フェンリル
やっとの事で切り抜けたが、残念なことにこれで終わりではない。まだずっと先、距離で置換すれば十数キロに値するだろう。
飛行距離で言えば、終盤を過ぎ、そろそろゴールが見えてくる頃だ。今から十数キロ離れた敵を追い抜くことは、普通の機体ではまず無理だが、ブルースカイになら無理ではない。しかしあくまで可能性があるだけの話であって、可能性としては限り無くゼロに近い。
空人は一瞬どうしようか迷ったが、考えるまでもなく答えは一つだった。距離が離れていればそれを縮めるだけ。実にシンプルだ。長い人類史でレースが生まれてから数千年、一度も変わることのなかったルールだ。
だが、問題がある。
確かにこれから前の機体に追いつくのは無理な話ではない。しかしそれは、もう一度あの加速を使うことになる。それがどういうことか、空人はよく理解している。
おそらくアレを使えば、緊急時には何の対応も出来なくなるだろう。それは感覚など曖昧なものではなく、きちんとしたシミュレーションに基づいた科学的な根拠があるのだ。それはテクニックでカバーできるものではないし、ましてや奇跡など起こるわけもない。
空人が考えなければいけないのはそんなイフの話ではなく、このレースに下手をすれば命を落としてしまうような技を使うべきかどうかである。
言ってみればこれはただのデビュー戦だ。ここで躓いたところで、多少の影響はあれど、今後の人生に響くようなことはない。
でも、それでも。空人には譲れないものがあった。
そもそもこれは誰のためなのか。半分は自分のためであるがもう半分は妹の天のためである。多分、天はいまだに居なくなった父親の背中を見ているのだろう。だからこそ空人は父親の記録を塗り替え、天がいまだに見続けている父親の幻想を壊してやりたかった。
だから――
空人は思いっきりレバーを手前に引いた。
グンと加速していき、やがて景色が線のように後ろに流れていく。
空人自身禁忌としている二回目を使うとは思ってもみなかった。だが、そんなことは言っていられない状況となってしまった。おまけにこれを使ったところで追い抜けるかどうか怪しい。おそらく、空人のすべて、まだ誰にも見せていないものを出さないと勝つことは不可能だろう。いや、それでも勝てる見込みは薄いかもしれない。
しばらくすると、ようやく前の機体が見えてきた。
名前はフェンリル。オッサンが気をつけろとさんざん言っていた機体だったので名前は覚えていた。
バイオレッドのスリムなボディの両翼に二本の光剣と光銃がついていることからバランス型だと判断できる。
しかしここで、エネルギーの問題上スピードを緩めなければならなくなってしまった。ゴール直前で墜落なんて冗談でも笑えない。
「……どうするか」
追いついたのはいいが、ここからの手があまり残されていない。一つ幸いなことは急加速をすれば抜ける距離まで詰めていることだった。
だが、実際のところ急加速を使えるのはあと一回くらいだろう。それもほんの数百メートルだけだ。
オートパイロット機能が使えず、加速もあと一回、追い詰められているとしか言えない状況だ。
しかし、何をするにしても相手の動きを把握しないわけには作戦の立てようがない。
そこで空人はふと思った。おかしい。
この状況は極めて不自然なはずなのだ。考えてみればバランス型の機体がダントツなわけがない。バランス型というのは、全能力がある程度高いがどれも中途半端なはずだ。だからこういった機体を乗るのは決まって不慣れな初心者で、ある程度慣れた者は自分の長所を伸ばす機体に乗るはずだ。空人で言えば並外れたバランス感覚を生かしてスピード型となる。もちろん中にはバランスよく伸びる者もいて、そういった場合はバランス型に乗ることがある。
だが、攻撃型には攻撃では勝てないしスピード型にはスピードで勝てない。防御型には防御では勝てないし、希にあるアクロバット型にも奇怪な動きでは勝てない。
だから全体としての行動は、徐々に順位を上げて行きつつ、相手の弱点を突いて抜いていくというタイプのはずだ。
しかし、目の前にいるあの機体はおそらく最初からあのままなのだろう。それも、さっき抜いたばかりのスピード型さえも抑えて。
これは警戒せざるを得なかった。
空人は少しスピードを上げると、フェンリルの機体三機分くらい空けて後ろにつく。
緊張感の漂う中、空人は煽るようにスピードを上げて、タイミングを見計らう。
しかし、スピードを上げて右から抜こうとしたら、すぐさまブロックに入られ、フェイントをかけ、少し落下しながら下から抜こうとしたがそれもブロックされてしまった。
今度はロールして左右に揺さぶってみたがそれもすべてブロックされてしまった。
「クッソ!」
空人には苛立ちだけが募っていた。
今ので一位の理由が一瞬で分かってしまった。フェンリルの強さは単純に“抜けないこと”だった。一度抜かれてしまえば、しつこいほどのブロックに阻まれ二度と抜くことが出来ないのだ。
今度はフェンリルがこちらに向けて光弾を放ってきた。ブルースカイはなんとかマニューバで回避するが、空人はかなり焦っていた。
本来、銃が後ろに向くということはないのだ。以前、そういった技術は開発されたが、後ろにカメラを取り付け、機内のマルチモニタで管理するというのはとても複雑で、扱える者がほとんどいないという理由で研究は中止されたのだ。考えてみれば分かるとおり、機体の制御をしつつ、複数のモニタをチェックしながら相手に照準を合わせ、的確に落とすなど難しいのレベルをとうに超している。
少し前に360という機体を使っていたフライヤーがいたが、三六〇度に攻撃できるというオールレンジを武器にかなり有名になったが、それはほんの一瞬だった。スピード型が後ろで少しちょこまか動くだけで照準が狂い、あっさり抜かれてしまうのだ。それ以降その様な機体は出なくなった。
だが、目の前にはそれがいる。三六〇度すべてを攻撃できる機体が。
「おっと! 海谷選手もフェンリルに相当苦戦している様子ですね」
「ええ、そのようですね。フェンリルは今大会のブラックホースですからね。あの機体は全方向を攻撃できるという恐ろしい能力に加え、彼自身のブロックの腕前もとてつもないもです。それをどうやって攻略していくのか見物ですね」
空人の快進撃に盛り上がる会場をさらに煽るように解説を加えていく。
「おそらくブルースカイのエネルギーは底が見えているでしょう。二度の超加速で無理な追い抜きをしていれば、さすがにそろそろ限界でしょう。もしかしたらオートパイロット機能も使えないかしれませんね。今回の優勝は難しいでしょう」
「確かに難しいかもしれませんね。でも、私はあの英雄の息子が奇跡を起こしてくれると信じていますよ!」
アナウンサーの男がそう言うと会場は歓声に包まれた。
いまだに英雄の話題は盛り上がるらしい。
だが、盛り上がるのもそこまでだった。
次の瞬間、会場に設置された巨大モニタには落下していくブルースカイの姿が映し出された。
そして、会場の歓声は悲鳴へと変わった。




