未来へ
白い世界の中、母の胸に飛び込む。
母は、私をぎゅっと優しく抱きしめてくれる。
優しい母の、懐かしい匂い。
私を優しく撫でる仕草は小さな頃と変わらない。
「あ、あのね、あのねお母さん……お母さん……」
言葉はそれ以上続かない。
沢山喋りたいのに、何も喋れない。
そんな私に、母は矢指す微笑む。
子供を受け入れる母親がやるように、私に向けて両手を広げる。
その仕草に言葉よりも、行動が先に動く。
無意識に、感情のままに。
懐に飛び込む私を、母は優しく抱きしめてくれる。
お帰り、と耳元で小さく囁く母に。
私はただいま、と返す。
母は強く私を抱きしめてくれて、少し苦しいくらいだけど、愛情が伝わってくるようで嬉しくて
「……一人にしてゴメンね」
その言葉は、全てを見透かしているように耳元で語りかけてくる。
戸惑う私の頭を優しく撫でながら子供をあやす様に優しく語り掛ける。
「……辛かったね、頑張ったね」
母からすれば、私はまだあの時の小さな子供でしか無いのだろうか。
そんな母を励ますように私は母の懐から顔を挙げる。
「お、お母さん、た、確かに……独りは寂しいかったよ。感じれなかったけれど今考えたら凄く寂しかったって思えるよ? でもね、でもね?」
捲くし立ててしまう。
喋り慣れてないから、呂律がうまく回らないけど、お母さんを安心させたくて捲くし立てる。
「一人じゃ無かったんだよ? 最後は私は一人じゃ……無かったんだよ」
あの男の子が居たから。
最後まで、本当に最後まで私に付きまとって、私を一人にしなかった男の子。
「河合君って言う男の子がね……」
・
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「河合君教室で漫才なんか始めちゃってね、それでね」
私の話を、母は小さく相槌を打ちながらずっと聞いてくれる。
白い光が広がる中。
母は優しく私を抱きしめてくれていた。
ゆっくりと私の頭を撫でながら、母は小さく微笑んでいる。
暖かさも、良い匂いも、14年前から変わらない。
「その時木から落ちちゃって……それで……」
黙って私の話を聞いてくれる。
寡黙な母は、そういう所も相変わらずみたい。
本当なら私は、こんなに沢山母に喋る事が出来なかったと思う。
私の一生は何も無かったから。
母に胸を張って話せる事なんて何も無い。
それでも、寡黙な母に、私が生きた証を話したかった。
河合君との思い出が、私の唯一の生きた証。
あの男の子は、私が死んでも助けてくれるんだね。
母は河合君との馴れ初めをニコニコと笑いながら聞いてくれる。
母と喋れてる。それだけで、私も嬉しくて。
もう二度と会えない男の子との思い出を喋り続ける。
「河合君はね? それでね……それ……で?」
突然言葉が詰まる。
声が上ずってしまう。
何故だろう。
また涙が零れ出していた。
河合君との思い出を話していただけなのに、突然。
不思議に思いながらも涙を拭う。
そんな私を見て、母は優しく零す。
「その男の子の事が……大好きなのね」
その言葉に私の顔がみるみる赤くなる。
そんなつもりで喋っていたわけでは無いのだけれど。
だけど、母の優しい瞳に見つめられると、否定なんて出来なくて。
口に出すのも恥ずかしくて。
小さく、コクリと頷く。
そんな私の様子を見て、母はクスクスと笑う。
「お父さんが居たら大変だったわねェ……」
父は私が幼い時に男の子と話す度に大騒ぎするような心配性な人だった。
確かにお父さんが居たら、河合君大変だったかも。
その世界は楽しくて幸せな世界な。
何て……そんな未来が来る事は無いのだけれど。
「お父さんは……?」
最後に私をここから出してくれた父は、そこはいない。
母の瞳は、少し寂しそうな色へと変わる。
「お父さんはね? もう役目を終えたから先に行っちゃった……」
「役目……?」
「そう……私達の宝物を後押しする役目」
そして。と母は付け足す。
「今度は私の番」
母は優しい笑みを浮かべると、抱きしめていた私から離れる。
一歩、後ろに下がる。
「お母さん……?」
母の表情は優しい笑みから一転し、決意を決めたように真面目な表情へと変わる。
「アゲハ、今迄私達を忘れないでくれてありがとう」
「お、お母さん、良く分からないよ……」
その言葉の意味が解らない。
何故か秒な不安が駆り立てられて。
声が震えてしまう。
「今度は、自分の為に生きなさい」
母は真っ直ぐ私を見据えて言う。
死んだ私に生きろと言う。
「で、でも」
もう私は死んでいて。
否定的な言葉を言い切る前に、母が言葉を被せる。
「感情の思うままに生きなさい」
感情の、ままに。
「…………」
河合君の話をしていた時に出た涙。
それは頭で考えてでは無く、突然出てきた物。
それが感情の思うままに、って事なのかな。
14年前から感情と共に、そんな我侭は消えていった。
自身から主張する事も無かった。
それが今は制しされる事は無い。
止まっていた感情を止める壁は無い。
止まらない。
母の言葉は、私の心のスイッチになる。
「わ、私は」
今度は、涙では無く言葉として。
「私は、私、私!!」
母の表情はまた優しい表情へと変わる。
声が大きくなってしまう私を、見つめてくれている。
「もっと、もっと一緒にいたい! あの人と一緒に居たい!! 一緒に景色を作ろうと言ってくれたあの人と! 生きたい!」
母は……うん、と小さく相槌を打ってくれる。
そんな母を見て、やっぱり感情は止まらない。
「でも! でも! やっと会えたお母さんと離れるのも嫌! 嫌なの!」
そんな事、無理だという事は解ってる。
二つとも、私の手から零れ落ちた物だから。
子供のように零れる涙は止まらない。
解らない。解らない。こんな感情解らない
そんな私に、母は「アラアラ……」と優しく笑ってくれている。
私の大好きな二つが存在する世界なんて有り得る筈が無くて。
解っている。私の頭はそれを解っている。
でも感情的にそう思ってしまう。
我侭に、不可能を望んでしまう。
多くの人は、生き続けていれば感情と時に戦う。時に向き合う。時に受け入れる。
私はそれを知らない。
……どうしたら良いか、解らない。
子供のように泣きじゃくりながら、涙を拭う私に、母の優しい言葉が耳に入る。
「残酷でしょう……辛いでしょう……今の貴方には答えられる筈がない選択肢」
私の胸にそっと手を置く。
「だから」
私の胸をそっと押した。
「最後の後押し」
足が半歩後ろに下がるだけの弱弱しい後押し。
父の時のような、無理矢理この世界から逃がそうとした物では無くて。
優しい、後押し。
それは物理的では無くとも、逃げ続けていた私の心を強く前に押し出す。
「未来に生きなさい、貴方は生きているのだから。」
母はそのまま、もう一歩後ろに下がる。
「幸せになりなさいね……」
優しい笑みを称えたまま、行儀良く私に小さく手を振る。
それ以上母は、何も言わなかった。
もう言いたい事は全部言った、というように。
話したい事はいっぱいあった。
ずっと一緒にいて欲しかった。
14年分……甘えたかった。
その我侭を断ち切るように。
正面から私を見据えるように母は何も言わず、唯優しく笑ってくれて。
優しく手を振ってくれていて。
…………私は。
踵を返す。
先ほどまであったドアも、白い世界もなくなっていた。
暗い世界が広がっているだけ。
後はここに足を踏み込むだけ。
後押しはしてくれた。
この先に。
新しい私が待ってる。私の知らない人生が待ってる。
きっと楽しい。きっと悲しい。
きっと……。
寂しい。
「……お母さん!!!! 私!!!」
振り向く。
最後に、もう一度だけ。
もう一度だけ母が見たくて。
本当に、今度こそ、絶対に。
これが最後の我侭にするから。
もう一回だけ、その笑顔を。
振り向いた先には、母はいなかった。
優しく笑いながら手を振っていた母はもう見当たらない。
最後の、後押し。
そこには徐々に消えていっている白い世界が残っているだけ。
この世界には私一人だけ。
「おかあ……さ……」
また涙が零れる。
その涙を搾り出すように、強く目を瞑った。
その後。
前を真っ直ぐ見据える。
前を見るって大変。
前を向いて生きていたら。
後ろを振り向いた時。
ずっとずっと悲しい。
後ろだけを見続けてきた。
だからそれが当たり前だった。
後ろを見続ける事が楽な事だったなんて始めて知った。
私はまたどうせどこかで後ろを振り向く。
その度に、また前を向かないと行けない。
これから何度でも辛い思いをすると思う。
それでも、それでも私は。
あの男の子がいる世界で。
生きたい。
明日で本当に最終回です。




