第8話 赤子は泣くのが義務
「どうにも我が娘はアキト殿が気になるようだな。父として嫉妬の炎が渦巻きそうだ」
「あなた、落ち着いて下さいませ。フランソワはただ稀有な者に興味を持っただけですわ」
「あぅ…あ!」
「しかし…愛しのフランソワが、アキト殿の指をあんなに嬉しそうに掴んで…!」
「キャッキャッ♪」
紅葉のような小さな手は、驚くほど強かった。
我が差し出した人差し指を、フランソワは迷いなく掴み取った。柔らかな掌、骨も覚束ぬ幼い指が、まるで逃すまいとするかのように、きゅっと力を込める。
「…人見知りが激しいフランソワがここまで懐くなんて、余程アキト様との相性が良いのでしょう。まるで、安心できる相手に惹かれたように」
「相性、だと…?」
「ええ。あなたが初めて剣を握った日のように」
「それはそれ、これはこれだ!判然としない感覚など断じて認めない!」
高貴な令息とは思えぬ、どこか思春期の若者じみた焦りが混じったサンチェンスと、楽しげに微笑むシェヘラザード。夫婦のどこか微笑ましい会話を耳にしながら、当のフランソワは二人のやり取りなど意に介さず我の指を掴んだまま「きゃ」、と小さく笑った。
我は困ったように視線を逸らしながら、馬車の揺れに身を任せる。細部まで追求した豪奢な内装、香木のほのかな香りに絹張りの座席。爵位を持たない平民の我が公爵家次期当主夫妻の馬車に同乗するという状況は、未だ現実味に欠けていた。
「(なぜ、こうなったのか)」
事の経緯を語るには、時の流れを少し戻す必要がある。
「お引き受けいたしましょう」
場面は半刻程前、決断を下しサンチェンスの申し出を受け入れた時の話。
我の返答を聞いたサンチェンスの表情に、張り詰めていた糸が切れたような深い安堵が広がった。
「感謝するアキト殿。これで道中の不安が一つ減った」
彼はすぐさま老騎士に視線を送り、短く顎を引く。
「負傷者の手当ては完了しているな」
「はっ。応急処置、ならびに薬の投与は済んでおります。移動に支障は御座いません」
「よし、では出立だ。一刻も早く近場の宿場町を目指す」
号令一つで、場は一気に動き出す。負傷者たちは互いに支え合い、応急修理を終えた馬車へと乗り込む。
倒れ伏していた賊の生き残りは縄で捕縛され。特に指揮を執っていたと思しき男、魔物呼びの笛を所持していた賊の頭目は手足を縄で縛り上げ、猿轡を噛まされたまま無造作に荷馬車へ放り込まれた。老騎士が一言「動けぬように拘束は万全に」と部下に命じるのが聞こえた。
程なくして隊列は整えられ、騎士たちが馬車の前後を固める。草原に残されたのは荒らされた地面と、戦いの名残のみ。
我は護衛の後方を徒歩で付いていく所存だ。高位貴族を守護する家臣となれば皆が騎士爵の人間。故に無位無官の我が自発的に最後尾を歩き、不測の事態が起これば即座に対応する。それが最も自然で、また礼を失さぬ振る舞いだと判断した。
隊列が動き出そうとする時、我はサンチェンスが搭乗した馬車へ一礼して後ずさり、最後尾へと位置を取ろうとした。
「アキト殿は誠に馬を借りなくて良いのか?」
馬車の窓から顔を出したサンチェンスが問いかけてくる。
「お気遣いありがとうございます。某は徒歩で従いますゆえ、どうかお先にお進みください」
彼のご厚意に我は首を横に振り、馬車から距離を置く。
その瞬間だった。
シェヘラザードの腕に抱かれたフランソワが突然、その小さな体を反らせた。彼女はぼんやりと空に浮かぶ雲を眺めていたが、我の姿が後退するのを見るや、目をまん丸く見開いた。
「ぅ…あぅ」
一瞬の沈黙。
そして、彼女の口が緩み、震えるような息が漏れるかと思いきや…。
「うぇあああああんっ!!!」
甲高い、張り裂けるような泣き声が馬車内から響き渡る。隊列が一斉に止まり、騎士が戸惑いの表情で振り返る。
「まあ、まあフランソワ、どうしたの?お腹が空いたの?それともオムツ…?」
急な展開に驚いたシェヘラザードはすぐさまその小さな身体を抱き上げ、胸に引き寄せながら、優しく揺らしあやし始めるが全く効かない。むしろ勢いを増すばかり。フランソワは真っ赤な顔で涙を滝のように流し、必死に馬車の窓の外――我が立っている方向へと伸び続けている。
「もしや、アキト殿が離れたから泣き始めたのか…っ!」
侍女も慌てて哺乳瓶を差し出したり、赤子用の鈴を鳴らしたりするが、フランソワの泣き声はますます激しくなるばかり。我はその場に立ち尽くして漏れなく困惑中だった。確かに赤子は我の仙気に反応していたが、ここまでとは。
「……アキト殿」
サンチェンスが、絞り出すような声音で我を呼ぶ。その顔は焦りと嫉妬、そして状況を理解した諦めが入り混じった表情をしている。
「アキト殿。馬車に乗ってくれ」
「…かしこまりました」
「悪いが、娘がこれほど泣くのを父として見過ごせん。それに、道中の護衛としても近くにいてもらった方が都合が良い」
断る余地は元より存在しない。騎士の視線が集まる中、我は深く一礼し、馬車の扉を開けて中へと乗り込んだ。
「…泣き止みましたわ」
「…本当だな」
車内に我の姿が見えた瞬間、フランソワの泣き声がぴたりと止んだ。しゃくりあげながらも、涙でぬれた長い睫毛をぱちぱちさせて私を見つめた。そして、ほっぺたに涙の筋を光らせたまま――。
「あーう!」
小さな両手を精一杯伸ばしてきた。
一瞬ためらったが、純粋な呼び掛けであるのは気を読まなくとも明白。ゆっくりと、慎重に、人差し指を差し出す。
フランソワは迷わずそれを掴む。きゅっと、力強く。
「キャッ♪」
そして、にこりと笑った。
馬車内に複雑な空気が流れた。サンチェンスは深く息を吐き、目を閉じる。シェヘラザードはほっとすると同時に、何とも言えない表情で夫と我を交互に見つめた。侍女は気まずそうに座席の端で俯いている。
「完全に懐いているな」
サンチェンスが小さく苦笑する。
「これはもう、道中ずっと一緒ということになりそうだ」
こうして我は、本来なら決して踏み入れるはずのない、公爵家次期当主夫妻とその娘が乗る馬車へ予期せぬ形で迎え入れられることとなった。
馬車が再び動き出した。窓の外を、草原の風景がゆっくりと流れていく。
今はただ、小さな手から伝わる温もりを確かに感じながら…我は静かに目を閉じた。




