1.冷たい婚約者に悩む令嬢の相談
「『親愛なる導き手』様、いらっしゃいますか?」
夜も更けた頃。月光の下、男爵令嬢コルウィージアは問いかけた。
彼女が訪れたのは学園寮の女子棟3階。その北の端にある一室。
机やベッドなどの調度品は他の寮室と変わらない一般的なものだ。目立つのは本棚の数の多さだろう。いくつもある本棚には分厚い本が何冊が几帳面に並べられている。そのいずれもが恋愛小説だ。
学園の記録上も空き部屋ということになっている。だが学園に通う令嬢は、この部屋に住まうものを知っている。この部屋の主は、幽霊だ。
月が輝く夜、恋に悩む令嬢が訪れると、幽霊は姿を現し、助言をくれるという。その幽霊は『親愛なる導き手』と呼ばれている。
「こんばんは。恋を語るにはいい夜ですね」
月の光の中からすうっと少女が現れた。
肩まで届くしっとりとした黒髪。月の光をそのまま映したような神秘的な銀の瞳。纏うのは白を基調とした学園の制服だ。
この世の者ではない。その身体は月の光に透けている。半透明のその姿は、彼女が幽霊であることの証だ。
月光に溶けてしまいそうな、儚くも美しい黒髪の少女。それはおとぎ話のように幻想的な光景だった。
この少女こそが部屋の主。『親愛なる導き手』と呼ばれる幽霊だ。
幻想的なその幽霊は、妙に温かみのある声で語りかけてきた。
「ランプの明かりが苦手なんです。この部屋は月の光を強化する魔法がかけてありますから、暗くはないですよね?」
「は、はい。大丈夫です」
月光で満たされたその部屋は、照明を必要としないほど明るかった。ランプの明かりとは違う幻想的な光に満たされた部屋。コルウィージアはおとぎ話の世界に紛れ込んだような気持ちになった。
「立ち話もなんです。まずはお座りください」
『親愛なる導き手』に促され、向かい合わせでテーブルに着いた。
「さて……月夜にこの部屋にいらしたご用向きはなんでしょうか?」
「その前に、こちらをどうぞ」
そう言ってコルウィージアは『親愛なる導き手』に本を差し出した。
「これは、人気作家アール・オマンスの新刊じゃないですか! すごくうれしいです」
『親愛なる導き手』は顔をほころばせて喜んだ。彼女に相談する際、その報酬として恋愛小説を渡すことになっていると聞いていた。自分の用意した本が気に入ってもらえたようで、コルウィージアはほっとした。
「こんないい本を贈ってくれるということは、どうやら細かな説明は不要なようですね。あなたには恋の悩みがあるのでしょう? どうか聞かせてください。せいいっぱいの助言をいたします」
そう促され、コルウィージアは自分の抱える悩みについて語り始めた。
コルウィージアは男爵家の令嬢だ。
ふわりとした柔らかな金髪に、くりくりした青い瞳。周囲からはかわいいと褒められるが、背が低いことと顔つきが子供っぽいことが気にかかる。そんなごくありふれた少女だった。
彼女にも婚約者ができた。それも上位貴族だ。
伯爵子息アーシュマッド。金髪に碧眼の、スラリとした長身の美丈夫だ。
上位貴族でしかも美形。素敵な婚約者ができてコルウィージアは最初は舞い上がったものだ。夢じゃないかと思った。しかし舞い上がった気持ちはやがて地に落ちてしまった。
婚約者の義務として、週に一度のお茶会を共にすることになっている。アーシュマッドはいつもきちんと来てくれる。しかしほとんど自分からはしゃべらない。目を合わせることすらしない。沈黙の時間が気まずくて、コルウィージアが一方的にしゃべるばかりだった。相手が楽しんでいるのか退屈しているかもわからず、お茶会が終わるといつもぐったりとしてしまう。
このままではいけないと、コルウィージアも努力した。休日にいっしょに観劇に行ったり美術館巡りをしたり、公園で散策したりした。その精一杯おしゃれして、すこしでも気に入ってもらおうとした。しかしアーシュマッドはコルウィージアのことをほとんど見てくれず、努力は徒労に終わった。
アーシュマッドがもともと無口で不愛想な人間なら、そういうものかと受け入れられたかもしれない。しかし彼はその外見のよさから令嬢から話しかけられることが多い。そうしたときはごく自然に会話する。黙ったり目をそらしたりすることもなく、実にスマートに対応する。それで令嬢たちからますます人気を得るのだ。
無口になるのは婚約者であるコルウィージアとの時間だけのようだった。
嫌われるようなことをした覚えはない。むしろ気に入られようと努力している。それなのにアーシュマッドの態度が冷たい。その冷たさにコルウィージアは凍えてしまいそうな想いだった。
「きっとアーシュマッド様は、子供っぽくて女性的な魅力に欠けるわたしなんか嫌いなんです。婚約者失格だと思っているんです……でも伯爵家との婚約を、ただつらいというだけで断ることなんてできません。わたしはどうすればいいのでしょうか?」
語るうちに悲しくなってきたのか、コルウィージアは目元をぬぐった。その目は少し赤くなっている。
そんな彼女に、『親愛なる導き手』は穏やかな声で問いかけた。
「アーシュマッド殿の方から別れ話をしてきたことはありますか?」
「いいえ、ありません」
「お茶の席を欠席したり、休日の誘いを断られたりしたことはありますか?」
「それは一度もありません。真面目な方なんです」
「他の令嬢と付き合っているという噂を耳にしたことはあります?」
「他の令嬢と話すお姿はよく見かけますが、特定の方と仲良くしているという噂は聞きません」
『親愛なる導き手』はふーむと腕を組んだ。コルウィージアは不安に目を揺らしながら、その答えを待った。
やがて、彼女は口を開いた。
「アーシュマッド殿は『熱愛ゆえの冷害』に陥っているのかもしれません」
「『熱愛ゆえの冷害』?」
耳慣れない言葉を耳にして、コルウィージアはオウム返しに聞き返した。
『熱愛ゆえの冷害』。熱いのか冷たいのかよくわからない言葉だった。
「これは失礼しました。『熱愛ゆえの冷害』とはわたしが作った言葉です。男性というのは意外と繊細なものです。相手のことを好きになりすぎると、まともにしゃべれず目を合わせることもできなくなってしまうことがあるんです。熱すぎる愛ゆえに冷たい態度をとってしまい、結果的に相手のことを害してしまう。それを一言でまとめて『熱愛ゆえの冷害』としました」
「つまり……アーシュマッド様はわたしのことを好きだから、全然お話してくれないというんですか?」
「お話を聞いた限りではその可能性は高そうです」
「ないないない! それはないです!」
コルウィージアは首を左右にぶんぶん振って否定した。
「アーシュマッド様は、他の女性にはとても紳士的に接していられるのです! そんな方が、こんなわたしと目を合わせることもできないなんて……ありえません!」
「なまじ他の女性との軽い付き合いに慣れているせいで、本当に好きな相手とどう接すればいいかわからない。嫌われるのが怖い。それで無口になる……男性にはよくあることです」
「でも……でも……!」
「納得できないのも無理はありません。彼が『熱愛ゆえの冷害』だというのはあくまで推測に過ぎません。それなら確かめましょう」
「え? 彼の気持ちを確かめる方法があるんですか?」
「ええ。ずばり『ガチ泣き』です」
「『ガチ泣き』?」
またしても妙な言葉が出てきた。首を傾げるコルウィージアを前に、『親愛なる導き手』は席を立った。戸棚から小瓶を取り出すと、テーブルの上に置いた。
「『嘆きの洪水』という薬です。これを飲むと涙がとめどなくあふれてきます。アーシュマッド殿と二人きりになったとき、この薬を飲んで『ガチ泣き』しながらこう訴えてください。
『あなたの愛が感じられなくて、つらくて胸が張り裂けそうです! わたしのことがお嫌いなら、いっそこの婚約を解消して、わたしのことを捨ててください!』、と。なるべく大きな声で、迫るように言うのがコツです」
「な、なんでそんなムチャクチャなことをしなくてはいけないんですか!?」
「『熱愛ゆえの冷害』に陥った男性というのは実に厄介なんです。なかなか本音を出しません。全てが手遅れになってから、『君のことをずっと愛していた』とか平気でのたまったりするんです。だからギリギリまで追い詰める必要があります。そのための『ガチ泣き』です。さすがに意中の女性が涙ながらに愛を確かめたいと言えば、本音を隠してはいられなくなるでしょう」
『親愛なる導き手』は言い切った。もしかしたら、過去にそういう男性とお付き合いした経験があるのかもしれない。そう思わせるほど自信のある口ぶりだった。
それでもコルウィージアとしては簡単に受け入れられない提案だった。
「……もし、アーシュマッド様ががわたしのことを愛していなかったら、どうなるんでしょう?」
「まったく愛していないのなら、突然泣き出した貴女をまともに相手にせず立ち去るでしょう。それならご両親に相談して婚約を解消すべきです。乙女の涙を放置する男と結婚して幸せになれるはずがありません」
『親愛なる導き手』の示した手段はあまりに過激なものだった。
でも実際、コルウィージアには他に手段がない。これまで婚約者の気を引こうと努力してきた。しかし相手はまともに話すどころか目も合わせてくれない。気持ちを確かめるために思い切った手段が必要だった。
「これは婚約者の愛を測るための荒療治です。実行すれば決定的な結果を出すことになります。だからこれは、あくまで助言です。無理強いはしません」
『親愛なる導き手』の言葉を受けて、コルウィージアは改めて小瓶をじっと見つめた。
これを使えば愛を確かめることができる。だがそれは決定的で後戻りの出来ない結果をもたらすことになるだろう。
今のままでも大丈夫かもしれない。アーシュマッドが『熱愛ゆえの冷害』に陥っているだけなら、いつかは愛を示してくれるだろう。だがそれでは、その日が来るまではこの不安な気持ちを抱えたままになる。そんなことに耐えられるだろうか。すでにコルウィージアは限界を感じつつある。
しばらく悩んだ末、コルウィージアは小瓶を手に取った。
あの夜から一週間ほど過ぎた頃。コルウィージアは再び『親愛なる導き手』の元を訪れた。
コルウィージアは満面の笑顔で成果を報告した。
「『親愛なる導き手』様! ありがとうございます! アーシュマッド様はやっぱり『熱愛ゆえの冷害』でした! 泣いて訴えたらきちんと謝罪してくださって、わたしのことを優しく抱きしめてくださったんです!」
「それはよかったですね」
「お茶の席では彼の方からいろいろな話をしてくれるようになったし、休み時間もいつも一緒にいてくれるんです!」
「しあわせそうでなによりです」
「どこに行くにもべったりで、先日は女子トイレについてきそうになりましたい、ついさっきまで、わたしのことが心配だと学園寮の外で待機していましたが、警護の騎士に連行されました! いやあ、まいりましたね!」
「……実はちょっと困ってますね?」
コルウィージアはへなへなと崩れ落ちた。
「アーシュマッド様が愛してくださるのはうれしいんです。でももう少し適切な距離を保ってほしい……愛が、愛が重いんです……!」
「『熱愛ゆえの冷害』に陥る男性は、基本的に愛が深すぎますからね……」
「それにしても極端すぎます!」
コルウィージアは頭を抱えて嘆いた。
「いったいどうすればいんでしょう?」
「あなたが手綱を握るんです。彼は例えるなら力が強くて気性の荒い馬のようなものです。放置すると危険ですが、きちんと手綱をとって言うことを聞かせれば大きな力になります」
「手綱を取れと言われても……二言目には『君を愛しているのだから仕方ない』とか言ってわたしの言うことを全然聞いてくれないんです!」
「それなら簡単です。『わたしが嫌だって言ってるのにやめてくれないなんて、愛しているというのは嘘だったんですか』とでも言えばいいんです。惚れているのは相手の方です。嫌われることを恐れています。あなたの方が、恋愛的な立場としては上なんです。積極的に彼のことを矯正するんです」
「え? わたしの方が、上……?」
それはコルウィージアにとって想像もしたこともないことだった。相手は上位貴族の子息だ。しかも美形で女性に人気がある。背だってアーシュマッドの方が、頭一つ分は高い。
自分の方が上だなんて、想像もしたことはなかった。
「相手は気持ちばかりが大きいだけの、恋愛初心者です。愛されるために努力してきた貴女の方が上に決まっているじゃありませんか」
『親愛なる導き手』は胸を張って言い切った。そこまで自信をもっていいきられると、そういうものかと思えた。コルウィージアの中に、小さな自信が芽吹き始めた。
「……そうですね。これまで彼にどうやって好かれればいいのかと悩んでいました。それなら今度は、彼に悩んでもらう番です! ビシバシしごいて、私好みの殿方になっていただきます!」
「その意気です! 頑張ってください!」
コルウィージアは笑顔を見せた。それはとても明るくて、晴れやかで、かわいらしい笑顔だった。
アーシュマッドはこの笑顔に魅せられ恋をした。コルウィージアが気づいていなかっただけで、恋の勝負においてどちらが上かなんで、最初から決まっていたことなのだ。




