第16話
王都から馬車を走らせて半日。街道の埃にまみれた旅人や冒険者を迎える、最初の中継地点が見えてきた。街道沿いの要衝として名高い宿場町は王都に近接しながらも人口は数千人と少ない。しかし王都と南部を繋ぐ道は人と荷物の出入りが多く、その立地条件も相まってかなり裕福な町だった。
町へ入れば、軒を連ねる商店からは芳醇な香辛料や革製品の匂いが漂ってくる。移動中はお眠だったフランソワも外の騒がしい雑音に目を覚まし、キャッキャと楽しそうに人々の活気に溢れた町中を眺めていた。
護衛の人数も増え、物資が心もとない理由で今日はこの町で一泊する予定だ。馬車が停止した目先に広がる建物は町でも随一と謡われる高級宿。
正面には意匠を凝らした真鍮製の重厚な大門が裕福層を歓迎する。
「これは…」
「驚いたかいアキト。ここの宿は私が王都帰りの際、必ず立ち寄るんだ。君の就職祝いに支払いはすべて当家に任せてもらおう」
「まぁ、サンチェンス様ったら。そんな格好いいことを仰って、いつだって護衛の皆様の分まで気前よくお支払いになっているじゃありませんか」
一歩足を踏み入れたらまるで別世界な内装に胸を打たれた我の背後から、サンチェンス夫妻の揶揄う会話が耳を伝わる。
「ええ…言葉を失うとはこのことですな」
そんな空返事を零しながら我は周辺を眺める。中央は三階まで届く大きな吹き抜けがあり、天井から吊るされた巨大なクリスタル・シャンデリアが千の光の粒子を撒き散らし、ロビーを昼間のような輝きで満たしている。
足元には深紅の絨毯が厚く敷き詰められ、足音を優しく吸収する。壁面には磨き抜かれた黒檀のパネルで覆われ、そこに埋め込まれた魔道具による淡い蓄光を放つ魔法のランプが柔らかな光を投げかけていた。
「「「ようこそいらっしゃいませ、ヴァニシア公爵子夫妻様」」」
襟元に控えめな刺繍が施された気品ある濃紺のフロックコートを身に纏う宿の支配人らしき人物を筆頭に、寸分違わぬ角度で深く頭を下げた従業員たちが一糸乱れぬ唱和で我らを出迎えた。
「ああ、今宵はお世話になるよ。何時も部屋は空いているかい?」
弱冠二十一歳。若き貴公子の放つ磁石のように人を惹きつける天性の輝きと柔和な笑みは、遠巻きに視線を送っていた令嬢たちが揃って花が綻ぶように頬を染め、溜息を漏らすのも無理はなかった。
「勿論です。アポレオン・スイートルームのご用意は出来ております。さあ、皆様、こちらへ…」
「アキトも後をついてきて。私が泊まる部屋が分からないと護衛に支障をきたすだろう?」
顔だけ振り向いたサンチェンスはそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
支配人の恭しい先導により我らは大理石の階段を上がり、二階の最奥へと導かれた。サンチェンス夫妻と赤子のフランソワ、乳母のマティルダが泊まるアポレオン・スイートルームは防犯面を考慮した行き止まりの区画にあり、重厚なマホガニーの扉が外敵を拒むように聳え立つ。
「爺、後は頼んだ。アキトは爺の指示に従ってくれ、極力宿から出ないでくれると助かる」
「っは!この爺にお任せあれ。来いアキト、儂らは階下で部屋決めだ」
「承知いたしました」
我は短く応じ、上がったばかりの階段を降りる老騎士の背を追った。
模擬戦で実力を見せた我に割り振られた部屋は、サンチェンスたちが泊まるスイートルームの真下にあたる一階の角部屋であった。万が一の事態にすぐさま対応できる絶妙な箇所。
「アキト、ここがお主の持ち場だ。螺旋階段にも近く、外からの侵入にも即座に反応できる。…何かあれば、容赦はするな。坊ちゃまに指一つ触れる前に羽虫は一匹残らず斬れ」
「心得ております。公爵家より受けた恩義、この命がある限り、何一つ通しいたしません」
「その心意気、天晴れ。期待しているぞ」
我の返答に老騎士は満足げに首を縦に振ると、自らの持ち場へ消えていった。
割り振られた部屋は、標準ランクとはいえ高級宿の名に恥じぬ広さと調度品を誇っていた。用意されたベッドはフカフカで上質、しかし仙人である我には過ぎたるもの。
草履を脱ぎ、シーツの上で結跏趺坐を組む。意識を外へと広げ、離れた距離から宿の周囲を漂う気配を仙気で一挙一動監視しつつ時を待つ。
夜の帳が下り、町を彩っていた喧騒が潮が引くように遠のく。坐禅による精神統一で人の気配を長く、糸を紡ぐように深夜の街路へと広げていく。探知した全ての気を脳裏の地図に配置して静止画のようにマークする。これであらゆる奇襲を防げる。
――その時だった。静寂を裂いて微かな、硬質な金属音が我の鼓膜を震わせた。
『ガシャン――!』
それは、夜風の悪戯でも野良猫がレンガ屋根を跳ねる音でもない。 数百歩ほど離れた対面の建物の屋上。大型クロスボウの強靭な弦が、引き金から解き放たれた瞬間の硬質な響きだ。
「(来たか)」
音が空気を伝わるよりも速く、肉体が駆動していた。狙いは我の真上。サンチェンスたちが眠るアポレオン・スイートルームの窓。
我はベッドから跳ね起きるのと同時に、派手な音を立てる為わざと窓ガラスを蹴破り、夜の闇へと躍り出た。
重力を無視した垂直飛び。空中で身体を翻した刹那、月明かりを冷たく反射して黒く光る鉄の矢が、猛烈な速度で眼前に迫っていた。
我は右手を迷いなく突き出す。仙気を纏わせた掌が、音を置き去りにして迫る槍に匹敵する礫を半ばで鷲掴みにした。
『ギ、ギィィイッ!』
凄まじい運動エネルギーが掌の中で悲鳴を上げるが、我の腕を揺らすことすら叶わない。そのままフワリと落ち葉のように地面に着地した我は手中の矢をまじまじと見つめた。
ただの鉄矢ではない。鏃の部分が異様に肥大化しており、隙間から火薬特有の鼻を突く臭いと、魔力の名残が漏れ出ている。着弾の衝撃をトリガーとして起爆する魔導爆弾の矢。…もし、我が矢を空中で掴んでいなければ階上の部屋は今頃、爆風と炎の渦に包まれていただろう。
「(向こうも手段を選ばなくなったか)」
我は翡翠色の仙気を巡らせ、矢の先端を薄い膜のように包み込んだ。仙気内の空気に含まれる水分を強引に呼び寄せ、鏃の内部へと浸透させていく。瞬時に発生して濃密な湿り気が火薬の芯まで徹底的に浸し、爆発機能を無力化した。
「夜の訪問者にしては、少々物騒すぎるのではないか?」
ただの濡れた鉄屑と化した矢を無造作に放り捨てた我の言葉に応じるように、周囲の闇が揺れた。宿を囲む民家の陰、街灯の届かぬ路地裏。そこから、音もなく黒ずくめの集団が姿を現す。その数、十余り。
奴らが放つ気配は、過去に対峙してきた賊とは一線を画している。生身の人間が持つ感情を捨て、命じられた目的を遂行するためだけに研ぎ澄まされた、鋼の歯車のごとき無機質な集団。
「(公爵家を狙うプロの暗殺者。ようやく、尻尾を出したか)」
我は腰の剣に手を掛けて、圧倒的な威圧感を持ってその場に立ち塞がった。




