8:『黒』の神イグル=モナ
西方の森林地帯の中に佇む、土製の粗末な家。
魔獣の襲撃に耐えられるように頑丈さだけは確保された建物の中では、二人の男がテーブルを挟み、向かい合って座っていた。
”勇者”イグル。
”魔王”デイカン=モナ。
白い陶器のカップに注がれた薬草茶を二人同時にすする。
「人間の街は全てゴーレム達によって潰された。王も前の勇者の女達も全員死んだ。逃げ出した奴らがまだ各地に多少散らばってはいるが、それも直に死ぬだろう。そうなればこの世界の人間はお前だけになる」
「……」
今の世界の現状を説明したデイカンの言葉に対し、イグルは何も答えなかった。
答える言葉が見つからなかった、と言った方が近いだろうか?
しかし別に彼の言葉にショックを受けたわけではない。
逆だ。
何の興味も無かった。
愛情の対極は憎悪?
否。
愛情の対極は無関心だ。
デイカンもすぐにそれを悟ったのか、そのことに関して特にそれ以上の反応を求める様子はない。
いや、悟るも何も最初からわかっていたのかもしれない。
「殺してもいいんだぞ? 俺を、その聖剣で」
テーブルの上にはデイカンの脱いだスカルフェイスが置かれ、その横には彼の大鎌が立て掛けられている。
それに対し、殺風景な家の隅に無造作に立てかけられた聖剣。
デイカンはそれを顎で指し示した。
「興味はない」
「……そうか」
イグルが聖剣を手に入れたのは、それがデイカンに対抗できる手段だと考えたからだ。
この辺りの魔獣ならば自作の剣でどうにかできるが、魔王が相手となればそうは行かないだろうと思っていた。
しかしだからといって積極的に彼と戦うつもりはなく、単に自衛の手段を確保したに過ぎない。
つまり、デイカンがイグルに危害を加える素振りを未だ一切見せない現状において、彼が聖剣を抜いて戦うことは無いのである。
結局のところ、彼が王都に赴いたのはデイカンが魔王であることの確認と対抗策の確保のためだけだった。
沈黙。
二対の漆黒の瞳は動かない。
その時間と空間が、二人の纏った虚空と虚無を端的に表現していた。
共感。
何の言葉も交わさないこの沈黙が、そしてその底無しに光を飲み込んでいくような瞳達が、二人に互いが互いに似た者同士であることを理解させる。
始まりはどうあれ、経緯はどうあれ、最終的に辿り着いた本質は同じだ。
「俺も……」
そしてデイカンが再び口を開く。
「俺も、昔はその聖剣を使っていた」
「……お前がか?」
流石にこれは予想外だったらしく、珍しく興味を惹かれたイグルは反応して顔を上げた。
一般的な感覚でいえばそれほど大きなリアクションではなかったが、今の彼にとっては驚愕の時にする動作である。
「そんなに意外そうな顔をするな。俺だって昔は希望に満ち溢れていたんだ。……昔はな」
その目はイグルを真っ直ぐに射抜き、しかしその焦点は果てしなく遠くを見ていた。
「人間だった頃、俺も勇者と呼ばれていた」
人間だった。
それは過去形だ。
つまり今は違うということになる。
それでは彼はいったい何者になったのだろうか?
「武力、権力、富、名声、そして女。全てを手に入れたと思っていた。だが何もかもがまやかしだった。結局、俺は何も手に入れてなんていなかったのさ」
「……」
イグルは何も言わない。
デイカンの過去に興味はあったが、果たしてそこに不用意に踏み込んでいいものか迷っていた。
「……この人生が終わったら、お前も俺達のところに来いよ」
「……?」
初めて聞くセンテンス。
イグルはデイカンの言葉の意味を今度こそ理解しかねた。
手に持ったままのカップの中身が波打って琥珀色に輝く。
「死んで魂になったら、俺達の仲間になれ。言っておくが断っても連れて行くぞ? この世界の神は俺だからな」
「……お前、女だったのか?」
イグルは胡散臭そうな顔でデイカンの体を見た。
彼の言葉の意味はよくわからなかったが、少なくともこの世界の神は女神のはずだ。
しかし彼のその体格はどう見ても男である。
いや、体格だけではない。
声も、動作も、女を感じさせるどころか中性的な要素すら殆ど見当たらなかった。
どこをどう見ても男である。
「あの女なら俺が殺した。……先に喧嘩を売ったのは向こうだ。まさか虚仮にした人間が神になって復讐に来るとは思っていなかったようだがな。見るか? 死体ならまだあるぞ。……首から上は残ってないがな」
だから面を拝むのは無理だ、とデイカンは悟り人のように力なく笑った。
「……そうか」
つまり”女神は死んでいた”のだ。
この二十年の間のどこかで殺されていたのである。
目の前の魔王によって。
目の前の復讐者によって。
いや――。
目の前の死神によってだ。
イグルは考えた。
彼はいったい、”いつからこの世界の神になっていた”のだろうか?
脳裏に、これまで感じていた違和感に対する答えとして一つの可能性が浮かんだ。
よりにもよって、なぜ自分が勇者に選ばれたのか。
他でもないシゲルの後継として。
もしかすると――。
そんな疑問を察したのか、デイカンはまだ薬草茶が残っているカップをテーブルに置いた。
「殺したのは一年近く前の話だ。そして俺がお前を神託で勇者に指名した」
半分はただの同情のつもりだった、と彼は白状した。
最後に華ぐらいは持たせてやろうと思ったそうだ。
安物の復讐で満足するならそれも良し、英雄ごっこに興じたいならそれでも良し。
どちらでも構わなかったのだという。
「だがお前が勇者の力に依存する気配をまるで見せない時点で事情は変わった。人材としては十分に合格点、俺も自信を持って推薦できる。……だから来いよ」
底無しの虚無。
そんなデイカンの瞳がイグルを引き込もうと僅かに湧いた。
これまでこの世界を管理していた女神とは別格の、力ある神からの誘惑が空虚な人間となったイグルの周囲を取り囲む。
それを意識しているのかいないのか、あるいは理解しているのかいないのか、イグルは再び薬草茶をすすった。
白い陶器に揺れる琥珀色が輝き冴え渡る。
「……考えておく」
カップに入った液体を全て飲みきった後、イグルは一言だけそう答えた。
★
「……夢か」
イグルは椅子の上で目を覚ました。
死して神格を得た今となっては睡眠は一切必要ないのだが、それでも人間だった頃の感覚に引きずられて眠ってしまうことがある。
(状況は……、特に動いてはいないな)
幻想的な黒に囲まれた部屋の中で、イグルは目の前の大きなテーブルに組み込まれた画面を確認した。
そこにはボードゲームのように地図や各種パラメータが並んでいる。
人間時代を過ごした世界アンサンセを離れてから永い時間が経ち、神となったイグルは勢力戦と呼ばれる争奪戦に参加していた。
まだどの陣営にも属していない世界の所有権を巡り、その世界の住人を駒にして一定のルールの下で争っているのである。
彼が現在参加しているのは、リーンとストラという隣り合った二つの世界の所有権を巡る勢力戦だ。
秩序の神々を中心とする『白』の勢力の女神アインス=サティ。
享楽の神々を中心とする『赤』の勢力の女神クアトラ=ナハト。
支配の神々を中心とする『黒』の勢力に属するイグルは、この二人の女神を相手に数万年に渡って勝負を繰り広げていた。
現状は彼の優勢で進んでいる。
寝ている間に状況が変わっていないことを確認しながら、イグルは頭の片隅で先程の夢のことを考えた。
なぜ今頃になって人間時代の夢を見たのだろうか?
目の前の画面には、その心を死に至る病で満たされたこの世界の住人達が映し出されている。
――まるでかつての自分を見ている気分だ。
イグルの口元に少しだけ笑みが溢れる。
あの時、なぜデイカンが自分を誘ったのか。
今ならばそれが少し理解できるような気がする。
それはまだ言葉にして表現できるほどはっきりとした輪郭を持たないが、おそらく的を外してはいないはずだ。
その時、ノスタルジーに浸りかけたイグルを咎めるかのように銀髪の美女が背後に現れた。
彼女の名前はオリヴィエ。
今回の勢力戦において現地で活動する黒の使徒、つまりイグルの秘書のようなものである。
「モナ様」
「だからモナって言うな」
イグルはオリヴィエに対して反射的に答えた。
神格を得た後、デイカンの誘いに乗ってリザ=モナの派閥に入ったイグルは、彼同様に彼女のラストネームを貰っている。
つまり今のフルネームはイグル=モナだ。
なぜか『モフモフのかわいい動物かと思ったら違ってガッカリした』とか、『路上でキスしてそう』とかよく言われるので正直あまり気に入ってはいない。
おまけにリザの外見が幼女そのものであるせいで、他の派閥からはロリコン紳士の集団扱いである。
リザ本人に対しては特別悪い感情を抱いてはいないし、有力者である彼女の派閥にいることの恩恵は大きいので、文句を口に出しては言わないが。
しかし、とイグルは内心で密かに考えた。
時々このやり取りをしては楽しそうな反応をするこの使徒はなんとかならないものだろうか?
……たまにはこちらからいたずらを仕掛けてもいいかもしれない。
「失礼、それではイグル様。勢力戦に新しい参加者が現れました」
「……新しい参加者? どういうことだ?」
イグルは首を傾げた。
『赤』、『白』、『黒』の三大勢力は既に参加している。
参加できるのは一つの世界に対して各勢力から神と使徒で一人ずつの二人。
既にどの勢力も参加枠を使い果たしているので、これ以上の人員の追加は出来ないはずだ。
勢力戦はあくまでも三大勢力間での協定に基づいており、ここに属さない神々に対してはそもそも意味を持たない。
「それが……。向こうは『青』の勢力と名乗っています」
「『青』?」
そんな勢力の存在は聞いたことがない。
イグルはますます首を傾げた。
「私もそんなものが実在するのかと疑ったのですが、システム上ではしっかりと受け付けられました。会ってみますか? 使徒が先程エントランスにいましたから」
「……嫌そうだな?」
イグルはオリヴィエが珍しく乗り気でないことに気がついた。
自分の役割に徹する性格の彼女はその辺の好き嫌いを露骨に表に出すようなタイプではないので、相当な何かがあるのだろう。
「いえ……。なんと言うかその、不気味というか、かなり威圧感のある相手だったもので……」
「お前から見てもか? ……よし、行ってみよう」
イグルは椅子から立ち上がった。
その瞳は未だ空虚で満たされていたが、しかし過去を見ていた人間時代とは違い、その視線は確かに未来に向けられている。
そう、彼を誘ってくれたデイカンと同じように、だ。
一体何が悪かったのか。
どこで間違えたのか。
自らに問い続けた人間時代。
もしかしたら明るいに未来につながる選択肢があったのではないかと考えるたび、心はヤスリを当てられたように荒れ、その波に幾度となく飲み込まれた。
しかしそれももう過去の話だ。
当時を思い出すことは今でも容易にできる。
だがそれが今の彼の中に新たな波を起こすことはない。
イグルは部屋の出入り口の役目を果たす魔法陣の上に乘り、先程まで自分が座っていた椅子を振り返った。
この部屋に二つ目の椅子を置いておきたいとは思わない。
画面上に映し出されたかつての自分達。
存在したはずのない幻の希望を信じ、孤独の中でそこに辿り着けなかった自分を責め続ける彼ら。
やがては自分自身の心を削り尽くすに至るであろう者達の背中を、今こそ押すべきかもしれない。
かつてデイカンが自分に対してそうしたように。
誰かに背中を押された自分が、今度は別の誰かの背中を押す。
それを――。
それを前進だと言い張るのも悪くないかもしれないと、イグルは思った。
お粗末様でした。
読者を沸かせるには実力不足が否めない中、最低限の礼儀ということで一切日和らず書かせて頂きました。
拙いながらもこれが自分の現状ベストだと思ってます。
ではそろそろなろうの底辺に帰らせて頂くぜ_( ´・-・)_




