第九話「逃げ場」
祖母は歳を重ねるごとにテレビの前に座る時間が増えてきた。
その後ろをそっと通る。
テレビからは老若男女の歓声が聞こえてくる。
横目で画面をのぞきみると、二人のシェフが並んで色とりどりの食材を切り刻んでいた。
祖母がテレビの真正面から動かないよう信じて、キッチンのガスコンロを点火した。
今日は兄がカウンセリングに行く日だ。
どうしても落ち着かない。
食器棚からペーパーフィルターを、冷蔵庫から円柱の筒にしまわれたコーヒー粉を取り出す。
コーヒーを煎れるという行動事態がしたかった。
もう幼い頃に過ごした生身の母との思い出は薄れかけている。
そのなかで、コーヒーのいれかたは数少ない母直伝のわざだ。
サーバーにドリッパーをつけ、木のスプーンで粉をいれる。軽く三杯。
重いやかんを空中でささやかに傾ける。小さな滝を作るように丁寧に。
平らに整えた粉のうえで、湯の注ぎ方は日本語の「の」を書くように。
うずまき型に、ぷくぷく可愛いベージュの泡がたつ。
目当ての量を煎れ終えたら数分放置だ。
これで中身の濃さが均一になるらしい。
待つ間にエヴァンからメールが来ていないかチェックする。
兄は喫茶店で昼食を食べたあとに、カウンセリングを予約したと言っていた。
時計は一時半をさしている。
エヴァンは今頃、先生と話しているのだろうか。
手に持った携帯でカウンセリングについて検索してみる。
専門外なルカヤでも理解できるような優しい解説を選んで、ページをクリックした。
ネット上の辞書で出た意味は「心理相談」だった。
依頼者がかかえる懊悩などを、本人自身が解決できるよう手助けする方法なのだという。
スクロールしていると、メールの着信を知らせるアイコンが画面を遮った。着信メロディは切ってある。祖母には聞こえていないはずだ。
メールアドレスは母だった。
あんな時間があった後だ。エヴァンの経過が気になるらしい。
ルカヤは逡巡してから、返信を書く。
エヴァンはルカヤより年上だが、未成年だ。一般的に両親の保護下にある。
場合によっては、保護者である両親の名義が必要になるかもしれない。
ルカヤはエヴァンにカウンセリングを勧めたことについて、知らせておこうと思った。
昔から文句をいいながらも祖母を切り捨てない両親に、疑念を抱かなかったかといわれれば嘘になる。
だが祖母を置いて家に帰ってこないのは、両親自身の心を守るためだろう。
金銭的な援助は余るほど与えられている。
ルカヤに対しても、明確にルカヤたち子どもを犠牲にするようなことをされた覚えはない。
少なくともルカヤの記憶上はそうだった。
何度も「祖母には言わないでくれ」と念押しをして、送信ボタンを押した。
お気に入りのマグカップになみなみと飲み物をいれて、逃げるように自室に戻る。
内鍵もしめる。兄が帰ってくるまで、部屋を開け放っておく気になれなかった。
祖母はノックをしない。
机の脇につんだ読みかけの本から適当に一冊抜き取った。
ページをめくろうとする。いつもなら安らぎをくれる生成りの紙と凜と整列した文字列が、目に滑ってあたまに入ってこない。
いっそ自分から電話してしまおうか。
いや、先生と話しているまっさいちゅうだったら迷惑になってしまう。
そわそわとしていたから、兄の名が電話に浮かんだ時は過敏な反応をしてしまった。
電話越しのエヴァンの声は拍子抜けするほど穏やかだった。
トラウマを直視するなどして不安定になっている様子はない。
『終わった。だいたい40分ぐらいで帰るぜ。とちゅう買ってきて欲しいモンあるか? 冷蔵庫の中身、忘れちまってよ』
「あ、うん。昨晩に買い込んだから、夕飯はなんでも作れると思う。えっと、それよりさ。どうだった?」
いきなり生活の話になるとは思わなかった。
単刀直入に切り込めば、エヴァンも具体的に言うことがないようだった。
ザザザとノイズが挟まる。
背景にカップルが大声で雑談している声が入った。あっというまに小さくなってかき消えた。エヴァンは外を歩きながら話しているようだ。
『まあ、普通に話しただけだ。拍子抜けしたぜ。検査とかがあったわけでもねえし。椅子に座って、最近あったこととか、好きなもの嫌いなもの、学校とか……とにかく普通の世間話してた』
「そうなんだ。嫌なことはなかった?」
『なかった。まあ、お前は気にしなくっていいんだぜ』
「うん……」
『本当だ。あー……劇的になんかあった、ってわけじゃあねえが。不信感はなかった。そういう意味じゃあ、確かに十分過ぎるのかもしれねえ』
兄の言う意味はよくわからなかった。
それに「ああ、よかったのだな」と胸を撫で下ろす。
意味が理解できないのは、兄が言いたいことが、普段ルカヤに話さないようなことだからだろう。
それを話せる相手なのかもしれないのだったら、兄のいう通り、じゅうぶんな成果といえた。
「兄さん。私、兄さんを待っている間にカウンセリングについて色々調べてたんだ」
『へえ』
「でね。イタリアでは、バザーリアっていうお医者さんが精神科病院の開設を禁止したっていうのを初めて知ったんだ。バザーリアの言葉にこう思ってたらしいんだ。【人は自分の狂気を共存でき、人生の主人公として生きることができる】」
『狂気?』
「うん。狂気っていうのが私達がうまくできない色んなことなんだとしたらさ。私達、大丈夫だよね」
うまく言い表せない。
「今まで通り、こうして家族として……幸せに生きられるよね。ずっと。一緒に。頑張って生きてるんだもの」
果たして兄は狂気と共存できるのか。
携帯を握りしめる。
大丈夫よね、ともう一度言った。自分に言い聞かせるぶんだ。
今まで通り、エヴァンとあたたかな日々を過ごし、コーヒーを飲む生活を、家を壊したくなかった。
見えない未来に曇る心を、かぶりをふって追い払う。
ルカヤはわざと口角をつりあげ、声のトーンをあげる。
「ああ、こんな話、いつまでしててもよくないよね。今日のお夕飯の話でもする」
『そうだ、その話だ。なにかリクエストでも? 兄ィはなんでも作れるぞ』
「ていうか今日は私が作ろうか? 疲れてない?」
『夕飯はオレの当番だろ。ババアが怪しむ。さて、どうするか。ラザニアでいいか?』
ルカヤは本を閉じる。
目線をあげると、目の前でドアノブが回った。
内鍵がかかったままなので、ドアは開かない。
「あれ。兄さん? まだ外だよね?」
エヴァンとまだ繋がっている電話の背景は、雑踏のざわめきが絶えず続いている。
ガチャガチャ。またドアノブが動く。
先ほどより乱暴だ。苛立ちが伝わってくる。
扉越しに、久しくきいていなかったしわがれた声が響いた。
「ルカヤ。出てきなさい。どうして家族に恥をかかせるのか、躾をしてやらなくちゃならないようだからね」




