第9話 ヴァニシア公爵家の歴史
「むにゃ…」
我の指を掴んだり離したり。あんなはち切れんばかりにキャッキャ笑っていたフランソワも、馬車の揺れには勝てなんだ。車輪が大地を踏みしめる度に伝わる微かな震動がいつしか子守歌の代わりとなって彼女はこくり、こくりと首を揺らし…やがて完全に力が抜けた。
キラキラと躍っていた瞳の輝きは閉じられ、今は侍女の膝元に備えられた揺り籠の中でゼンマイの切れた人形のように眠るフランソワの胸が規則正しく上下している。
小さな口が微かに動き、意味を成さぬ寝言が零れる。父サンチェンスは深い安らぎに包まれて穏やかな寝息を立てる様子をじっと見つめていた。やがて、彼は深く静かに息を吐くと、娘の寝顔を起こさぬよう、言葉を潜めるように呟いた。
「ようやく…眠ったな」
「はい、あなた。あんなに駄々をこねてはしゃいでいましたもの。ぐっすり眠りにつくのは当然ですわ」
シェヘラザードの応える声も、絹をすり合わせるような優しいささやきだった。
二人の会話を耳の隅に捉えながら、我は薄く伸ばした仙気を飛ばして周囲の気配探知を継続する。護衛依頼を受けた以上、次の敵襲に備えて警戒を解くわけにはいかない。
「襲撃の最中、この子の未来さえもが暗転するかと胸が凍る思いだった」
サンチェンスの声が再び低く響く。彼の視線はまだフランソワから離れずとも、その言葉は確かに我に向けられている。
「だが、こうして無事に眠る天使の顔を見ていると……襲い来た不安が、まるで夜明け前の霧のように消えていく。改めて礼を言わせてくれ、アキト殿」
「礼には及びませぬ。某はただ、人としてなすべきことをしたまで」
我も声を落とし短く応える。偽らざる本心だ。百年の時を月面で過ごした我にとって、穢れを纏わない赤子の存在は、この世界の何よりも生気に満ち尊いものに感じる。
「私とそう歳は変らないのに無欲だな。見栄を張っても、誰も文句を言わぬほどの手際であったというのに」
そして彼は言葉を選ぶように、間を置くとやがて話始めた。
「恩人に隠し事は無しだ。我々が、少数の護衛で王都へ赴く理由…そして、賊が公爵家の命を狙った訳。腹を割って話すとしよう」
サンチェンスは一度、毛布に包まれたフランソワの寝顔を愛おしげに見つめてから、視線を我へと戻す。彼の瞳には、冷徹なまでの公爵家次期当主の光が宿っている。
「先日…国の太陽であった陛下が崩御された。三日後には王都で国葬が執り行われる。我々が急ぎ旅をしているのは国葬に参列するため。…本来、公爵家次期当主の移動ともなれば精鋭騎士団の一隊を伴い、旗印を掲げて堂々と王都へ向かうのが慣例」
「国王の崩御…ですか。大国の主が欠けるというのは、いかなる世でも波乱の種となりますな」
我の言葉に、サンチェンスは深く重苦しく頷いた。
「左様。そして、その波乱は既に始まっている。次代の玉座を巡り、水面下では派閥同士が牙を剥き始めているのだ」
彼の視線が、揺り籠の中で眠るフランソワへと流れる。その目に宿る感情は、苦渋と覚悟が入り混じっていた。
「我が家には、他の諸侯にはない『特別な血筋』が存在する。私の祖母…つまりフランソワの曾祖母は先代国王の第二王女として生まれ、ヴァニシア家に降嫁された」
「なるほど…」
サンチェンスが語ったヴァニシア家に関する歴史、此度の事情を聞き終えた我は彼の説明を咀嚼した。
彼の話を要約すればこうだ――。
王家の血を引く者といえ、王位継承権が低い彼らが狙われた最大の理由。
現在でこそ王国一、二と謡われる貿易都市も一世紀前までは大型魔物が跋扈する未開拓地であったという。
海からは周期的にクラーケンや水竜が這い上がり陸地を荒らす。人の営みは根付かず、開拓に向かった者は幾度も命を散らした。当時のヴァニシア家は、公爵ではなく辺境伯。押し寄せる魔物から海岸線を守る『国の盾』に過ぎなかった。それも全く重要視されない盾。
転機は7代目領主の代に訪れる。
領主から産まれた次男。家督を継ぐことも期待されず、兄のスペアとして生を享けた次男。その次男こそ誕生ながら常人の理解を超越した魔道具技術の才能を宿していた。
彼がが独自に編み出し、開発した数々の魔道具は当時の常識を根底から覆す代物ばかり。魔力効率を三割高める魔方陣構造。長時間稼働を可能とした二重魔力循環式炉心。対魔用遊撃射出装備、その他諸々。
それらは王国の魔道具技術の発達を数世紀は前倒ししたとまで評される。
次男が齎した圧倒的な技術力によって危険地帯だった海域を航路可能な安全地帯へと変貌した。
魔道具支給が安定すると、人が集まり、町が出来る。いつしか港が整備され貿易港を有し、諸外国の船が絶えず行き交う王国屈指の貿易拠点へ姿を変えた。
この功績により次男は8代目領主に任命。さらに類まれなる才への褒美に時の王より第二王女を妻に迎えるという、破格の栄誉を賜る。かくしてヴァニシア家は公爵位と王家の血、そして下手な小国を凌ぐ富と影響力を手に入れたのであった。
「(だからこそ彼らは狙われた)」
政治的駆け引きや主導権争いが尽きない王都の野心家たちにとって、公爵家を味方に付ければ王位争いは一気に優勢の天秤が傾く。
――人の欲とは底が知れぬな。
揺り籠の中で、何も知らぬまま「むにゃ…」と小さく寝息を立てるフランソワを一瞥し、我は胸の奥で静かに息を整えた。
「事情は理解しました。王都へ辿り着くまでの道中、このアキトが皆様方を阻む暗雲を切り裂いてみせましょう」
我の返答に、サンチェンスは深く頷く。
「アキト殿…重ね重ね、感謝に堪えぬ。其方の人間離れした力、頼りにしている」
「フランソワも、あなたの傍だと安心するようです。どうか王都まで、よろしくお願いいたしますわ」
「っは、某にお任せを」
静かに成り行きを注視していたシェヘラザードも口を開いた。短く答え頭を深く下げる。
話が一段落し、馬車に束の間の沈黙が落ちた。だが、その沈黙を破ったのは次なる一手を見据えていたサンチェンスだった。
「アキト殿、王都へ着いてからのことだが…其方には我が公爵家の剣客として明確な立場を得てもらおうと考えている」
「立場ですが?」
低く、しかし有無を言わせぬ声色で話すサンチェンスに我の眉が僅かに動く。
「左様。どれほど実力が備わっていようと身元不明の旅人のままでは、同行に限界が訪れる。まずは王都の公爵邸にて我が父、ヴァニシア現当主に対面してもらう。そこで正式に其方を『公爵家専属の剣客』として迎え入れる算段だ」
サンチェンスはそこで一度間を置き、少しばかり悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「父は私の言葉だけで人を認める方ではない」
その一言で、先の展開は容易に想像がついた。
「十中八九、周囲の反発も予想される。父にお目通しした後、其方の力量を測ろうと主力部隊との模擬戦が行われるだろう。棺桶に片足突っ込んだ老臣連中を黙らせるには、口先より圧倒的な剣で語るのが一番手っ取り早いからな」
余程、年配の家臣が気に食わないらしい。そのトーンには単なる私怨を飛び越え、時代を担う統治者としての覚悟が滲んでいた。
「模擬戦ですか…。手加減の加減を今から考えておく必要がありそうですね」
我の言葉にサンチェンスは「ははは」と声を忍ばせながら快活に笑った。彼が見せた笑みは、ぽっと出の我が老臣たちの鼻を明かしてくれることへの、子供じみた期待が浮き出てていた。
「要らぬお世話だよアキト殿。其方が精鋭騎士を完膚なきまでに圧倒する勇姿を、私は特等席で見物させてもらうよ」
サンチェンスの明るい声に、揺り籠の中のフランソワが小さく手足を動かす。無垢な寝顔とは裏腹に、我らが向かう先は王が崩御して均衡が崩れ去った王都と名の伏魔殿。
「(やれやれ。異世界で穏便生活を求めていたはずが、とんだ計算違いだったようだ)」
貴族たちが私利私欲のため策略、権謀を巡らせ命の価値さえ天秤にかけられる戦場。その光景を脳裏に描きながら、誰にも聞かれぬよう我はひとつ、静かに溜息を吐いた。




