2.わがままな妹に婚約者を取られそうな姉の相談
「こんな本が出版されていたなんて知りませんでした」
夜も更けた頃。学園女子寮の北の端にある一室。そこに住み着いた幽霊、『親愛なる導き手』はテーブルに置かれた本を前に、その銀色の瞳を輝かせた。
彼女は恋愛ものの本を報酬に、相談者の恋の悩みに助言を与える幽霊だ。そのことによってついた呼び名が『親愛なる導き手』。
今回の贈り物は絵本だった。恋愛小説とは少々趣の異なる代物だが、その原作者は有名な恋愛小説家だ。
表紙には勇ましい騎士とかわいらしい姫が描かれている。武勲を上げた騎士が姫を娶る英雄譚か、あるいは身分の差によって引き裂かれる悲恋か。どちらとも取れるその表紙に、『親愛なる導き手』は興味津々な様子だった。
「妹がそういう本が好きなので、たまたま知っていただけです」
はにかむように答えるのは今回の相談者、子爵令嬢ナーティレラ。腰まで届くまっすぐなプラチナブロンドの髪。涼やかな瞳は緑。大人びた雰囲気の美しい令嬢だった。
「こんないい本をいただいては頑張って助言をしなくてはなりませんね。さあ、恋の悩みを聞かせてください。できる限りの助言をいたします」
ほくほく顔で促す『親愛なる導き手』に対し、子爵令嬢ナーティレラは顔を曇らせた。
「先ほど申し上げたように、わたしには妹がいます。その妹について、とても困ったことになってしまったのです」
子爵令嬢ナーティレラは浮かない顔で悩みについて語り始めた。
子爵令嬢ナーティレラには一歳年下の妹がいる。名前はアイマティーラ。ハニーブロンドの髪に姉と同じ緑の瞳のかわいらしい令嬢だった。社交界でも評判となるほどの愛らしさで、両親からも溺愛されている。
アイマティーラには困ったところがあった。姉の持ち物をやたら欲しがるのだ。
姉が新しいドレスやアクセサリーをつけているのを見ると、すぐに騒ぎ始める。
「お姉様ばっかり素敵なものをもってずるい! ずるいずるい! わたしにちょうだい!」
そう言って駄々をこね始めると止まらない。両親が同じものを買い与えると言っても聞かない。姉から物を譲ってもらわないことには治まらないのだ。
ナーティレラは両親からあとで同等の品を買い与えると言われて、いつも妹に物を譲ることになる。
「やったー! お姉様だーいすき!」
そうやって無邪気に喜ぶ妹を見ていると、仕方ないと思ってしまう。アイマティーラには、わがままをつい許してしまう不思議な魅力があった。
だが妹のそんなわがままを笑って流せない事態になった。
ナーティレラに初めてできた婚約者、伯爵子息エルシオーム。伯爵家の次男であり、子爵家に婿入りして当主となることを前提とした婚姻だ。
しかしここでもアイマティーラはわがままを見せた。
「そんな素敵な婚約者がいるなんて、ずるいずるい! お姉様はずるい!」
そう駄々をこねたが、こればかりは両親も認めなかった。貴族同士の婚約は、そんなに簡単に変えられるものではないのだ。妹には高価なドレスやアクセサリを買い与えてどうにかなだめた。
いつもならそれで終わりだが、今回は違った。
伯爵子息エルシオームが、アイマティーラに恋してしまったようなのだ。二人はナーティレラに気づかれぬよう、密かに付き合っていたらしい。その仲は深いようで、ナーティレラとの婚約を解消することまで視野に入れているようだった。
「エルシオーム様の愛を取り戻すには、いったいどうしたらいいのでしょう……」
ナーティレラは沈痛な顔でそう話を結んだ。
語り終え、『親愛なる導き手』の顔を見てぎょっとなった。彼女の顔が真っ青になっていたからだ。月光の下、幻想的な輝きを見せる『親愛なる導き手』だったが、これではまるで夜の墓場で出会った亡霊だ。
「話を進める前に、いくつか確認したいことがあります」
「は、はい」
『親愛なる導き手』は実に深刻な顔でいくつかの質問を投げかけた。
「妹君は礼儀作法を覚えるのが苦手ではありませんか?」
「はい。昔から簡単な作法でも、身に着けるまでに時間がかかる傾向がありました」
「勉強も苦手な方ではありませんか?」
「はい。恥ずかしながら学園での成績はかなり下の方です」
「先ほど絵本をいただきましたが、妹君は今でも絵本を好まれているのではありませんか?」
「ええ。字の多い本は頭が痛くなると言って、絵本を読んでいることが多いです。でも、絵を描くのはとても上手なんです」
「そう……そうなんですね……」
『親愛なる導き手』は深々とため息を吐いた。ナーティレラとしては質問の意図すらわからず戸惑うばかりだった。妹は確かに礼儀作法は不得意で勉強もできない。だがそれが婚約者との仲を改善することにどう関係するのか見当がつかなかった。
しばらく考えこんでいた『親愛なる導き手』だったが、やがて重々しく口を開いた。
「あなたには衝撃的なことを告げなくてはなりません。どうか気を強く持って聞いてください」
ずいぶんと深刻な話をするようだ。ナーティレラは姿勢を正して覚悟を決めた。
「あなたの妹君は知的障害者の疑いがあります」
まったく予想外のことを告げられて、ナーティレラはきょとんとした。
だがやがてその顔は赤く染まり、眉を逆立て怒りの表情を作った。
「『親愛なる導き手』様! いくらあなたでも、家族を侮辱することは許しません!」
貴族とは家を大切にするものだ。家族への侮辱を見過ごすことは許されない。ナーティレラの怒りは貴族としても、一人の姉としても、正当なものだった。
「貴女の家族を侮辱するつもりはありません。これはそういう問題ではないのです。どうか落ち着いてわたしの話を聞いていただけないでしょうか」
そうなだめられナーティレラは矛を収めた。『親愛なる導き手』に妹を見下した気配はない。むしろ労わるような空気を感じたからだ。
ナーティレラが落ち着いたのを確認すると、『親愛なる導き手』は話を続けた。
「普通、学園に通う年齢ともなれば、誰もがある程度の分別を備えることになります。者と自分を比べることで、貴族社会における自分の立ち位置とあるべきふるまいを知るのです。そうすれば、自然と姉の持ち物をねだって物を譲ってもらうなんていう、子供じみたわがままはやめるはずです」
「だからと言って、知的障害と言われるほどのことはないはずです。妹は確かに物覚えの悪いところはあります! でもそれを補うだけの可愛さがあって……!」」
「姉としてそう考えるのも無理はありません。では試しに、ご学友が同じことをしている姿を想像してみてください」
促され、ナーティレラは友人の姉妹を思い浮かべた。栗色の髪の仲睦まじい姉妹で、貴族にふさわしい礼儀作法を備えている。
その妹が、アイマティーラのように駄々をこねて姉にものをねだったとしたらどうなるか。
ナーティレラは口元を押さえた。それは吐き気を催すほどにおぞましい光景だったからだ。
「どうして……なんでこんな当たり前のことに気づかなかったんでしょう……!?」
「それは仕方のないことです。あなたのご家族にとって、妹が欲しがりなのはずっと続いていたことです。どれほどおかしなことでも、日常の一部となれば異常性を感じられなくなるものです」
「でも、そんな……本当に妹が知的障害者だとしたら、これからどうすればいいのでしょう?」
「これまでお話したことは、あくまで推測に過ぎません。専門の治療師に診察してもらい、然るべき治療を受けるべきです」
「そうですか……ええ、わかりました。それが妹のためですものね……」
知的障害者が出ることは家にとって恥となることもある。だがナーティレラは妹の幸せを最優先に考えた。
「そうなると……エルシオーム様との問題は解決ですね。このことを知られれば、妹への興味を失うことでしょう。婚約も解消となるかもしれませんが……」
ナーティレラの言葉に、『親愛なる導き手』はソファから立ち上がると叫んだ。
「なにを悠長なことを言っているんですか!? エルシオーム殿には婚約破棄を突き付けてください! 探せば必ず瑕疵が見つかるはずです! 彼との関係は徹底的に断つべきです!」
「急にどうなされたたんですか? 妹が知的障害者なら、それを瑕疵として婚約破棄されるのはこちらの方では……」
「わからないんですか? 知的障害者かどうかは確定していませんが、あなたの妹君の精神が幼いことは間違いありません。それをかわいいと思うなら、あなたと結婚して家族として親しくするだけで十分なはずです。それなのに、エルシオーム殿は妹殿と付き合っています。子爵家を継ぐことのできなくなるリスクも顧みず、あなたとの婚約を解消しようとしてます。これはきわめて異常なことです」
確かに言われてみれば妙な話だ。妹のアイマティーラは勉強もできず礼儀作法もあまり身に着けていない子供っぽい令嬢だ。第二子に鞍替えしては家を継ぐことができなくなる可能性も高い。いくらかわいいからといって、ナーティレラとの婚約を解消してまで結婚相手とするのは、確かに理屈が合わない。
子供のようなアイマティーラと、どうしてそこまで結婚したいのか。
もしエルシオームが、『子供のようなアイマティーラだからこそ結婚したい』のだとしたら……。
そこまで考えが至ったとき、おぞましい予感に鳥肌が立った。
『親愛なる導き手』は深刻な顔でその理由を言葉にした。
「結婚するということは、子作りをするということです。エルシオーム殿は間違いなく、幼い少女を性欲の対象とする異常性癖者です。ちょっと調べれば瑕疵などいくらでも出てくるでしょう。こんな異常者を野放しにしてはいけません。徹底的にこらしめてやってください!」
「わ、わかりました! 今すぐにでも両親のところに行って、対策を立てます!」
ナーティレラはすぐさま立ち上がると部屋を出て行った。そして学園の使用人に無理を言って、王都内のタウンハウスへ行くために馬車を用意立てると、すぐに出発した。
あの夜から半年ほど経ったころ。月の輝く夜。ナーティレラは再び『親愛なる導き手』の元を訪れていた。
「よく来てくれましたね。あれからどうなったかと心配していました」
「ご報告が遅れて申し訳ありません。ようやくひと段落着きました……」
そうしてナーティレラはこの半年に起きたことを報告した。
あの相談のあと、すぐにタウンハウスに行って両親に相談した。そしてエルシオームには知られないよう彼の伯爵家に連絡し、許可を取り付けたうえで調査を開始した。
子爵家に雇われた間者たちはエルシオームの身辺を探った。注意深く調べるうちに、彼が伯爵領内の人里離れた場所に家を所有していることが分かった。伯爵家の誰にも知られることなく、資金を動かしその家を維持している。そこがエルシオームの下劣な欲望の場に違いない。間者たちは真相を知るためにその家に踏み込んだ。
そして、間者たちは言葉を失った。闇の世界に触れ、鋼の精神を培った彼らであっても、戦慄せずにはいられない恐ろしい場所だった。
壁紙はピンクだった。カーテンもテーブルクロスも細かなレースで飾られていた。椅子もテーブルもベッドも、あらゆるものがかわいらしいデザインだった。
その家には生きた人間は一人もいなかった。幼い少女の等身大の人形が、フリルで彩られたドレスを着せられ飾られていた。人形たちはまるでそこで楽しい生活をしているかのように配置されていた。
まるで貴族の娘が遊ぶドールハウスのようだった。それが一軒の家として、実物大で存在していた。
エルシオームは理性的な人間だったのだろう。伯爵子息として生身の幼女に手を出しては家の恥になると理解していた。自分を厳しく律し、それでも抑えきれない欲望が、得体のしれない形で発露した。それがこの、エルシームの秘密の家だった。
彼は時折この秘密の家に訪れていたという。そのとき何をしていたのか……それを知る者は彼以外に存在しない。
エルシオームの行いは法的には犯罪ではない。伯爵家の資金を勝手に使ったことは罪ではあるが、それを公に裁くことはできない。このことが明るみになれば、伯爵家の名声は地に落ちるどころでは済まない。
子爵家はこのことを瑕疵として婚約破棄を要求した。伯爵家は内密にするよう子爵家に約束を取り付け、婚約破棄を受け入れた。その際、口止め料としてかなり上乗せした違約金が支払われた。
その後、エルシオームは僻地に送られた。そこで厳重な監視体制の下に置かれ、行動の自由も大幅に制限された。事実上、囚人も同然の扱いだ。伯爵家が彼を放りださなかったのは温情ではない。この異常性癖者を世に出さないためだ。
彼の秘密の家は燃やされた。燃え残った土台も解体され、空いた土地には木が植えられた。そこに家があったなど誰にもわからなくなった。
妹のアイマティーラは、正式な診断の結果、軽度の知的障害と判定された。
いくらかわいらしくても、貴族社会ではいずれ大きな失敗をする日が来るだろう。家の名誉のため、なによりアイマティーラの身の安全のため、子爵はアイマティーラを学園からの退学を決定した。
アイマティーラは子爵領内の緑豊かな土地に送られた。専属の治療師をつけられ、人の喧騒から離れた静かな別荘で、日々穏やかに過ごしている。
「あなたの助言のおかげで、あんな異常者に妹を奪われずにすみました。本当にありがとうございます」
報告を終えたナーティレラは深々と頭を下げた。
「そんなかしこまらないでください。でも、丸く収まったようでよかったです。安心しました」
そう言って、『親愛なる導き手』は安堵の息を漏らした。相当心配してくれていたようだ。ナーティレラは、この聡明な幽霊がこんなにも親身になってくれたことを心の底から感謝した。
そんなナーティレラの視線に気づいたのだろう。『親愛なる導き手』は照れたように頬をかくと、話題を振ってきた。
「それで……妹さんのご様子はいかがですか?」
「最初は学園を去ることを嫌がっていましたが、最近は欲しがりも治まり、ずいぶんと穏やかになりました。絵の才能があるようで、暇があれば何かを描いているそうです。今度、わたしの絵を描いてくれると約束してくれました」
「そうですか。それは楽しみですね」
「ええ、本当に……」
そう言って、ナーティレラは笑顔を見せた。妹の安寧を心の底から喜ぶ、慈愛に満ちた笑みだった。




