第二十二話「衝突」
ガエタノのもとから帰ったルカヤは、家に着くなりソファに倒れ込む。
同じ場所を占領するのはニガテだ。だが今日は違う。
「鉄道ってあんなに混み合うものだったっけ」
寝そべったきり、なかなか起き上がる気力がわいてこない。
短い時間とはいえ、狭い縦長の車内でぎゅうぎゅうに押しつぶされた。
こんな経験は、あのバスに乗り込んで以来だ。
思えば、事故に遭ってからもう約六年になる。
大学への登下校に鉄道は利用していた。
ひとりで乗ってみて、初めて理解した。今まで息苦しさを味わわずにいたのは、常に兄がルカヤの後ろにたっていたからだ。
自ら人の壁となって、ルカヤが人混みに潰されないようにしていたのだ。
壁にかけた時計をみれば、長い針が6を、短い針が5と6のまんなかにさしかかっていた。
兄の仕事が終わるまで三十分だ。
「五時に帰ってきたのに」
いつもそうだ。嵐を過ぎ去るのを待つように、ぼうっと構えているうちに、予想もつかないようなことが過ぎ去っていく。
準備をしなくてはならない。
嵐が来るのならば、窓が割れないようにダンボールで塞ぐぐらいはするべきだ。
100パーセント守り切れるとは限らないが、損害の軽減にはなる。
ルカヤは携帯を手に取った。
気疲れで頭が回らない。文章は素っ気なくシンプルになった。
内容は二つだ。
既に自力で帰宅したこと、今日は試験で学校にいくというのは嘘だったことだ。
「兄さん、怒るだろうな」
静かな一室にやたら独り言をこぼす。
祖母の家に居たときは、呼吸ひとつさえ縮めていようとしていたのに。
頭が熱い。疲れのせいだ。
ルカヤは肩にのしかかる疲労を和らげるために、目を閉じた。
◆◇ ◆
「よォ眠り姫。気分はどうだ?」
まぶたをあけた時、兄のアシンメトリーな微笑みが視界いっぱいに広がった。
垂れ気味なまなじりに飾られた青い瞳は、冷たくルカヤを見下ろしている。
どうやら疲れが睡魔を呼び、ルカヤは眠りこけていたらしい。
「……ごめん」
「寝入ってたことか? それとも、オメーを案じるお兄様に嘘ついたほう?」
――やばい。
ルカヤは水をかけられた猫のように飛び起きる。
兄がルカヤを他人のように「オメー」と呼ぶのは、完全におかんむりなサインだ。
「どっちも、です」
「敬語になるぐらいならやるな」
「そういうわけにもいかないの。わたしも……考えなくちゃって思って」
ソファの上で膝をかかえ、丸くなる。
突き刺さる兄の視線に対する防御姿勢だ。
庇護の対象であった妹からの拒絶反応に、兄が息をのむ。
「どういうつもりだ」
「理由から話そうと思うのだけれど。わたし、学校の成績が芳しくないの。何年も留年すればいずれ合格できるのかもしれない。でも、消費する時間と成果が釣り合うのかな? 考えて、考えて……」
「学校、やめたいのか。別にいいぜ。大学卒業者なんか珍しいんだから、恥じる必要もない。気にすんな」
「ありがとう。でも、学生をやめたら、また次にならなきゃ。そうでしょう?」
「焦んなよ。モラトリアムも悪くない。お前はずっと頑張り続けて大変だったんだから、休んだっていいんだ」
エヴァンはあくまで、妹をいたわる兄の台詞を口にする。
甘い言葉だ。
まさにルカヤの全身は倦怠感に包まれている。もしもこれが真の気遣いだと知っていれば、流されるまま頷いてしまっていた。
(わたしがいいだしても、兄さんは何も教えてくれないのね)
ルカヤは悲しみに眉を下げる。
ルカヤは、兄のなにもかもルカヤの都合のよいように働こうとする姿勢の裏に、たくさんの秘密が隠されていると知っている。
収入は完全に兄だより。
ルカヤが学校という外部との繋がりを失えば、ルカヤの命運はエヴァンに握られる。
兄とはいえ、支配への本能的な恐怖が、ルカヤを行動的にさせた。
「あのね。いい話が来てるの」
「……何?」
「大学の先輩がね。わたしを雇ってくれるって。シフト調整もしやすくて、お給料も悪くないって。だから」
冷や汗がでる。心臓が痛い。吐き気すら催す。
兄は不機嫌をあらわにして、気配でルカヤにぶつけてくる。
めまいのする脳みそをたたき、蚊の鳴くような声で、ルカヤは兄に反逆した。
「ずっと、兄さんの世話になるわけにもいかない。兄さんには兄さんの、わたしにはわたしの人生がある。立派に働けるようになって、稼ぎが増えたら、この家を出て自立したい」
ギリギリで、家族らしいなごやかさを保っていた空気が、音を立ててひびわれた。
エヴァンが靴の先端で、椅子の脚を苛立たしげにノックした。貧乏揺すりの代わりみたいに。
「信じられねえな」
呟きは誰への一言か。
「いつ、どこで、そんな判断力を拾ってきたのか。オレの妹は素直で可愛いイイコだったはずなのに。大学で学ばせたのは医学でなく、毒になっちまったかよ。仕方ねえ子だなあ」
「兄さん……?」
ゆっくり。ゆっくり、兄は独りごちる。
穏やかに聞こえるリズムは、中学生の頃、豪雨の夜に聞いたのと同じだった。
「――ルカヤ。バカかお前は?」
間をまたず、あのときと同じように、エヴァンは怒りを爆発させた。
椅子が蹴飛ばされ、床に転がる。
けたたましい異音に逃げようとしたルカヤの腕を、エヴァンの節ばった手がちからまかせに掴む。
兄の手は簡単にルカヤの二の腕を一回りした。
手首であれば、片手でルカヤの両手首をひとまとめにできそうだ。
「お前に正しい判断ができるとでも思っているのか? 今までの自分を思い出してみろよ。ババアにクソみたいな言いがかりで侮辱された時、一度でも適切な方法で解決できたか? 公園での木登りで、やめろっていったのに聞かずに落ちかけたのは?」
「それは、昔の……」
男らしい指は見た目以上にちからづよい。
骨がミシミシと傷むようで、ルカヤは眉間を寄せ、苦悶の表情を浮かべる。
ルカヤの弱々しい反論にかぶせるように、兄は続けた。
「成長したとでもいいてえのかよ。俺に言わせりゃお前は何年経っても小さいお姫様のまま。生きるってのは家事ができりゃいいってもんじゃねえんだぞ。
独り暮らしのための煩雑な手続き! 安全でぼったくりでない不動産の見つけ方! 女ひとりで生きるための防犯! もっとあるぜ。できんのか、ええ?」
「…………」
エヴァンの指摘はもっともだ。
ルカヤは金さえ稼ぎ、必死に生きればなんとかなると漠然と信じていた。だというのに、具体的な問題を出されると、だんだん不安の種が芽吹いてくる。
「お前は真面目だ。善良だ。わかってる。だがぼうっとしていて、流されやすい。世の中には悪い奴がいて、お前みたいなのを手酷く利用しようと狙ってんだ。仮にお前が十全に気をつけ、出会いに恵まれたとしても、バス事故みたいに唐突な不幸に襲われたらと思うと」
凄まじい勢いでまくしたてたせいで、兄は息切れをしていた。
ルカヤの前で不格好を晒すのは非常に稀だ。
腕の痛みも忘れ、かさついた白い手に、自らのてのひらを重ねる。
「ルカヤ。もしそうなったら、俺はどうすりゃいい」
「……ごめん。兄さん。そこまで心配してくれるとは思ってなかったの。わたしが浅慮だった。ごめんなさい。別に、家を出るのは今すぐの話じゃあないから。安心して。もう少し考えるよ」
プライドの高い兄がこうべを垂らす。
参った様子をさらけだす兄に、ルカヤの胸がガラスの破片をまき散らされたように苛まれた。
「ああ。そうしてくれ。俺も考えるから」
「うん。あと、その。手を離して欲しい……痛いの」
ルカヤの要求に、兄はぱっと手を離し、腕を解放した。
ほとんど『飛び退く』といっていい勢いだった。
エヴァンの手がのくと、ルカヤの二の腕には痛々しい真っ赤な手の痕が残っていた。
「お前。いつのまにそんな弱くなったんだ」
エヴァンの問いかけは、打って変わって重々しい。呆然と、綺麗な青い目が揺らいでいた。
ルカヤは火傷じみた色に染まった腕をなでさすっていたが、きょとんと首を傾げた。
「兄さんはもう成人男性で、わたしは女だもの。ちからの差ができるのは当たり前だよ。気にしないで」
「……悪かった」
小さな謝罪を残し、エヴァンはリビングを出た。
ルカヤから逃げるかのように。
あるいは逃がすように。




