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飛鳥  作者: 石燈 梓(Azurite)
幕間 Ⅰ 火の祭祀
63/219

幕間 火の祭祀(1)


            3-0-(1)


 カンコンと煙突を叩いて煤を落とす音で、隼は目覚めた。

 まだ夜は明けきっていない。ユルテ(移動式住居)の真ん中に立つタオを、天窓から射しこむ蒼白い光が照らしていた。うすい綿の衣の上に羊の毛皮をかぶって寝ていた隼は、片目を開けて彼女をみた。


「目が覚めたか、ハヤブサ殿。待っていてくれ、すぐお茶を淹れる」


 そう言って、タオは桶を片手に行こうとする。隼は、身を起こし、欠伸をかみ殺した。


「あたしも行くよ」


 季節を問わず、水汲みは草原の女の大切な仕事だ。特に冬は、家畜を放し飼いに出来ないので、井戸と家畜小屋(ウルジュ)の間を一日に何往復もしなければならない。

 隼が、寝ぐせのついた髪をそのままに、長衣(デール)を羽織り、革靴(グトゥル)を履くさまを見て、タオは笑った。


「ゆっくりしていて下され。手は足りている」

「やりたいんだよ……」


『もう、客人(ジュチ)じゃないんだから』 そう続けたかったが、気恥ずかしくて黙った。隼は、無造作に腕を伸ばして手桶を受け取ると、毛皮の帽子をかぶった。


「……うう。寒い」


 扉を開けた途端、叩きつけてくる寒風に、隼は震えあがった。呼吸をするだけで、口の中が凍りそうだ。思わず唸ると、彼女の寒がりを知っているタオは、また笑った。


「だから言ったのに。寝ていて下さればよいのだぞ」

「いや、行く」


 隼は、外套の襟を合わせ、帽子をかぶり直すと、ぎくしゃくと足を踏み出した。夜明け前の藍色の空の下、白く凍てつく大地を踏み、井戸を目指す。囲いのなかから、羊と馬たちの鳴き声が聞こえた。



 隼とタオが、キイ帝国との国境から軍を退き、アルタイ山脈西の冬営地(オウルジョフ)へ戻って、十日が経つ。

 隼は知らなかったのだが――〈草原の民〉が行う遊牧とは、家畜を連れて勝手気ままに放浪するのではなく、季節に応じて、計画的に移動をくりかえす牧畜のことだ。部族ごとに、根拠となる(縄張りの)草原は決まっている。そのなかでも、夏は夏の、冬は冬の場所があった。

 一年かけてよく乾燥させた羊の糞(ホロゴル)を、秋のうちに敷き詰めて、ユルテを建てる場所を用意する。小さなホロゴルは隙間に空気を含むので、絨毯を重ねると暖かいのだ。ユルテを覆う布(デーブル)も、冬は二重になっている。

 家畜小屋(ウルジュ)は、石を積んだ壁と木枠で円形につくり、北側半分に木製の屋根をかぶせておく。この屋根の下に、さらに小さな囲いを作り、予定より早く産まれた仔羊を入れていた。

 出征していたタオとトグルの家畜たちは、留守中、自由民(アラド)の家族が世話をしてくれていた。戻ると、すぐに牧民としての生活に戻る。早朝の水汲みに始まり、家畜の世話や干し肉(ボルツ)作り、刺繍など、タオは実によく働くと、隼は感心していた。


 ユルテの屋根にも草原にも、うすく雪が積もっていた。新鮮な朝の日差しを浴びて、氷の粒がきらきら輝いている。

 井戸へいく途中に、トグルのユルテが建っている。オルクト氏族長とアラル将軍(ミンガン)とともに前線にいたトグルは、三日前に戻って来たはずだが、ユルテからのぞく煙突から煙は出ていなかった。政務を行う天幕から、帰っていないのだ。

 秘かに彼の身を案じている隼と違い、タオは、平然としていた。


「族長とは、窮屈なものだ。いくさに勝てば勝ったで、敗ければ敗けたで、長老達に絞られる。なに、トゥグス兄者(オルクト氏族長)がついている。どうせ、毎晩飲んでいるのだろう」

「……そうなのか」

火の祭祀(ガリーン・タヒルガ)には戻るゆえ、大丈夫」


 曖昧に相槌をうつ隼に、タオはにっこりと微笑んだ。羊たちに水を与え、岩塩を舐めさせながら、


白い月(ツァガーン・サル)の前に、火の女神に祈りを捧げる儀式だ。氏族長たちは、祝詞(ユルール)を詠唱してユルテをめぐる。客人もやって来る。楽しみにしておられよ」


 知らないことが沢山ある。隼は自信なく頷き、トグルに言われたことを思い出した。



 カザ砦で仲間たちと別れ、トグルについて行った隼は、タオの率いる軍と合流した途端、彼に指示された。

「ここからは、個人の武は意味を成さない。お前は、タオと共にいてくれ」と――。

 オルクト氏族長の率いる重騎兵と、ハル・クアラ部族とともに軍を指揮する盟主としては、当然の対応だった。タオは驚喜して迎えてくれたが……以来、隼は、彼とろくに会っていない。話が出来ない。

『トグルは忙しいんだ。仕方ない……』判っていたはずだが、悩んでいた分、拍子抜けした。

 前向きに考えよう。折角タオといるのだから、いろいろ教えてもらおう――そう彼女が気を取り直した矢先だった。


「ハヤブサ殿!」


 タオの悲鳴及ばず。後ろから突進してきた羊に膝裏を押され、隼はよろめいた。狭い柵のなかで押し合いへし合いしている羊たちの間に、倒れ込む。もこもこの毛と蹄と角にもみくちゃにされる彼女の腕を、タオが引っ張った。


「大丈夫か? ああだから、待っていて下されと」


『これは、前途多難だ……』 柵の上によじ登ってから、帽子を落としたことに気づき、隼はがっかりした。乗馬はなんとかなったが、羊や山羊の扱いには慣れていない。家事を含め、〈草原の民〉の暮らしを習得するのに、いったいどれほど時間がかかるだろう。

 タオは、羊たちに踏みつけられていた隼の帽子を拾い、土や糞を払って形を整えた。しょんぼりしている彼女を、何と言って励まそうかと考える。


 聞きなれない馬の声がした。

 タオと隼は、同時に振り返り、家畜小屋(ウルジュ)の傍らに佇む人馬をみた。四、五人の男達が、替え馬を従え、それぞれ騎乗している。毛長牛(ヤク)が二頭いるのが目を惹いた。

 先頭の男が馬から降り、帽子を脱いだ。


「タオ殿、ハヤブサ殿」


 長身のシルカス族の男は、深い瞳で彼女たちを見詰め、一礼した。

 タオは柵から出て、隼に帽子を手渡した。気安く声をかける。


「アラル将軍(ミンガン)、センバイノー(こんにちは)。兄上に、会いに来られたのか?」

御意(ラー)盟主(トグル)はお留守デスか?」


 タオは、隼にも理解できるよう、交易語で話した。それに合わせるアラルの口調には、軽い訛がある。軽騎兵の軍団を率いる勇猛な将軍だが、トグル同様、ふるまいは穏やかだ。隼は、彼の声を初めて聴いたように思った。

 それに――隼は、毛長牛(ヤク)が気になった。

 アラルの連れた牛の一方の背には、大きな籠のような物が括りつけられていた。一見しただけでは、構造が分からない。毛織の絨毯や羊の毛皮で厳重に包まれた奥から、一対の眸がこちらを窺っていた。

『子ども?』 隼は、訝しんだ。〈草原の民〉は、女性も子どもも、器用に馬を乗りこなす。固定されているのは珍しい。姿が見えないだけではない、こんなにぐるぐる巻かれては、身動きがとれないだろう。

 年齢も性別も判らない黒い瞳は、まっすぐ隼を観ていた。怜悧な輝きは、磨いた黒曜石のようだ。

 タオが、息を呑んだ。声をひそめる。


「兄上……」


『え?』 と、隼は彼女を振り向いた。タオが兄上と呼ぶのは、トグルしかいない。しかし、これは――。

 意外なだけではなかった。タオは、今にも泣き出しそうだった。いそいそと毛長牛に歩み寄り、話かける。


「兄上は、天幕から戻って来ていない。ユルテで待っていて下され。すぐにお茶を淹れる。……ハヤブサ殿」


 今度の『兄上』は、トグルを指しているのだろう。隼は、タオについて行きながら、男達を眺めた。アラルは部下とともに、丁寧にお辞儀をした。

 毛長牛(ヤク)に乗せられた人物の眼は、わらっているようだった。



 主人(あるじ)が留守のユルテ(移動式住居)の扉を開けると、タオは炉に火をおこし、早速お茶を沸かしはじめた。使われた形跡のないトグルの寝台をととのえ、居心地よく枕を配す。隼になかへ入るよう促すと、自分は客人のために扉をおさえた。

 アラル将軍たちは、ユルテの傍らに馬を繋ぎ、毛長牛(ヤク)の背の荷をとく作業を開始した。

『やはり、籠だ』 と隼は思った。柔らかな柳の枝を編んで作られた籠は、中に身体を伸ばして入れられるようになっている。

 アラル将軍は、人を入れた籠を丁重に抱え、ユルテの中へ運んで来た。寝台に載せると、ちょうど脚を伸ばして坐る姿勢になる。タオがすかさず、彼の背と肩に枕をあてがった。アラルが恭しい仕草で籠と毛布を取り去ると、〈草原の民〉には珍しく切りそろえられた黒髪が、肩にこぼれた。

 黒々と澄んだ瞳が、隼を見上げた。


 失礼な話だ――隼は眼をみはり、内心、己を叱責した。ぞっとするほど痩せていると思うなんて……。しかし、頬はこけ、首も、鮮やかな藍の長衣(デール)にしずむ手足も、骨と皮という表現が似つかわしい。不用意に触れたら、ぽきりと折れそうだ。窪んだ眼窩の中で、黒い瞳が異様に大きく輝いてみえた。

 タオはその手に触れ、涙ぐんで言った。


「シルカスの兄上、よく来て下さった。身体の具合はよろしいのか?」

「ユムグエー(大丈夫)。お前も、元気そうだな、タオ」


 彼は、低く囁いた。とがった喉仏が上下し、隼は、彼がたしかに男性だと理解した。兄と呼ぶからには、タオより年上なのだろう……とてもそうは見えないが。

 タオは、立ち尽くしている隼に微笑を向けた。


「紹介する、ハヤブサ殿。シルカス族の族長、シルカス・ジョク・ビルゲだ(注1)。……兄上、こちらは、ハヤブサ殿という」

「寝たままで失礼する、天人(テングリ)


 彼は、小声だが、明瞭な交易語で言った。


「大きな声が出せないのだ。すぐ、疲れてしまう」

「ああ、いや。すまない……」


 何を謝っているのか。隼は自分がよく分からなかったが、シルカス族長の方は、こんな反応に慣れているのだろう、くるりと悪戯っぽく瞳を動かした。


「驚いた。本当に、天人(テングリ)だ」

「…………」

「あなた、独りか? 仲間は? 何処かに、あなたのような人の棲む国があるのか」

「あたしは――」


 邪気のない質問に答えようとした隼は、シルカス族長がきこんだので、口を閉じた。アラル将軍が、すばやく腕を差し伸べる。痩せた肩を揺らしてせる主人を抱きおこし、背をさすった。

 タオが、急いで陶製の器に乳茶(スーチー)を入れ、アラルに手渡す。アラルは、お茶がじゅうぶん冷めていることを確認すると、氏族長の頭を支え、唇に器の縁をおしあてた。

『自力で飲むことも出来ないのか……』

 隼は、タオとアラルが寝台の傍らに控えているのは、ただ彼を手助けする為なのだと気づいた。こんな風に衰弱した人間に、心当たりがある。――亡くなる前の父を思い出し、血の気がひいた。


「ハヤブサ殿」


 タオが、座るよう促す。構わずに、隼は訊ねた。


やまいなのか?」


 ひとくちふたくち乳茶を飲んで落ち着いたシルカス族長は、冴えた眼差しを彼女にあてた。隼は眉根を寄せ、アラルに言った。


「《星の子》を連れて来た方が良かったか。雉を……。あたしでは、治せない」

「ああ。違うよ」


 アラルより先に、シルカス族長が答えた。再び寝台に身を横たえ、穏やかに微笑む。


「これは生まれつき、なんだ。〈黒の山(カラ・ケルカン)〉の巫女には、治せない。天人(テングリ)も、そうだろう。無理は言わないから、安心して」

「……生まれつき?」

「おれのことより、あなたのことを教えて欲しいな。何処から来たの? いつ、ディオ(トグルの本名)と知り合ったの。あいつは気難しいと思うけど――」


『そんなことがあるのか?』 隼は困惑してアラルを見遣ったが、彼は面を伏せている。タオも、氏族長の様子に集中している。周囲の者に比べ、本人は飄々として、好奇心に眸を煌めかせていた。

 と、

「ジョク!」


 ユルテの扉が開き、懐かしい声が飛び込んできた。隼は振り返り、ほっと息をついた。トグルだ――。オルクト氏族長の姿もある。

 報せを聞いて帰って来たのだろう。トグルは、自分の留守中に入り込んでいる者達を、ざっと見渡した。

 シルカス族長は、血の気のない頬に微笑を浮かべた。


「おかえり、ディオ」


 トグルは寝台に近づくと、主人(あるじ)のごとく悠然と寛いでいる友を見下ろした。呆れた気配が緑の双眸にひらめいたが、彼は、すぐにそれを消し、痩せた身体を抱きしめた。

 隼は驚いた。トグルは、滅多に感情を露わにする男ではない。それほど大事な相手なのだろうと察し、少し胸がせつなくなった。

 シルカス族長は(腕が上がらないので、抱き返すことが出来ない)、大柄な男が覆いかぶさるのを大人しく受け止めていたが、やがて、そっと窘めた。


「重い、ディオ」

「ジョク……***、*****」

「うん。まだ、地獄(エルリック)は門を開けてくれないんだ(注2)。もう少し、こっちにいろってさ」

「……来るなら、そう言ってくれ。迎えに行く」


 トグルは〈草原の民〉の言葉で話したが、相手が交易語を使うので、切り替えた。かるく咎める口調で言われたアラル将軍は、恐縮して項垂れた。

 シルカス族長は、ハッと、喘ぐように笑った。


「お前が独身主義を返上しそうだと聴いたから、これは、見物(みもの)だと思って。からかってやろうと」

「ジョク……」


 トグルはちらりと隼を見遣り、返答に困って口ごもった。オルクト氏族長が、笑いながら近づいた。


「どうだ、ジョク。眼福(がんぷく)であろう?」

ああ(ラー)草原(イリ)を探しても、見つからなかったわけだ。生きているうちにお目にかかれて、光栄ですよ。天人(テングリ)


 そう言って、シルカス族長は、屈託なく哂った。







(注1)シルカス・ジョク・ビルゲ: 『ビルゲ』は、『賢者』という意味の尊称。トグルとタオとは父親が従兄弟同士という設定です(鳩子)。外伝『狼の唄の伝説』に、約十年前のジョクが登場しています。当時は自力で坐位姿勢を保ち、食事もできました。努力をすれば、立って歩くことも出来ていました。本編では、彼の病気はかなり進行しています。


(注2)地獄: ユーラシア北方民のシャーマニズムに基づく宇宙観では、世界は天上・地上・地下に別れ(それぞれ複数の層があるともいわれ)ていますが、地下界に「地獄」の概念が結びついたのは、外来宗教(チベット仏教やイスラーム教)の影響を受けた16世紀以降と言われています。チベット仏教では輪廻転生を説いていますが、シャーマニズムにその概念はありません。この作品では、地下界に今日的な「地獄」の概念をつけています。

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