四十五話め.殺してくれてありがとう
呆然と彼女の笑顔を見つめたのは数秒。
事態は。
一瞬で変わった。
彼女の笑顔は変わらない。
笑顔は変わらないまま。
彼女の両方の鼻から、ゆっくりと赤い鮮血が垂れた。
そして、漏れ出したかのように口からも赤い鮮血が零こぼれ出す。
それでも。
彼女の目頭は小さく下がり、口頭は小さく上がっていて。
漏れ出す鮮血は止まらず、床にポタポタと落ちる。
映画でも見るかのように大袈裟に、大量の血が。
目から、鼻から、耳から、口から、顔中の穴という穴から垂れ流される。
それでも、彼女の笑顔は。
変わらない。
状況を知っているように、まるで受け入れているとさえ、思うほどに。
もし知らない人間だったら逃げ出すだろう程の不気味な様子。
その様子に、俺は固まりながらも彼女の名前を呼ぶ。
「アゲ……ハ……?」
俺の言葉に答える様に彼女は笑顔のまま俺の目を優しく見据える。
感情に満ちた……綺麗な瞳で。
「かわ……ゴホッ……ゴホッ……くん……」
口から大量に零れる血は、喋ろうとする彼女の口から零れる。
俺自身も彼女の声が聞き取れていない。
それでも彼女の状況に事態が悪化している事は解る。
顔はみるみる白くなっていく。
走って疲れた時の、青白い表情どころでは無い。
本当に死体のように、真っ白と。
寧ろ、青い程に。
瞼がうっすらと閉じていく。
今にも倒れるのでは無いかと思う位に、顔から生気が消えていく。
「お、おい! アゲハ! アゲハァ!」
叫ぶ。
彼女の名前を叫ぶ。
それでどうかなるわけでは無い。
それでも、彼女の意識が飛ぶのが怖くて。
必死に名前を呼んだ。
そんな俺の事を、アゲハはただ、優しく見つめる。
彼女と俺の温度差は大きく。
必死な俺を他所に彼女は、あまりにも静かで。
あまりにも嬉しそうで。
彼女は優しい笑みを零したまま。
口を動かす。
一気に弱った様に、声も出せないのか。
震えるように唇だけを動かす。
ゆっくりと、俺に、伝えるように。
ゆっくりと。
動かし終わった後に、彼女は満足した様にそのまま床に倒れてしまった。
最後の力を振り絞ったような動作。
動かしただけの言葉は、声が無くても伝わる。
倒れた彼女から血は止まらず、床に血が広がる。
それなのに、彼女が俺に伝えた言葉が響いて。
受け止める事も出来ずに動けない。
動けない。
座った形のまま、ただ俺は呆然と彼女を見つめる。
彼女が危険なのに。
体が動かない。
周りの大人達は、彼女が倒れたと同時に我に返り慌しげに動き出していた。
持ってきていたであろう折りたたみ式の担架に彼女を乗せ。
素早い行動を起こした大人達は、アゲハを連れて来た方向へと戻って行く。
後には呆然と固まっている俺と、気絶している医者だけ。
先程まで大勢居たプレハブは一気に人が消え、静かに外からの空気が入るだけ。
感情を動かして、死に追いやって、彼女を生き返らせる手術をする為に。
……作戦通りじゃないか。
やったじゃないか。
殺してやった。
俺が、俺が殺したんだ!
幽霊であるアイツを殺した。
作戦通り、なのに。
彼女の言葉が俺の頭の中を蠢く。
覚悟してただろう。
最初からそのつもりだっただろう。
俺は小さく笑う。
もう、どうしていいか解らない、という具合だ。
絶望が押し寄せる。
「そうだ、そうだよ……俺はその為に来たんじゃないか」
よく、言う。
中途半端な覚悟だったからこんな風になるんだ。
そんなつもりはありませんでした、なんて言い訳なら幾らでも出る。
確認するように彼女が言った言葉を、声に出す。
「『殺してくれて ありがとう』? だって? なんだよそれ! なんだよそれ!!」
静かなプレハブで、俺は叫ぶ。
感情に任せて。
はっきりと『ありがとう』と言っていた。
何の……感謝だよ!!
殺して欲しかったのかよ!
微かにでも、生き返りたいと、笑いたいと思ってくれたんじゃ、ないのかよ……。
覚悟はしていたつもりだった。
その為に来たのだから。
俺が、俺が殺してやるつもりで来たのだから。
でも、でも!
やっぱり。イヤだ……イヤだ……
アゲハが死んでしまうのは。
怖い。
結果的に作戦は成功だと言っていいのだろうか。
あんなに苦しんだ彼女を見て、上手く言ったなんて……言っていいのだろうか。
ここまでして。
ここまでして!!!
殺してくれてありがとう。
だ、なんて……。
■
「…………あァ」
それは突然だった。
俺以外の。
別の人間の声が響く。
無意識に視線は声の先に向かった。
いつ気づいたのか、壁に靠もたれる状態で座っている医者がそこにいた。
空ろな瞳が天井を見上げたまま医者は動く事も無くボソボソと続ける。
「血液の循環をさせるポンプの心臓を圧迫……見た目で言えば鼻や目、耳からの出血……死因は心臓麻痺か出血多量か……」
何を言っているのか解らない。
医者は、俺の視線等気にせずに続ける。
「ヒヒ……今迄の実験も水の泡だ……折角可能性が出たと思えば……」
「てめぇ、何言ってやがる」
俺の言葉に首だけを横に向け医者は色の無い瞳をこちらに向ける。
その眼に生気は感じられない。
「無心病患者が最後に死ぬ姿だ。発作や一時的な物では無く、完全な病による死だ」
論理的に男は簡単に言う。
「つまりあの女は死んだ、あの状態からで助かる方法等無い」
専門家が言ってしまう。
言っては行けない台詞を簡単に言ってしまう。
専門家でも無い俺が慌てて叫ぶ。
「そんなわけねぇ! そんなわけあるかよ! 先生は助けるって言ったんだ! 今度こそ助けるって!!」
「ヒヒ……糞ガキが……そんな簡単に行くかよ……どれだけの人間が研究していると思っているんだ……アイツは死んだんだよ……あれ程良い実験体も無かったんだが」
こんな時でも実験体と、そう言ったこの男を俺は睨みつける。
そんな俺の目を見ても、医者は動じる様子はない。
空ろな瞳のまま、薄気味悪く笑う。
まるで気が狂った様に。
いや、狂ったのかもしれない。
正気を失う程に実験を繰り返し、非人道的な事を当たり前に行う程に無心病に没頭し。
どれ程の時間を掛けたのか何て俺には解らない。
それでもこの男にも過去があり今があるのなら。
別の意味で気が狂う程の何かがあったのかもしれない。
アゲハの死を理解した瞬間、全てが水の泡になったかのように。
医者は聞いているわけでもなくブツブツと言い続ける。
「……そうだ。最後の実験だ……死ねば心臓の圧迫が解けて肥大化した心臓が元のサイズに戻ってしまう……生きているうちに肥大化している状態を見れば何か新たな発見があるかもしれない」
医者はふらふらと立ち上がる。
「生きている間に、心臓を取り出そう」
その言葉に耳を疑う。
何を言ってるんだコイツは。
現実的ではないその言葉を俺は一瞬理解出来ない。
面白くもない冗談みたいな言葉。
だが医者の目に冗談の色等無く。
俺は慌てて立ち上がろうと足に力を入れる。
痛い……まだフラフラする。
それでも必死に立ち上がろうと足掻く。
「てめぇ……てめぇ! ふざけた事言ってんじゃねぇよ!」
言葉では強気で言うも、俺の足は言うことを聞いてくれない。
まだ体は完全に回復していないみたいで。
いや、そんなの。
関係無い! 立て! アゲハが、あの幽霊娘がピンチなのに、こんなところでダラダラして何ていられないんだ!
自らを奮い立たせゆっくりとだが、立ち上がる。
膝に手をついた状態で、今にも崩れそうであるが。
それでも気持ちが揺れる事はない。
「アイツはここで死んだ!! 後は生き返るだけなんだ!!」
後は先生を信じるだけだ。
笑えない幽霊娘は、生き返る。
絶対に生き返る。
今度はちゃんと人として、生きていくんだ!
その為にここまでやってきたんだ。
生き返ったら、殺してくれてありがとうとか舐めた事言ったのを怒ってやるんだ。
顔をあげ男を睨みつける。
「え」
間の抜けた声が出る。
それは視線に入った物が原因。
医者がそこにいた。
もうとっくにドアのほうに向かっていると思っていた医者は、目の前にいた。
虚ろな瞳が俺を見下すように見据える。
まだ膝立ちのままの俺は形的に見上げる姿になってしまう。
しかし声が出たのは医者が近かった、というだけではない。
医者の手に握られていたものが原因。
医者の手には小振りの金槌が握られていた。
このプレバブや小道具を作るために利用し、そのまま放置していたものだ。
何故そんなものを持っているのか。
何故そんなものを持って俺の前にいるのか。
答えは簡単に出る。
顔が、青ざめる。
寒気が走る。
それと同時に、医者の手に持つそれが。
俺の頭に向けて、斜めに振り切られた。




