第3話 仙人、いざ下界へ
仙術は実に奥が深く、百年の絶え間ない修行でも得たものは氷山の一角に過ぎない。世界樹が常々告げていた言葉。
呼吸を操り温度を制御する『調息術』
万物から生み出される気を物体に具現化させる『凝具術』
身体を仙気そのものに変えて肉体を霧状に変化させる『透化功』
あらゆる距離を一瞬でゼロに縮める『縮地法』
最後に、重力すら意のままに軽減し、身を風より軽く早く運ぶ『軽身功』
『アキトよ、お主はすでに仙人を名乗るに足る器となった。百の年月でここまで出来れば上出来じゃ。最早ここに留まる理由はあるまい。そろそろ下界へ降りる時が来た』
銀色の葉をゆらしながら、世界樹は静かに告げた。百年この月面で修行に明け暮れ、過去の記憶が霞んでいった今、ここは我が故郷同然だった。
「下界に…本当によろしいのですか?」
視線の先、漆黒の虚空に蒼く浮かぶ球体――惑星エルセリオ。百年間、荒涼とした白銀の大地に立ち尽くす我が眼に映り続けた、天空に吊り下げられた宝玉。手を伸ばせば掴めそうなほど近いのに、決して届かぬもの…。
『行け、アキト。月がお主を育み、鍛えた。だが汝の仙術は汝のためだけに非ず。人の世で暮らし、知見を広める良い機会だろう』
「…分かっています。ここで学んだ理を誠に理解するには人々と出会い、己の眼で確かめる。仙の道を進む者として」
『うむ、励むがよい。これは餞別だ』
世界樹の幹が柔らかく光り、一枚の銀葉がひらりと我の手のひらに落ちた。籠められた気は心地よく、まるで胸奥を温めるようだった。
『護符の葉じゃ。危急の際、口に含めばお主を守ってくれる』
「ありがとうございます…では、行って参ります」
世界樹ユグ=セレフィアに感謝とお別れの言葉を伝え、両の掌を胸の前に合わせて丹田へと意識を沈めた。深く息を吸い、軽身功の構えを取る。百年かけて磨いた仙気が体内を巡り、一息ごとに内なる重力が削がれていく。骨が羽根となり、血潮が風へ変わり、身体が徐々に軽くなっていく。
――軽身功。
足を踏み出した瞬間、足場は消え失せ、月の白銀の砂漠は眼下に遠ざかっていく。月の重力を離れ、黒き虚無へと舞い…そして蒼き大地へと向かっていく。
最後に顔を振り向けば世界樹の枝葉が、風もない空間で静かに揺れていた。まるで、我を祝福するように。
大気圏に突入する間際、身体が熱を持ち始める。だが修行でマスターした調息術が自動的に発動、周囲の熱エネルギーを変換していく。
「……ッ!」
風が吹き抜け、速度が増す。渦巻く雲を突き破り、青空へと落下していく。初めて裸眼で見るエルセリオの大地は、月から眺めていた以上に鮮やかで、生き生きとしていた。
地上へ近づく、地面に衝突する瞬間、最後の減速。軽身功を極限まで駆使し、ゆっくりと地上へ降り立つ。足が草地に触れた瞬間、百年ぶりに感じる土の感触に、思わず膝が震えた。同時に鼻をついた懐かしい匂い。湿った土の香り、樹木の青い香気、そして大気に混じる無数の命の息吹。
「これが…地上」
無意識に言葉が零れた。声は風に攫われ、空へ散ってゆく。耳を澄ませば、遠くで小川のせせらぎが聞こえ、ツンツンと鳴く鳥が視線を通り過ぎる。
丘の上から眺める景色は感傷深い。緑豊かな草原がどこまでも続き、遠くには森林が広がっている。陽の光が木々の間から差し込み、地面に揺らめく影を描く。その一つ一つが、百年間見てきた月の風景とは比べ物にならないほど鮮やかだった。
丁度足元の草花に手を添える。指先でそっと撫でると、花弁が僅かに踊る。月の砂とは根本的に違う、柔らかく生きている感触。
「暖かい…」
日航が肌に優しく抱擁する。調息術で熱を感じない筈なのに、大気に濾過された温もりが染み込んでくる。
「さて、どこから行こうか」
行く当てのない放浪の旅、ならば天に問おう。
掌に掴んだ雑草をふわりと放つと、風に翻弄される細い葉片は空を舞い、やがて東の方角へ流れていった。
「東か…」
草が風に流されていく方角、広い谷を隔てて向うに見える小高い丘が連なり、地平線の向こうは未知の世界が広がっている。
迷いは無かった。軽身功を微かに発動させ、ただ流れる風のままに走り出す。
最初の一月は草原をひたすら東へ。野兎のように駆け、鶴のように舞い、時には透化功で霧と化して風に乗った。
朝露に濡れる牧草地で羊飼いの少年と出会い、百年ぶりに食べた人の食事に、スプーンを持つ手が震えた。
巨木が生い茂る森林地帯に入った我を呼ぶ声に導かれて森の奥へ向かえば、廃れた祠を守る精霊と一戦交えたこともある。
大河を渡ろうと乗った船では、運悪く武装集団と遭遇したが縮地法で全員を気絶させ、他の乗客に感謝された。
対岸の交易都市では珍しい仙術を披露して旅の資金を得るなど、歩むごとに世界は広がり、人々の営みが胸に刻まれていった。
――そうして一年。紆余曲折を経た我の旅路は、大陸最東端に浮かぶ孤島にて終わりを迎えた。
切り立った断崖に立ち、潮騒を聴く。眼下では蒼き大海がどこまでも広がり、波が岩を穿つたびに白い飛沫が宙へ舞う。水平線の彼方には陸の影ひとつ無い。
「ここまで…来たか」
森を渡り、荒野を越え、河を飛び越え、幾多の人と出会い、語らい、縁を結んだ。それらは潮風と共に胸を駆け巡る…月では得られなかった、濃く熱い記憶。
「旅とは……いいものだ。だが、まだ終わりではない」
仙術を極める道と同じく、旅に終わりなど無い。海が果てしないように、世もまた無限に続く。
我は断崖から振り返り、来た道へと歩を戻す。一年で学んだ知識を胸に刻み、とある場所へ進む。
――そう、最初に降り立った地へ。




