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月の仙人、異世界に降り立つ  作者: 名無しの戦士


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第2話 修行日課


 生身で月面に立ってから、すでに50年の年月が流れていた。


 厳格で神秘的な世界樹が背後に佇む中、白銀色の砂漠で瞑想していた()は静かに目を開ける。砂は相変わらずさらさらと足元で音を立て、銀色の光を反射する。かつてのスニーカーはとっくに月の砂に還り、今は光で織りなした修行衣がわずかな大気を纏っている。鎖骨の下の痣は今、美しい月の紋様へと変わり、呼吸するたびに淡く輝く。


 五十年…地球の感覚でいえば半世紀。普通の人間ならとっくに老人になっていておかしくない歳月。しかし自分の肉体は、飲まず食わずの二十歳手前の姿で止まったまま。外見上の変化は無いが、瞳の奥には計り知れない経験の重みが積もっている。


 朝の始まりはいつも同じ。正確な時間は分からないが、目覚まし時計代わりに世界樹の枝先から零れる光の欠片が『おはよう』の合図。銀色の葉がひときわ強く輝くと、目を覚ます。


 日課の修行を始める前にまずは呼吸。月面に正座し、両手を空に掲げて深く呼吸を整える。吸い込む空気は存在しないはずなのに、不思議と、胸いっぱいに透明な力が満ちていく。世界樹が教えてくれた気の循環を一刻ほど続けて昨日までの疲労や老いを溶かす。


 次に体術。砂に足跡を刻みながら、跳ね、無重力に近い環境を利用して蹴りを繰り返す。砂埃がゆっくり宙に舞い上がり、また遅れて落ちてくる。修行を開始した当初は地球での運動感覚を完全に捨て去るのに苦労したが、今では踏みしめた砂の微細な抵抗を感じ取り、まるで生き物のように我の動きに合わせて流れる。一見優雅に見える動きの一つ一つが、極限の集中力を要求する。


 足元に五十年分の足跡が淡く線を描く。砂はすぐに風もなく均され、過去の痕跡は光の粒とともに消えていった。月面の静けさの中、己の呼吸と心拍だけを頼りに、飛躍した。


「せいっ!」


 鋭く息を吐き、回転蹴りを決める。踵から放出した気の塊が、遠くの岩石を粉砕する。五十年前なら考えられないほどの精度。あちこちに形成されたクレーターも昔に比べて数倍増えていた。


『良し。次は気功』


 世界樹の声が意識の奥で響く。


 半跏趺坐の姿勢で月面に座り直し、双手を組む。意識を丹田に集中させ、体内を巡る太陰の気を循環する。意識を研ぎ澄ませると、月面の砂や微細な光の粒子ひとつひとつが、まるで呼吸する如く我と同調しているのが分かる。

 かつては数時間以上費やしていた気の循環が、今では五秒で完了する。


 月の砂漠には昼も夜もなく、時間の感覚が曖昧だ。地球の暦やニュースの情報を頼りに暮らしてきたあの生活は、今では遠く淡い寓話のように思える。



 兎にも角にも、月面に降り注ぐ太陽光は容赦がない。黒い虚空に白く灼けつく円盤が浮かび、その光を真正面から浴びるたびに、全身が焼かれるように熱を帯びる。世界樹の庇護がなければ、剥き出しの光は数秒で皮膚を焼き、太陽が隠れた瞬間には-150℃まで低下した極寒で凍死していただろう。


 今では世界樹の加護下でしか生きられなかった状態から脱し、体内を巡る気を練り上げ、熱を吸収し、冷気を押し流す。仙術による温度制御は、呼吸のように当たり前の所作になっていた。


 気の循環が終われば、次は剣術の修行。


 右手を静かに掲げると、眼前の月砂が渦を巻き、無数の光の粒子が舞い上がって一本の剣を形作る。柄を握った瞬間、周囲の気流が一斉に震えた。

 

 構えはただ一つ。足を肩幅に開き、静かに剣を胸元に掲げる。その動作だけで、全身が月と同調し、静けさが濃くなる。


『まずは基本の型から。始めよ』


 世界樹の指示に従い、剣を振るう。初心者の頃はぎこちなかった動作も、今では流れるような円運動となる。振り下ろすたびに銀白の残光が軌跡を描き、空間に細い光の線が走る。


 ――斬ッ。


 柄を握った剣を振るうと、数百メートル離れた岩石が音もなく二つに割れた。切断面は滑らかに、刀で断ち切ったかのように整っている。月の薄闇に、細い破片が銀色の雨のように散っていく。


 剣を静かに下ろす。月砂で形成された光の剣が、砂粒へと還り、さらさらと足元に積もっていく。先の斬撃で刻まれた一線の溝が白銀の砂漠に飲み込まれるようにして輪郭が溶け、月面の不変さへと戻っていった。軽く息を吐く。


 『よくできた。そろそろ下界を見よ』


 世界樹の声に促され、我は巨樹の根元へと歩み寄る。幹は何億年もそこに在ったかのような荘厳さを保ち、温かく微かに脈打っている。


 その根元に腰を下ろすと、月砂が柔らかな座布団のように沈み込み、背にあたる幹からは微かな鼓動が伝わってくる。まるで月そのものが呼吸しているようだ。


 静かに目を閉じる。瞬間、意識が幹へ溶け込み、幹から枝へ、枝から葉へと一気に駆け上がる。世界樹全体がひとつの神経網となり、我の意識を宇宙の彼方へと導く。


 視界が反転する。眼前の月面が霞み、代わりに無数の光景が流れ込んでくる。エルセリオの全景が、さながら巨大な水晶球のように脳裏に映し出される。


 気付けば我の眼下には蒼き空と地平線まで伸びた大地が広がっていた。白い雲が渦を巻き、大陸の輪郭が光の縁取りのように浮かび上がる。意識を地上に近づくと、大陸ごとに生活の営みが一斉に押し寄せる。


 東方の草原地帯では、大平原にゲルが点在する遊牧民族。馬に跨った若者たちが弓の訓練に励んでいる。その一人の少年が空を見上げ、祈る。


 南部の港町では、漁船が夕陽を受けて帰港する。市場では鮮魚の競りが行われ、威勢のいい掛け声が飛び交う。老婆が今日の収入で孫にお菓子を買ってやり、子供の笑顔がはじける。


 西部の山岳地帯では、険しい山道を修行僧らしき一団が淡々と進む。先頭を歩く老僧が突然足を止め、月を見つめる。その直感に思わず息を飲む。まるで我の気配に気付いた様子だった。


 北部の公国首都、城壁に囲まれた都では夜の宴が行われていた。内にナイフを秘めた貴族たちの笑い声、背後で渦巻く権謀術数、そして地下牢に吊るされた囚人の最後の嘆息…。

 

 数多すべての光景を、自身がその場に居合わせているかのように感じる。


 世界樹と同化することで、地上から発せられた音が気として流れ込んでくる。数えきれない人々の感情が、一本の川の如く我の内を通過していく。


 喜び、怒り、悲しみ、希望、絶望。

 国によって形は違えど、根源的な営みはどれも同じ。


 「……ふぅぅ」


 思わず同化を解除して目を開ける。あまりの情報量に少し眩暈がする。


『慣れたか?』


 世界樹がいたわるように問いかける。その声は柔らかい。


「多少は、でもまだ…負の感情が直撃しすぎます」


『無理もない。お主はまだ「観る者」であれ。正直に受け留めるのではなく、いなせ』


「はい」


 その言葉に従って深く息を吸い、再び目を閉じて世界樹と同化する。今度は意識を集中させ、感情の流入を調整する。

 エルセリオ全土の気の流れが、ひとつの脈動として浮かぶ。大陸同士の摩擦、民族の争い、国境を越えて繋がる友情。人々の喜怒哀楽が複雑に絡み合い、一本の巨大な光となり大地の心臓を駆け巡る。


 世界樹を通じて流れる波動に身を委ね、我は静かに耳を澄ませた。


 こうして月での修行の日々が経ち――。

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