタピートは自信ありげに宣言した。

 伯爵家の令嬢に対して、あまりに傲岸不遜にな言葉だ。しかしルザレシアは不快には思わなかった。彼女の才気と美しさに圧倒されなかった婚約候補は、彼が初めてだったのだ。

 

「いいですわね! 私を娶ろうと言うのなら、そのくらいの気概がなくてはなりません!


 そうして二人は意気投合した。

 その後の一年、婚約関係は良好だった。週に一度の茶会では、伯爵家の未来について活発に語り合った。この婚約が両家に幸せをもたらすものだと信じて疑わなかった。

 

 だが、婚約から一年後。学園に入学してから少しずつ二人の関係は変わっていった。


 エスタピートは優秀な男だった。学問も魔法の扱いも学園トップレベルの成績を示した。しかしルザレシアはそれ以上に優秀であり、常にエスタピートの一方先を行っていた。

 エスタピートも最初の頃は自信があった。次は必ず勝つと強気な顔で言っていた。しかし、彼がルザレシアの成績を上回ることは無くなった。

 そうして一年も過ぎると、エスタピートの口から自信に満ちた軽口が出ることもなくなった。学園生活の中、会話の機会が少しずつ減っていった。週に一度のお茶の席に、何かと理由をつけて顔を出さないようになった。徐々に疎遠になっていった。

 

 ルザレシアも、未来の伴侶の面目を保つため、試験で手を抜くことも考えた。しかしエスタピートは優秀だ。意図して成績を下げればすぐに気づくだろう。プライドの高い彼がそんな施しを受け取るはずがない。慰めは時として人を傷つける。だからルザレシアは、婚約者が才能を開花させ躍進する時を信じて待つしかなかった。

 

 そうして迎えた三年生の春。エスタピートの浮気を知った。浮気相手は男爵令嬢だった。人当たりがよく穏やかな性格で、学園内での評判はいい。だが成績も魔力も平凡で、これといったとりえもない。ルザレシアに勝るところなど見当たらないごく普通の令嬢だった。

 しかし、エスタピートは浮気にのめり込んでいった。彼女と歓談するエスタピートは、ルザレシアに見せたことのない穏やかで気の抜けた顔をしていた。

 もはやエスタピートはかつての野心を失ってしまったのだと確信した。このまま放置すれば伯爵家の害になる。だからルザレシアは徹底的な対応を取ることを決めたのだ。




「わたしは何を間違えてしまったのでしょう……」


 事情を話し終えたルザレシアの口からそんな言葉を口にした。彼女は慌てて口元を抑えた。

 彼女らしくない気弱な言葉が、なぜか意図せず口から零れ落ちた。

 『親愛なる導き手』はその言葉を聞き流さなかった。

 

「あなたは貴族令嬢として、なにも間違ったことはしていません」


 『親愛なる導き手』は断言した。

 

「誰が一番間違っていたか。それは言うまでもなく婚約者のエスタピート殿です。どんな理由があるにせよ、浮気は許されることではありません。それが彼自身の劣等感によるものとなればなおさらです。

 それに対する貴女の対応も実に正しい。婚約破棄された令嬢はそのこと自体が瑕疵となり、次の婚約が難しくなります。しかし貴女の断固たる対応と、事前の根回しの万全さは見事なものです。貴族社会はこの婚約破棄を、貴女の過失ではなくエスタピート殿の愚行ととらえることでしょう。貴族としての立場を守る、実に正しい立派な行動です」

 

 全面的に肯定されながら、しかしルザレシアは浮かない顔をしている。彼女自身、自分の行動の正しさを理解している。それなのに、胸のつかえがとれないのだ。

 だが、『親愛なる導き手』の話はそれで終わりではなかった。

 

「ですが、貴族令嬢としては正しくても、乙女としては間違っています」


 急に真っ向から否定の言葉を告げられた。普段のルザレシアなら、すぐさま反撃するところだ。

 だがこの時は、すぐに言葉が出なかった。『乙女』という、彼女にとっては軟弱で軽薄な言葉が、なぜだか重く感じられたのだ。

 それでもルザレシアは淑女の姿勢を保ったまま、毅然と問いかけた。


「私のなにが間違いだというのですか?」

「貴女はエスタピート殿のことを愛している……そのことを認めていないのが間違いです」


 なぜそんなことを言われるのか、まるで意味が分からなかった。

 ルザレシアは婚約者を貴族社会から消すつもりだ。婚約関係は冷めたものだったと話したばかりだ。

 それなのに、言葉に詰まった。すぐに言い返せない。それはルザレシアにとって屈辱的なことだった。頬を赤く染め、柳眉を逆立てると、鋭い声で言い返した。


「なにをバカなことを言っているのですか!? さきほどお話したように、私たちの関係は冷めたものでした! 愛情なんて、あるはずがありません!」

「いいえ、そんなことはありません」

「何を根拠にそんなことを言うのですか!?」

「浮気者について聞かれたら、普通はもっと悪しざまに言うものです。ですが……思い出を語る貴女の言葉は、優しかった。そもそも対応が苛烈すぎます。そこまで準備ができるているなら、もっと穏便に婚約解消できるはずです。でも貴女はあえて婚約破棄を待ち、その上で最大限の損害を与えようとしている。それは愛する者に裏切られた憎しみゆえの行動としか思えません」


 『親愛なる導き手』の指摘に、ルザレシアは言葉を返せなかった。

 ルザレシアには、もっと簡単にことを収めるだけの才覚がある。それなのに、最大限の制裁を加えなくてはならないと思った。伯爵令嬢としての立場を守るための、貴族としての正しいだ。そう自分に言い聞かせてきた。常にどこか違和感があった。それがわからなかった。

 彼を愛していたのなら。裏切られて憎しみに染まったのなら。すべてに理由がついてしまう。

 

 それでも、その言葉を認めるわけにはいかなかった。自分の中の何かが壊れるように思えた。しかし、『親愛なる導き手』はそれを容赦なく言葉にした。


「傷ついた乙女心に蓋をして、貴族令嬢としての義務だけで行動しようとしている。だから気持ちの整理がつかず、胸が苦しくなるのです。貴女は失恋したんです。まずそのことを、認めてください」


 ルザレシアは胸を押さえた。まるで胸に穴でも開いたような喪失感と痛みを覚えた。これは急にできたのではない。ずっと自分の中にあったものだ。

 目をそらし、なかったことにしていた。そんなはずはないと、自分で自分に嘘をついてきた。でも『親愛なる導き手』はそれをさらけ出してしまった。そんなことをされたら、もう無視することなんてできなかった。

 

「だったらどうだって言うんですか!? 確かにあの人に惹かれていました! 一緒に伴侶となることを夢見ていました! でも……でも、あの人は! 他の女に心を奪われてしまった! あの人の穏やかな笑顔を見て、もう取り戻せないとわかってしまったんです! いまさら愛していたとわかっても、私はどうすればいいんですか……!?」

「まず、ちゃんと泣いてください」

「泣く……?」

「失恋した女の子は、泣いて気持ちを吐き出さなければなりません。そうしないと、前に進めないんです」

「は、伯爵令嬢である私に、そんな理由で泣けと言うんですか……?」

 

 婚約者の浮気を知ってもルザレシアは泣いたりなんてしなかった。弱音を漏らしたことすらなかった。伯爵令嬢としてのプライドがそんな無様を許さなかった。

 貴族として恥ずかしくない生き方をしてきた。その誇りがルザレシアを締めつけている。泣きたいと思ったところで、今さら涙を流すこともできない。


「貴族である前に、あなたは女の子です。だからいいんです。今、泣いてください」

「人前で泣くなんて無作法、できるわけがありません……!」


 『親愛なる導き手』は席を立つと、ルザレシアの隣に座った。


「私は力の弱い幽霊だから、あなたを抱きしめることはできません。でも泣き止むまで隣にいることくらいはできます。だから、泣いちゃって大丈夫です」


 優しい声で告げられた。ルザレシアは不思議な気持ちになった。

 隣に座ってくれる人がいる。泣いたところで呆れたりすることはない。たったそれだけだ。それが、何よりうれしくて、温かい。

 ルザレシアは視界がぼやけるのを感じた。頬に手を当てると、濡れていた。泣いている。涙を流している。そのことに気づくと、もう耐えきれなくなった。

 

「うわあああああーっ!」


 ルザレシアは泣いた。今まで耐えてきたすべてのことを投げ捨てるように、声を上げて泣いた。




「……ふしぎです。とても気持ちが軽くなりました」


 泣いて泣いて、ようやく気持ちが落ち着いたルザレシアは、そんな言葉をこぼした。

 胸の中にぽっかり空いた穴は、まだ痛みを訴えている。それでも、それを受け止められる……なぜだかそう、思うことができた。

 

「これから、どうすればいんでしょうか……?」


 ルザレシアは乙女としての自分の気持ちを認めた。それでも貴族令嬢としての立場がなくなったわけではない。そのうえで、どうすることが正しいのだろうか。

 『親愛なる導き手』は即答した。


「もちろん、あなたが計画した通り、婚約破棄に決着をつけてください。浮気者には罰を与えなくてはなりません。前の恋をきちんと終わらせなければ、次の恋は始められませんからね」


 あまりにきっぱりというものだから、ルザレシアは思わずきょとんとした。でも、彼女の言葉は妙にしっくりときた。

 愛した人が離れてしまった。悲しくて、泣いた。

 愛した人が浮気した。憎いから、報復する。

 なんの矛盾もない。それが乙女であり、貴族令嬢であり、一人の女性だ……そんな風に思えた。

 

「そうですね……まずはそこからですよね。そして……次の恋、ですか」


 次の恋。今のルザレシアには想像することも難しいことだった。

 いい婚約相手が見つかるだろうか。見つかったとして、また失敗してしまうのではないだろうか。そんな不安が胸を締め付ける。

 そんなルザレシアに、『親愛なる導き手』は明るく声をかけた。


「次の恋に悩むことがあれば、いつでもここに来てください。この『親愛なる導き手』が、いつでも相談に乗ります」


 そう言って、彼女は自分の胸を叩いた。

 その仕草があまりに大げさで、ルザレシアは思わずクスリと笑みを漏らした。大泣きした令嬢が、ようやく見せた明るい顔だった。

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