第二章 王と神官(1)
5―2-(1)
夕陽が山脈のむこうに隠れると、谷から紫の影が湧きだして乾いた盆地をひたした。防壁を崩されたシェル城に緋色の火が点り、みる間に数を増していく。凍った湖の面を仄白く照らしだす。
時折、風が、軍鼓と剣戟の音をはこんできた。
その様子を、シジンを含むニーナイ国の虜囚たちは、峠に隠れるタァハル族の荷車から眺めていた。
彼等を連れた兵団は、シェル城には留まらず移動を続けていた。エルゾ山脈を越えてニーナイ国領へむかう峠道にさしかかった時、トグリーニ部族の騎馬軍団が盆地に侵入したのだ。
小さな太陽を想わせるまばゆい閃光が湖面を走り、一撃で城を破壊した経緯を、彼等は茫然と観ていた。城に残るタァハル軍にとってひとたまりもなかったであろうことは、容易に察せられた。
『まるで、ルドガー(暴風神)の雷だ』 と、シジンは思った。自然現象ではあり得ない。
「ウィシュヌ神(慈悲と秩序の神)の光の矢か、バーイラヴァ(破壊神=ルドガー)の雷撃のようですね……」
似たようなことを考えたのだろう、ニーナイ国の神官が溜息まじりに呟く。シジンは苦虫を噛み潰した。
――神々などいない。神話は、ひとが都合よく創り出したおとぎ話だ。そうとみまごう演出で敵を萎縮させ、戦況を有利にみちびいたのだ。いったい、どんな手を使ったのだろう?
荷車が動きだす。紫紺の夜の底をガタゴトと運ばれて行きながら、シジンは考えた。――トグリーニ部族には新兵器があり、投石器や重騎兵もある。数の上でも、タァハル部族は不利になっている。どうやって、この状況を変えるつもりか。或いは、変えるつもりがないのか。
『まさか、奴等(草原の民)はニーナイ国のムティワナ(ミナスティアの王族)になりたいわけではなかろう……?』
星のない夜、彼等の径は、まったき闇のなかへと消えていた。
*
「鷲の莫迦は、何をやったんだ!」
レイ王女が出産したという報をうけて、鷲は急遽、本営へ向かった。報せに来た雉は、そのまま軍に留まっている。
シェル城にたてこもっていたタァハル部族の兵士達は、天人の能力を目の当たりにして戦意を喪失し、大半は降伏した。トグルは城下に軍勢の一部を入れると、抵抗する敵兵と戦いを続けた。遅れて到着する味方と負傷者のために仮の陣を敷き、オルクト族とオーラト族の重騎兵に警護させている。
辺りはすっかり暗くなり、城内のあちらこちらで篝火が燃やされていた。一緒に来たニーナイの女達のユルテ(移動式住居)が馬車から下ろされ、簡易の天幕が張られる。早速、炊きだしが開始された。
そして、雉は――鷲が予言した如く。――文句を言いながら怪我人の治療にあたっている。
タァハル軍には、シェル城下で暮らしていたニーナイ国の民衆も含まれている。トグルは、ニーナイ国とミナスティア国の特徴をもつ者を攻撃しないよう自軍の兵士達に命じていたが、暗がりのなかで逃げようとして戦闘にまきこまれた者や、味方のはずのタァハル兵に傷つけられた者がいた。
オダとシルカス・アラルの手をかりて負傷者を分け隔てなくたすけようとする雉を、トグルは黙って見守っていた。
「あいつが居れば、こんなに怪我人を出さなくて済んだろう。どうして戻るまで待たなかったんだ?」
「それでは、奇襲の意味がなくなる。退路を塞がれ、こちらが包囲されていた可能性もある」
雉は若い男のふくらはぎに刺さった矢を抜いて止血しながら、さらりと答えるトグルを睨んだ。火を点けていない煙管を咥えていたトグルは、ばつが悪そうに煙管を懐にしまった。
トグルの黒髪は乱れ、びっしょりと汗をかき、返り血を浴びている。しかし、切れ長の眼を伏せて言う声は、いつも通り平静だ。
「超常の力をもつお前達が、部族間の紛争でどちらかに加担するなど、本来あってはならぬだろう。天人の名を戴くことによって生じる責任を、お前達が負い切れると言うのなら、俺は構わぬが」
「…………」
「あれほどの力を使った後では、どうせ、ワシは当分動けまい。我が子の許で、休んでおればよいのだ」
「お前――」
雉はトグルの意図を察し、息を呑んだ。
「雉!」
彼の台詞は、隼の声に遮られた。彼女は、片膝をついた雉の傍らにトグルが立っているのを見つけ、軽く狼狽えた。
隼は、躊躇いながら二人に近付いた。
「雉。向こうに、動けなくなっている兵士が四人いる。一応、止血をしておいた」
「判った。すぐ行く」
「……人道に反することで、お前達の力を借りようとは思わぬ」
トグルはフッと嗤った。昏い呟きを、隼も聴きとった。
「それは、俺の仕事だ。……アラル!」
トグルは隼には目もくれずに踵を返すと、シルカス氏族長を呼んだ。オダと協力して負傷兵の腕に布を巻いていたアラルが、面を上げる。
「アラル。もう一度、タァハルに使者を送れ。明朝までに降伏しなければ、総攻撃をかける。……トグル・ディオ・バガトルの名において、奴等の名を地上より永遠に消し去る用意があると伝えろ」
「御意」
一礼する氏族長の隣で、オダが立ち上がった。
「王。僕に行かせてください」
トグルは、篝火を浴びて紫に煌めく少年の瞳を、無表情に見下ろした。オダは真摯に続けた。
「タァハル軍のなかにいるニーナイの民を、説得させて下さい。我々は、オン大公の計略に協力させられているだけだと――。これ以上、血を流さないで欲しいのです」
「おれも、オダの意見に賛成だ」
雉が片膝を地につけたまま、厳しい声を草原の男の背に投げかけた。
トグルが肩越しに振り返る。
「トグル。お前が兵を挙げたのは、タイウルトとタァハル部族から戦力を奪い、〈草原の民〉を統一するためだ。ニーナイ国との講和が成れば、目的は果たせるんだろ?」
『トグル……』
隼は、トグルの厳格な横顔をみつめた。かつて自分がリー女将軍から手を退くことを求めたときと同じく、彼の脳内では、さまざまな情報が検討されているのだろう。
タァハル軍は、ここにいるのが全てではない。エルゾ山脈の峠に五万の伏兵がいて、本隊も別に無事でいるはずだ。それらが一斉に反撃に転じれば、こちらも無傷では済まない。オダの望みを尊重して、失敗した場合はどうするのか。次の策は――。それらを考え決定する責任の重さを、彼女は理解していた。
トグルは黙考していたが、やがて、誰に言うともなく呟いた。
「だが。どうやって説得する?」
オダは口を開けたが、トグルが首を横に振ったので、言葉を呑んだ。
「これがオン大公の策だと、何をもって証明するのだ……。俺達の話を、ニーナイ国の誰が信用する?」
「僕が信用します」
オダは、トグルの冷徹な眼差しに会っても怯まなかった。隼とシルカス・アラル族長の視線が、少年に集中する。
「王。貴方は女達を返して下さった。貴方がたが彼女達の為にどれほどのことをして下さったか、僕が証明します。我々は、共存できるはずです」
「……ジョロー・モリ。お前の申し出は、しかし――」
「これは、天人の介入には当たらない」
ぼそぼそと言いかけるトグルを、雉が遮った。トグルは今度は振り返らなかった。
「ニーナイ国の民が、自分の意志で戦いを終わらせたいと言っているんだ。やらせてやっても、いいだろう?」
「……俺の出番ではないようだ」
トグルが他人事のように呟いたので、オダは、ぱっと面を輝かせた。
トグルは革の外套を翻し、彼等に背を向けて歩き始めた。
「アラル」
「御意」
「夜明けとともに、俺とトゥグス(オルクト氏族長)は攻撃を開始する。お前は使者を護衛しろ。……オダ、一緒に行ってこい」
「はいっ」
オダは威勢よく返事をしてから、違和感を覚えた。丁寧に一礼するアラルの仕草を眺めているうちに、気がついた。自己紹介いらい初めて、トグルが名を呼んでくれたのだと。
トグルは、感無量の少年を無愛想に一瞥しただけだった。少し離れたところに控えている氏族長に、指示する。
「オーラト。こちらの決着がつき次第、本営へ戻りタオに伝えろ。本営を北東へ移し、アルタイ(山脈の名)を守れと。それから、お前はイリック、テイレイ族とともに南下し、〈白い聖山〉(ハン・テングリ山)の北で待機しろ。改めて、氏族長会議を招集する」
「御意」
「〈黒の山〉の《星の子》に、降臨を願おう」
トグルは雉を顧みた。雉は立ち上がり、力をこめて頷いた。
「国境を守護する巫女の御力を、借りることになりそうだ……」
「お前、今まで、いちいち許可なんてとって戦争をやっていたのか?」
雉の呆れ声に、トグルはやや疲れた苦笑を浮かべた。すぐにもとの無表情に戻り、繰り返した。
「夜明けと同時に、攻撃を再開する」
緊張しているオダと蒼ざめている隼を、彼は見下ろした。
「ニーナイ国がどうあれ、俺達の敵はタァハルだ。手を緩めるわけにはいかない。今のうちに休んでおけ」
そう言うと、トグルは黒い外套を揺らして歩み去った。
トグルは、負傷者が集められている城の庭を抜け、黒馬の許へ戻った。水と飼葉をもらってくつろいでいる愛馬の鼻をやさしく撫でてから、城壁の陰に張った簡易天幕のなかに腰を下ろす。立てた膝の上に萎えた右腕をのせ、左手だけで火を熾していると、隼がやって来た。
トグルは穏やかに訊ねた。
「小僧と一緒に行かなくて、良いのか?」
隼は、無言で彼を見下ろした。トグルは唇を歪めた。疲れた、どこか切ないその苦笑を、隼は観ていた。
「『共存できるはず』か……。愚かだ、本当に」
「それは解っている」
けだるい囁きに隼が言い返すと、トグルは再びうすく哂った。眼を閉じ、壁に背をあずける。
『平和を知らぬ』と、トグルは言った。タァハル部族も。――戦って戦って、数年の休憩の後、また戦う。同盟をむすび、裏切り裏切られ、また交渉する。数百年間それをくりかえして来た彼等に『共存』を唱えたところで、容易に信じられるはずがない。――それでもオダに機会を与えてくれたトグルに、隼は感謝を伝えたかった。彼女たちの幼い理想を受け容れてくれたことに。
隼は、彼の隣に坐った。火の上に簡易炉を置き、お茶を煮始める。
「《タカ》に、産まれたそうだな」
トグルは、眼を閉じたまま呟いた。
「ワシは、ついていられなかったが……。母子ともに元気か」
「ああ、女の子だって。それで、記憶も戻ったらしい。良かったよ、本当に」
「……本人にとっては、どうか。子を産んで、すぐだ。神官に会えば辛かろう」
「でも、それは、鷹が自分で決めなきゃならないことだ」
「……莫迦」
トグルは囁いた。隼は意外に思った。彼がこんな言葉を口にすることは珍しいうえ、笑っているように聞こえたのだ。
トグルはあわく微笑み、膝の上に腕を組んだ。
「トグル?」
「少し寝る……。何かあったら、起してくれ」
隼は、半ば呆気にとられて、腕を枕に眠る彼を眺めた。
自己を省みる余裕もないほど常に駆けつづけてきたトグルが、初めて、休むと言い出した。彼女と、彼が守るべき氏族の前で。そのことが、俄には信じられない。
束の間であると承知している。おそらく、今後の彼の時間のいつをとっても真の安らぎなどありはしない。だが、彼の寝顔に疲労や苦痛がにじんでいないことを確かめて、隼は安堵した。
隼はトグルに寄り添うと、腰に佩いていた長剣を鞘ごと抜き、膝に抱えた。眠りを妨げるものから、彼を護れるように。壁にもたれ、天幕の煙出しの隙間から、星のない藍色の空を仰ぐ。
夜明けには、まだ時間がある。黒馬はうすく積もった雪を掻き、ゆっくり草を食んでいた。




