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第一王子を心から崇拝している、ある侯爵は、近頃ひどく苛立っていた。
部屋の隅で交わされる文官たちの噂が耳につく。
「第三王子殿下が手を入れた申請制度で、ずいぶん楽になったそうだ」
「無駄な工程が減って、現場が助かっているとか」
「物流規定も見直されたらしいな」
侯爵は冷ややかに息を吐いた。
――小手先の改正。それが何になる。かつて宮廷で、第三王子はこう呼ばれていた。何もできない王子。無能。剣は並。政務では口を出さない。政治的な婚約もなく、独身のまま。王家の駒としての価値も薄いと、陰で笑われていた存在。
それが今や、制度の改正を次々と成功させているという理由で、周囲に評価され始めている。
第一王子こそが、王に相応しい。侯爵にとって、それは揺るがぬ真実だった。
そんな折、慌ただしい報せが入る。
「侯爵様! 外交担当の上級役員が医務室へ!」
「何事だ」
「激しい胃痛とのことです。本日の朝、隣国との協議資料を前に、突然顔面蒼白に……」
侯爵は目を細めた。
隣国。自国の倍の国土と軍備を誇る大国。三日後の協議は、相手が強硬な姿勢で臨むと聞いている。
重圧に胃をやられたのだろう。だが侯爵の胸に浮かんだのは同情ではない。
――好機。
侯爵はすぐに第一王子のもとへ向かった。
「殿下、お願いがございます」
「外交役員の件だな」
「はい。代理を立てる必要がございます」
「誰が適任だ」
侯爵は静かに言った。
「第三王子殿下に、ご経験を積んでいただいては」
沈黙の後、第一王子は頷いた。
侯爵は深く頭を下げ、退出する。
静まり返った執務室で、第一王子はひとり、机上の地図に目を落とした。侯爵の狙いは分かっている。
第三王子を試し、失敗すれば評価を落とすつもりなのだろう。だが、それは表層にすぎない。問題は隣国だ。
――ついに動き出したか。
思ったより、早かったな。
小さく目を細める。驚きはない。むしろ、予定よりわずかに早まっただけという感覚に近い。
ここ数年、軍備を急拡大させながら、交易量は減少。財政報告の数字は明らかに歪んでいる。
内政に無理が出ている証拠だ。強硬に見える要求ほど、裏には焦りがある。
「……ふむ」
第一王子は小さく息を吐いた。第三王子がどこまで読めるか。そして、どこまで盤面を動かせるか。これは、悪い機会ではない。
「侯爵の思惑通りに動いているわけではない、か」
かすかな笑みが浮かんだ。
やがて呼ばれた第三王子は、穏やかに頭を下げる。
「承知いたしました」
驚きも戸惑いもない。ただ静かな受諾。
そして、第三王子は直ぐに動き出した。
命を受けた以上、迷いはない。与えられた役目を、ただ最善で果たすだけだ。
執務室に戻るなり、文官へ指示を飛ばす。
「隣国との過去十年の協議記録を。議題、譲歩点、決裂点を抜き出してくれ」
「はっ」
「それから、隣国の近年の軍備増強に関する報告書。財政状況、国内の不満、貴族派閥の動きも欲しい」
矢継ぎ早の指示に、マルクが目を瞬かせる。
「殿下、そこまでを……?」
「相手を知らずに席に着くのは、丸腰で戦場に出るようなものだ」
淡々とした口調だった。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。第三王子は椅子に腰を下ろし、資料に目を通し始める。ページをめくる手に、迷いはない。
外交とは、卓上で行われる戦のようなものだ。どれだけ情報を集められるか。どれだけ相手の望みを理解できるか。
そして、自国の利益を、相手にとっても「受け入れられる形」に整えられるか。
勝負は、卓上に着く前から始まっている。資料の中に、隣国からの事前通達があった。
名目は穏やかだった。
『国境紛争軽減のための資源管理』
『恒久的平和を目指す経済互助同盟』
『両王家を一つに結ぶ神聖なる血の盟約』
それを覗き込んだマルクの眉間に、深い皺が刻まれる。
「……これのどこが、友好的な通達だと言うのでしょう」
声には抑えきれない苛立ちが滲んでいた。紙を持つ指先に、わずかな力がこもる。
「平和の言葉で包んでおりますが……中身は、奪う気で満ちています」
第三王子は何も言わず、文面を読み進める。
だが、意味は明白だった。
国境の鉄鉱山を二十年、無償貸与。
十年間の関税撤廃と、商人の自由往来。
王族、もしくはそれに準ずる娘を、隣国王太子へ輿入れ。
文官が青ざめた理由が、よく分かる内容だった。これは協議ではない。要求だ。ほとんど、命令に近い。
その内容が、どれほど一方的なものか、第三王子にはすぐに分かった。
鉄鉱山の無償貸与。
それは、武器と貨幣の源を、他国へ差し出すに等しい。二十年もあれば、隣国はその資源をもとに軍備を整え、自国は掘ることもできぬまま、力の差だけが開いていく。
関税の撤廃と自由往来。
それは交易の名を借りた市場の侵食だ。安価な隣国の品が流れ込めば、国内の商人は立ち行かなくなる。金は外へ流れ、国内の経済は静かに弱っていく。人の往来が増えれば、内情もまた容易に入り込まれる。
そして、王族の輿入れ。
これは友好の証などではない。人質だ。
しかもこの要求は、五年前に結ばれた「相互不可侵および血縁同盟優先条約」を根拠にしている。
条文にはこうある。
「両国が必要と認めた場合、王族間の婚姻をもって同盟の証とすることができる」
拒めば条約違反を問われる。受け入れれば王家は隣国に縛られる。
戦わずして、国を削るための条文。
第三王子はその通達文を脇へ置き、改めてマルクらが用意した資料へ目を落とした。
そこには、隣国の別の顔が記されている。
軍備拡張による財政の逼迫。
貴族層と軍部の対立。
交易路の確保に焦り。
しばらく無言で資料を見つめ、やがて小さく息を吐く。
「……なるほど」
静かな声が落ちる。
「欲しているのは、面子と実利か」
小さく呟き、紙に走り書きを重ねていく。
マルクが何度も休息を勧めたが、第三王子は首を振る。
「時間が惜しい」
机の上には整理された資料と、要点を書き出した紙、いくつもの想定問答。かつて「要領を得ない」と笑われた王子の姿は、そこにはない。ただ静かに、着実に、盤面を整えていく者がいるだけだった。
やがて第三王子は外交準備室へ向かう。
室内では文官たちが慌ただしく資料を広げていた。張り詰めた空気。誰もが焦りを隠せない。
その中で、第三王子の声が落ち着いて響く。
「定時で帰れる者は帰りなさい」
文官たちが顔を上げる。
「ですが殿下、時間が――」
「焦って整えた書類ほど、穴が出る。今日は休み、明日、頭の冴えた状態で詰めよう」
静かながら、有無を言わせぬ口調だった。
そして続ける。
「条約の改正案は、明日までに作る」
文官たちが息を呑む。
「改正、ですか?」
「現行のままでは押し切られる。こちらから枠組みを変える」
迷いのない断言。
「条文の再構築を行う。代替案は三案用意する。明日は根回しを。迅速に、そして丁寧に。各部署へ伝達を」
的確な指示が飛ぶ。
文官たちの動きから焦りが消える。代わりに、理解と納得の色が浮かぶ。
彼らは知っていた。最近、第三王子が行ってきた数々の改正が、いずれも成功していることを。
その様子を、廊下の外から侯爵は見ていた。
侯爵は小さく鼻を鳴らす。
――形だけは整えているらしい。
この程度の外交で国が傾くことはない。むしろここで第三王子が醜態を晒せば、周囲の過大評価は静まる。
どちらに転んでも、第一王子の威光は揺るがない。無能なりに、必死なのだろう。
あの大国の圧を受け止められるはずがない。
日はまだ高く、窓の外は夕暮れに染まり始めたばかりだった。侯爵はそれ以上見ることなく、踵を返す。
この程度なら、結果は見えている。そう判断するには、十分だった。
侯爵はそのまま城門を抜け、馬車へと乗り込んだ。
この一件で、第三王子の評判は地に落ちる。
盤面は整ったと、疑いもしなかった。
その後、外交準備室の灯りは、夜が更けても消えることはなかった。




