10.ささやかな意地悪 その一
「あれ、私の書き取り板が無い」
教卓に置かれた箱の中を漁りながら、俺は首をかしげた。
聖なる文字の勉強に使う、書いた文字を消せるあの石版の様な魔道具だ。
「あら、おかしいわね。別の番号を誰か持って行っていないかしら?」
ナリマー先生も顎に指を添えながら、他の生徒を見回した。
クラスメイト達は己の書き取り板を確認し、全員首を横に振る。
「間違えて持って帰ったとかはないと思うけど……」
俺は自分の荷物や机を確認したが、やはりどこにも見つからなかった。
保管時に落っことしたんじゃ、という声にナリマー先生は首を横に振った。
「保管は当然学園内で、様々な魔道具も置かれている部屋は厳重に管理されているはずよ。オーシャ、今日は貴女に運ぶ様頼んだわね、何か見ていないかしら」
「いえ、特には何も……。先生から鍵を受け取って保管質の部屋を開けて、この組が書かれた箱を持って来ただけです。床には何も落ちてなかったと思います。部屋の前には、守衛の方もいましたし」
オーシャは守衛の顔もちゃんと覚えてます、と言った。
「安心して、誰も貴女を疑ってるわけじゃないわ。そもそも私が頼んだのだし。仕方ないわね、今日は先生のを使うといいわ」
ナリマー先生はオーシャに安心させるよう優しく微笑むと、自分の持つ魔道具を俺に貸してくれた。
盗むのが一つだけというのもおかしいし、泥棒ってわけじゃないのかな。
そもそも、この学園に侵入するにも大変だろうし。
騎士だらけに魔道具での監視、エリートな教師陣の包囲網を掻い潜るのは楽そうではない。
原因の解明は先生達に任せればいいか。俺は授業を始めるナリマー先生へと顔を向けた。
書き取り板の紛失から一ヶ月程たったが、結局見つからずじまいだった。
保管室も隅から隅まで調べたそうだが、どこの隙間にも他の荷物の下敷きにもなっていなかったらしい。
俺は新しい書き取り板を支給されたが、先生達はこれからも調査はすると言っていた。
他の組では幸い紛失事件は起こらなかった。
今日は授業は休みだ。
なのでちょっと試したい事があって、俺は果物ナイフを手に持ってうろついている。
傍から見たら危ない人物に見えるかもしれない。人が少ない場所を探してはいるが。
「あ、あれ丁度いいかも」
学園の敷地内はきちんと整備され、掃除も行き届いている。だけどやっぱり風で飛んでくる落ち葉や折れた枝なんかはあるもんだ。
俺は葉のついた木の枝を拾うと、葉と枝に小さく傷をつけた。
そしてその傷に片手を翳し、手のひらに力が行く様集中する。
光の玉が生まれ、その光は葉と枝を包みこんでいる。
光を消して手をどかすと、つけた傷は消えていた。ふーむ。
今度は地面に這い蹲るようにして、あるものを探す。あった、虫の死骸だ。
さっきと同じ様に光を翳す。手を離すと、今度は何も起こらなかった。やっぱ死体は駄目か。
木の枝は完全に死んでるって扱いじゃないのかな。
果物ナイフを拭き、ちょっと自分の指に当てる。先っぽで突くと、小さな血の玉ができた。
光を当てる、傷はすっと消えた。できた血の塊はそのまま残った。
俺はそれを舐め取ると、果物ナイフを鞘にしまった。
これいつもの勝手に治るやつなのか、出した光で治ったのかはわからないなあ。
うーんと考えていると、背後から声がかかった。
「こんな所で何をされているのですか、ノイルイー嬢」
振り向くと、前に木剣で打ち合いを頼んだローシオンと、知らない騎士が手を振りながらこちらに歩いてきていた。
「ローシオン様」
「お久しぶりですね、今日は休みですか?」
「はい、ローシオン様も元気そうで何よりです」
俺の言葉に、ローシオンの横にいた騎士がぷっと吹き出した。
「ああ、失礼。私はローシオンの同僚、エヴィと申します。彼よりは少し年上ですが、友人でもあると思っていますけどね」
柔和な笑みを見せる。
肩くらいの柔らかそうな髪をゆるく後ろで束ね、優しげな、そして例にもれず整った顔をしている。
ローシオンがそういえば、と俺に顔を向けた。
「先日、騎士団視察の日の際に来ていましたね。少し騒ぎになっていた様ですが」
「あー、見られていたんですねあれ。お騒がせしてすみません」
発端俺じゃないけど!
「本当は、貴女達が貴族らしき方達に絡まれているのを見て前に行きかけたのですが、ライアール様が出て行かれたので」
「仕方ないよ、ライアール様とパルデリオン司祭様がおられたんだ。我々の出る幕はなかったさ」
エヴィの慰めに、それでもローシオンは少し悔しそうだった。
真面目なんだなあ。気にしなくてもいいのに。
「お二人は巡回ですか?」
「ええ、と言いたい所ですが二人とも修練場に緊急呼び出しされた所です」
「緊急?何かあったんですか?」
「化物が修練場で暴れていましてね」
「おい、失礼だぞ」
ローシオンがエヴィを嗜める。化物って、そりゃ大事じゃないの……?
それにしては二人とも、急いでる感じはしないけれど。
俺の不思議そうな顔に、エヴィはいたずらっこのように笑い、
「本堂の団長が抜き打ちで、ここの騎士団の武力調査に来ましてね。ライアール様のとこの団長です」
と種明かしをした。
「そういう訳で、名残惜しいですが失礼しますね」
「私達が着く前に、どうせ他の団員達が次から次へと捕まって投げ飛ばされているだけですけどね」
礼をするローシオンにエヴィは苦笑しながらも倣って礼をした。
俺もぎこちないながらも淑女らしいお辞儀を返す。
それにしてもその本団長の呼び名と、暴れっぷりは気になるなあ。
二人を見送って、また虫でも探そうと地面に視線を落とした。
瀕死の虫とか流石にいないか、本当は虫より人に試したいんだけど。
程よく怪我を負った、失敗してもがっくりしない程度の人いないかなあ。
外出許可貰って、医院や神殿にお見舞いのふりして行ってみようか。
医院は薬師や医療を学んだ医術者つまり医者がいて、神殿は神の御許により神官が治療してくれる。
でも冷やかしで行っていい場所でもない気がするし……。治しても治さなくても悪い気がする。
外出届出して、とりあえず町へ出てみようかな。ぶらぶらしてみるだけでもいいし。
そうと決めると、さっそく行動に移した。
今度はちゃんと大通りのみ歩くぞ。何かあったら、巡回騎士に着いて来て貰うぞ。
しばらく歩いて町の喧騒を眺めていたが、幸い何事もなく時は過ぎていった。
ふと前に来た宿屋兼酒場の前まで来ていた。今日は特に用もないし、入らない。
店の脇には酔っ払いが建物に寄りかかり、何事かぶつぶつ呟いて座り込んでいた。
その酔っ払いの前には、呆れたように腕を腰に当てた男が立っている。
「お前早くに飲みすぎだぞ、いい加減にしろよ。ふられたくらいで何だよ、次いけ次」
目の前に立つ男の言葉に、座り込んだ酔っ払いはうるへえうるへえと、呂律の回らない言葉で文句を言っている。
立つ男は付き合ってられないとばかりに、店の中へと戻って行った。
酔っ払いの男は、説教する男がいなくなった後も気付かずにずっと同じ言葉を繰り返していた。
「結構できあがっちゃってるな~」
俺はその酔っ払いに近付いた。酔っ払いは傍に来た俺に気付いた様だったが、ちらっと見ただけで俯いてしまった。
そのまま動かなくなった、と思ったらいびきが聞こえてきた。
これはいいチャンスなのでは。
俺は「も~お兄ちゃんは~」などとうそぶきながら、酔っ払いの前でしゃがみこんだ。
介抱している様にそっと肩と腕に手を添える。
優しく優しく、力よ流れろー。
力が流れていく様をイメージし、酔っ払いの過剰摂取したアルコールを光に吸収して蒸発させてどーのこーの。
などと難しい事は考えられない。何とかデヒドとか血管が膨らんでーとかテレビでしか見た事無いし。
あ、それは二日酔いだっけか。
ただ普段の姿に戻ればいい、と思いながら。
顔を覗き込むと、酔っ払いの赤から青になりそうだった顔色は通常に戻っていた。
早かった呼吸も、普通だ。
「う、……う~ん」
あ、やばい。起きそうだ。
薄っすらと開けられた目も、瞳孔は大丈夫か目は回ってないか確認して、呆けている間に俺は建物の角に身を隠した。
後ろから覗き見て、様子を伺う。酔っ払いだった男はきょろきょろと首を動かし、頭を捻っていた。
「おーい、大丈夫か。……あれ、何だ酔いさめるの随分と早いな」
説教していた男が戻って来た。
酔っ払いだった男は目をぱちぱちしながら、すっと立ちあがるとぼそりと呟いた。
「何か、女神様が目の前にいた気がする……」
「何言ってんだお前。やっぱまだ酔ってるな」
「いや本当だって、それに凄い気分すっきりしてるし。腰痛も消えてるし!」
あ、腰痛もあったんだ。っていうか女神って!夢で見た女神とでも間違えたのかな!
ぎゃあぎゃあ言い合っている二人から離れ、遠めにも見えなくなった所で一息ついた。
あれはじゃあ、治せたって事でいいのかなあ。
自分の両手を見やり、わきわきと指を動かす。
いい練習場かもしれない。
俺は離れた宿屋の方向を見つめた。
それから何度か外出届を出しては、あの宿屋へと向かい意識のない酔っ払いを介抱していった。
確認する際、たまに姿を見られたが相手は酔っ払い。酒のせいで幻覚を見たのだとごまかせる。
実際、もう抜けてるアルコールのせいにして、いい夢を見ただの酔いすぎて幻見ちまっただのぼやいているのも確認している。
ただやはり別の人間が何度も似たような幻覚を見る事をいぶかしむ人間もやっぱり出てきていて、界隈で酒の精霊とか酔っ払いの女神が出るとか変な噂が流れてしまっていた。
ってか酔っ払いの女神って、酔っ払ってちゃ駄目じゃん!酔い醒ましの女神とかでしょ、そこは。
でもそろそろここ、潮時かもしれない。
外傷や痕、何かしらの持病も治ったって人もいて、わざと酒をがぶ飲みする人が出てきそうだし。
それじゃ本末転倒というか、実験体にわざわざなって欲しいわけじゃないし。
ぶらぶらしながら、またどこか探そう。
しかし酒場探しする十三歳の少女って、どうなんだ。
その後、俺は酒場だけに絞らず、転んだ子供とか殴られて失神してる人とか、あまり身ばれしなさそうな人達の怪我を治していった。
明らかにこいつに関わったら不味いんじゃないかっていう輩には、さすがに触らずにいたけど。
この町は大聖堂のお膝元なだけあって、そこまで困窮して倒れてる人は、目に見える限りではいなかった。
治安も騎士団が多くいるせいか、いいし。
ただどこにでも裏はあるだろうし、本当に見えていないだけかもしれない。
先生だって、裏通りは行くなって言ってたし。
今度学園の保健室とかも覗いてみようかな。
俺は気軽な気持ちで、町をさまよっていた。




