第1話 ボイジャー1号
宇宙服なしでは生きられない大気圏外、見慣れたどこにでも売ってあるスニーカーの靴底が、さらさらとした月の砂に沈み込んでいる。灰色がかった細粒の砂が、重みを受けてわずかに沈み、きゅっ、と乾いた音を立てて広がる。靴の縁をなぞるように、光の粒が流れていく。
眼前に広がる白銀の月面に、生身のまま立ち尽くしている。いつからここにいたのか、なぜここに来たのか、分からないことだらけだった。
突如、僕の鼓膜を揺らす自分以外の声に驚いて、反射的に振り返った僕の目に飛び込んできた一本の大樹。
地平線の彼方から天へと突き抜けるように伸びる幹。枝は星々の隙間を縫うように広がり、先端からキラキラした光のしずくが零れていた。
風など吹いていないのに、銀色の葉がそよそよと揺れている。
あまりに壮大で、これっぽっちも現実味がなかった。まるで空そのものを支える巨塔のようだった。
非現実的な光景。口をぽかんと開けたまま固まってしまった僕の脳は、完全に処理落ちしていた。驚きのあまり変な声を出した気もするし、情けない顔になってる自覚もある。けれど、この状況では致し方ないと言い聞かせる。
『ふむ…?お主が理解できる共通語で話したつもりだが、違ったか?』
再び、声が響く。性別が判別できない声音。
間違いなく声の主は…目の前の木だった。
「木が…喋った」
耳がおかしくなったのか?夢か幻か? それとも…なんだ。誰か、教えてくれ。
僕の途切れ途切れな記憶でも、月に人語を話す大樹が実在する大ニュースなど見たことも聞いた覚えはない。
『驚くのも無理はあるまい。お主の種は、かの太陽系の記憶に囚われておるようじゃからな』
薄い大気がゆっくりと、無音で木の幹がわずかに揺れる。まるで生きているかのようなその動きに、僕は思わず一歩引いた。それよりも彼?が語った会話に気になる単語があった。
「太陽系って…。あれは地球じゃないの?」
僕は指差した先には、漆黒の宇宙に浮かぶ美しい蒼い惑星。あれは間違いなく『地球』だと思っていた。だが、大樹はゆったり枝をうねらせ否定するかのように、枝がゆっくりと揺れる。銀の葉が一枚、静かに舞い落ちた。
落ちた葉から青白い光の粒子が滲み出し、僕が指さした蒼い惑星の周囲に幾つもの軌道円が描かれていく。不変の太陽を中心に、水星、金星……、僕が習った太陽系の順番どおりに並んでいくはずの光の環。
――あれ?
微妙に、何かが違う。
「待って…木星の色が違う、土星の輪が…十字に?それに、準惑星のケレスは…」
声が震える。口の中が急速に乾き、頭がクラクラする。僕の知っている天文図と、目の前に広がる光の軌道は、明らかに異なっていた。
太陽から数えて五番目にあるはずの木星は、赤褐色の巨大なガス惑星だったはずだ。けれど、それらしい星は、むしろ深紫色に近く、表面には見たことのない幾何学模様が脈打っていた。
いや…それだけじゃない。
軌道を描く環の数が多い。惑星の数が違う?中には見たことのない星形、紫がかった楕円の軌道を持つ、発光する衛星群を連ねた不思議な星まである。こんなの、知らない!見たことない。あり得ない…っ!
『お主の記憶にある太陽系は、この天の川銀河には存在せぬ』
「何だよ…それ、ドッキリでも大袈裟すぎるだろ――ッ」
荒唐無稽な真実が尖った針となって僕の心臓を貫く。脳の奥が揺れて、不意に膝ががくんと折れそうになる。
理解不明は状況に陥っても、ずっと「ここは地球が見える月だ」と決めつけていた前提が根底から崩れていく。助けを求める僕を救助する宇宙局は存在しない…のか?
なら、この月は?僕が踏みしめているこの砂は?あの地球に酷似した蒼い星は、一体?
『あれは地球に似て非なる星、独自の自然法則が働く惑星。名を「エルセリオ」という。お主が知る星の模倣でありながら、全く異なる理で成る世界じゃ』
「…異世界」
僕は無意識に正解を口に零した。記憶に残るライトノベルで読んだ覚えがある。
あれは地球じゃなく、異世界に迷い込んだ…?でも、ここは月で…。
『そうじゃ。ここはエルセリオの夜を照らす月。正しくは、宇宙誕生時より存在する我が創造主、月神ルーナティアが初めて権能を行使し創りたもうた月。――銀河において最も古く、特別な神域の月面』
そう語った世界樹の声が、どこか神殿の奥底から響く鐘のように、僕の胸の内にじんわりと染み込んでいく。
『我は、女神ルーナティアよりこの月と知的生命体が住まう世界の管理を任された世界樹ユグ=セレフィト。敬愛なる女神の代理としてここに根付き、エルセリオの理と地上に生きる者たちの歩みを、絶え間なく見つめておる』
壮大で容量を超えた話に、思考する力が抜けていく。
これ以上なにを考えればいいのか分からない。地球じゃない星。見たことのない太陽系。最後に…。
「神様の……月?」
突然、身体が揺れたかと思うと、僕はよろめきその場に膝をついた。月面の砂がふわりと舞い上がり、スニーカーごと僕の脚を呑み込むように沈む。
ああ…もう、立っていられない。
生きてるのかも、夢の中なのかも分からない。でも、これだけは確かだった。
「…帰りたい」
ぽつりと呟いたその言葉は、自分のものとは思えないほど弱々しく空気に溶けた。記憶の霧の向こうに、家族の顔がぼんやりと浮かぶ。クラスメイトの声、部屋の窓から差し込む夕日の眩しさ。くだらない日常が宝石のように思えた。
「元の世界に、戻してくれ…ッ!お願いだ!」
必死に懇願するように、白銀の砂浜に顔を深くこすりつけたまま許しを乞う。…返ってきたのは、沈黙。ではなく、よりひどく静かで、よりひどく残酷な事実だった。
『それは叶わぬ』
「え……?」
『お主は既に、この月の理に触れた。今さら地球の系に戻ることは叶わぬ一員となったのじゃ』
意味が…分からない。そして、続けて語られた言葉が、心の最後の一点まで容赦なく突き刺した。
『お主は月の砂を口にしたであろう』
「っえ…?」
そう言えばさっき、夢か現実か確かめようと砂を口にした。本物の味覚を感じてすぐ、ぺっと吐き出したあの感触。でも当然ながら全て吐き出すことは出来ず、僅かに飲み込んでしまった月の砂…。
『それこそが、黄泉戸喫が成立した証。他界の糧を体内に取り込んだ瞬間より、お主はこの世界の存在となった』
よもつへぐい…?初めて聞いた言葉だ…。よもつげぐい、ヨモツゲグイ…黄泉戸喫?
『うむ、お主は異界の糧を口にした。即ちその世界の者となる、古より続く理。存在は世界に適応され、過去いた場所には戻れなくなる』
「そっ、そんな、そんな!馬鹿な…ッ!」
震える手で口元を押さえる。思い出すのはあのざらりとした砂の味。僕の声は割れ、目の奥が熱くなる。混乱、恐怖、怒り、絶望。感情という感情が混線し、思考をめちゃくちゃに引き裂いていく。
月の砂を、ひとくち口にしただけで、元の世界に戻れない?
「知らない、知らなかった!たったそれだけで、僕の人生終わりなのかよ…!」
嗚咽にも似た吐息が喉から洩れる。
月の世界樹は、そんな僕の姿に、ただ静かに枝葉を揺らすだけだった。冷たくはない。けれど、優しくもない。ただ、森羅の理を語る女神の名代存在として、眼前に在るというだけ。
内心どこかで期待していた…何の因果か気付けば生身のまま月に放り込まれ、八方塞がり状態の僕をEARTH宇宙局に勤務する職員が見つけてくれるじゃないかと。実際は星間空間を航行するゴールデンレコードが搭載されたボイジャー1号より遥か彼方の銀河に──僕が、いる。
地球人が誰一人として知らない、神の手によって創られた異世界の月。その砂を、無知で馬鹿な僕は口にした。
軽率な行動で僕はもう、戻れない。鼻が詰まるような感覚、喉の奥の乾き、胸の奥で燻る焦げた煙のような感情が渦のように体内で巻き起こる。
「……」
月の砂漠に、重い沈黙が流れる。世界樹ユグ=セレフィトの白銀色の葉が、ゆっくりと揺れながら光の粒子を撒き散らす。一つ一つが、僕の頬を伝う涙のように見えた。
『嘆くにはまだ早い』
世界樹の声が、月面を震わせる。その声に顔を覆っていた両手を退けて、目の前の巨木を見上げた。
『お主には二つの道が残されておる』
鎖骨の下が熱く疼く。触れると、皮膚の下で何かが脈打っている。
『一つはこのまま月面で朽ち果てる道。もう一つは…』
他の選択肢が残されているのか…?生身で月に立つ僕に。救助を望めない以上、いっそ今世を終わらす方が――でも、死にたくない。魂に刻まれた生存本能が「ここで、終わるな」と告げる。
『もう一つは仙へと至る道じゃ』
大樹の根元から、水晶のように透き通った器が浮かび上がる。中には銀色の液体がゆらめいている。
「仙人…?」
反芻するように呟いた僕の声は、想像よりもかすれていて、喉が焼けるように熱かった。スニーカーから伝わる月の砂の冷たさと対照的に、鎖骨の奥が脈打ち続けている。そこに何かが植えられたかのような、熱源のような感覚。
『この月にはお主の知る水も食物もない。だが仙人となれば、月の気を糧に生き永らえることができよう』
仙人——その響きは、神話や大陸の伝説から響いてくるよう。まるで漫画やアニメの世界の話。けれど今は、その言葉が現実の宇宙空間で、僕の命を繋ぐ唯一の選択肢として突きつけられている。
『仙人とは、源流の母なる月の理を受け入れ、肉体を超え、精神を研ぎ澄ませた者のこと。食を絶ち、水を要せず呼吸すら捨て、生の本質のみを以て存在する。理の頂に立つ者じゃ』
器の中の液体が、突然渦を巻き始める。その中心に、僕の顔が歪んで映る。自分の顔ながら実に情けない表情を浮かべている。…ははっ、本当に今にも消えそうだ。
『今のままでは三日も経たず月の砂に飲まれ、魂は輪廻に呑まれよう。己を保ち、生き抜くには、高みに昇るしか道はない』
「それが仙人になるってこと?」
頷くように、世界樹ユグ=セレフィトの幹が微かに軋んだ音を立てた。
『仙へ至る道は、試練の連続じゃ。お主の精神は削られ、肉体は限界を迎えるであろう。それでも、命の火を灯し続けられる者だけが、その先へと辿り着く』
僕は立ち上がった、足がまだ震える。体力も気力も、精神力すらほとんど残っていない。でも、不思議と両足で立ち上がれた。
それは恐らく絶望の中にあってなお、何かを掴もうとする人間の本能だった。
「それしか道が残されていないなら…」
言葉に詰まり、唇を噛む。あのまま地球に帰れたなら、欠けた記憶に残留した温もりの布団、味噌汁の匂いに包まれて、普通の高校生として生きていたかもしれない。でも、今はその可能性さえ閉ざされている。
僕は異世界に呑まれた。ならば、異世界の理で生きるしかない!
「教えてくれ!どうすれば僕は仙人になれる⁉」
その瞬間、世界樹が一際強く、枝を揺らした。銀の葉が一斉に舞い上がり、まるで光の吹雪が僕を包み込んだ。重力の概念が歪むような奇妙な浮遊感。意識が遠のくかと思えば、逆に研ぎ澄まされていく。
『修行は苛烈を極める。まずはこの月砂から太陰の気を抽出し、己の肉体を変えねばならぬ』
水晶の器が浮かび上がり、その縁に古代文字のような紋様が浮かび上がる。
「どうやって?」
『お主の記憶を手がかりにせよ』
ふと、中学の理科実験を思い出す。まるで抜けてたパズルピースがピッタリ嵌った感覚。ろ過紙と漏斗を使って、不純物の混じった液体を透明な水へと変えていった授業。
無意識に僕は足元の砂に手を伸ばした。さらさらとした月の砂。さっき絶望の引き金となったこの灰色の粒子が、今は生きる希望の材料になるかもしれない。なんとも皮肉だ。
すくい取る。液体で満たされた器に落とす。音はしない。真空に近いこの空間で、ただ重力に従って滑り落ちるだけ。
器の底で月の砂が微かに光った。
銀の砂粒が器の中でわずかに液状化するような、不思議な動き。光の粒が砂の表層から剥がれ、沈殿していく。
「これが太陰の気?」
二つの液体が結合した器の底に浮かぶ一滴の光。まるで、夜の静寂を濃縮したかのように濃く、そして神秘的な輝きを放っていた。
『飲むがよい。これが最初の試練じゃ』
「ああ…」
しかし唇を寄せる直前、ふと素朴な疑問が頭に浮かんだ。
「これを飲んだら、さらに僕と言う存在が縛られるのでは?」
僕の質問に世界樹の葉が一斉に震え、星明かりを乱反射させる。
『賢い質問じゃ、だが心配はいらぬ。黄泉戸喫は砂を口にした時点で既に成立しておる。逆に気を飲まねば、月の理に適応できず三日で肉体の崩壊が始まる』
「…そうか」
少し落胆した声を零し僕は器を見つめる。光の雫が微かに脈動している。瞳が吸い込まれそうだ、僕の奥底で何かが、この力を求めている。
恐怖はある。問答無用で月に連れてきた存在に文句の一つや二つ言いたいこともある。それでも僕は生きたいんだ!
「やる、やってやる!戻れないなら、生きるために、進むしかないだろ‼」
器の中の光を、口元に運んだ。滴り落ちるその一滴が、唇に触れ、喉を通る。
その瞬間、説明しがたい世界が開いた。
「ぐあああっ…!」
胸の中心に激しい衝撃。全身の骨がきしみ、皮膚が光を放つ。鎖骨の下、刻まれた熱源が燃え上がり、眼球の奥で火花が散る。
視界が反転した。上下が崩れる。足元の砂が渦を巻き、僕の身体を中心にして月面がめくれていくような錯覚。音がなく、なのに万雷のような衝撃が五感を叩きつける。
――これは、肉体の崩壊と再構成。
否。
僕の体は溶かされ、異世界の理に沿って再編していく。
視界が変わる。月面が巨大な魔方陣に見え、自分がその中心で錬成されているように感じた。
浮かび上がる動脈、白銀色の液体が胸部、背中、そして額にまで走る。月の力が血流に混じり、神経に染み込み、脳を染めていく。
熱い、熱いアツい。クルシイ、息が苦しい。無限に思える痛みを凌駕した燃えるような再構築の苦しみ。
耐える。耐える、僕は耐える――ッ!
「うぅ…あああああああッ!!」
月面生活一日目。この日は、僕の叫びが、月面を震わせた。




