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五稜郭

ピクシブ等から転載。

 第6話です。

 箱館政府の人達と、いろいろありながらも穏やかな日を過ごす勇。

 雪の舞う箱館で、新選組や伊庭八郎たちとのほのぼのとした日。

 

 

「土方君」

 五稜郭の中、箱館奉行所の廊下である。

今ここは旧幕府軍の本陣になっている。今がたし幹部の会議が終わって土方が部屋を出たところ、追いかけてきた榎本に呼び止められたのだ。

「何ですか?榎本さん」

「勇君は元気かね?」

榎本は側に寄ってきて小声で話す。

「元気にしておりますが、何か?」

 表情を変えることなく土方が答えた。

「一度連れて来てくれないか?聞きたいこともあるし、何より彼女に会いたいんだが」

 一瞬、土方は渋い顔になった。榎本には気づかれないようにすぐ表情を消す。

「榎本さんの希望とあれば言ってみましょう。しかし、何用で?あいつは来るだけで波風を立てますよ」

「そう言いなさんな。あの子を独り占めして欲しくないな」

ポーカーフェイスを装っているが土方は心中ますます渋い顔になる。

「分かりました。近日中に」

 それだけ言い置くとさっさと立ち去ることにした。はっきり言って気分は良くなかった。


箱館の大町にある網元万屋の箱館の出店、丁サ。

 蝦夷で一、二といわれる豪商である佐野専左衛門のその店は大きな店構えの建物で、その奥にある離れに土方は居を据えた。

 母屋との間にある板壁の渡り廊下を過ぎ、十畳はある書院造りの部屋と、その部屋に控え間のように隣り合う三畳あまりの小さな部屋がその住まいである。

 もちろん三畳のスペースが勇のものだ。

 とはいえ、土方がいないときは間の襖を開け放ち一部屋として使っている。

 そして、今日。万屋の離れに一人で勇はいた。

 今日は陸軍奉行添役介として野村にどうしても抜けられない用事があるとかで、絶対に外出するなよと強く命じられていたために、大人しく部屋にいるのだ。

 そして、万屋に一人でいることで気がついた。自分はこの場所では何もすることが無いことを。自分はこの時代に何も持たない。過去も、やるべきことも……。

……寂しい。

 そう思った。

 自分がこの時代にもつ関わりはあまりに儚い。土方は許嫁の先祖というだけで、しかも直系ではないのだ。島田達にいたっては自分が所属している組織の前のトップであった人間の末裔というほとんど無いようなつながりだ。なのに何でここまでしてくれるのだろう。

 もともと勇は人とのつきあいでは距離を取る癖がある。

 人に対して穏やかな物腰、親切に付き合うのだが、心のなかに壁を作る。

 相手に直接必要以上に踏み込むことはない。何かあると自分から引いてしまう。

 唯一心を開いていた歳也にさえも中三の冬、ほんの些細なことから心を閉ざしてしまった。

……あたしは、人とのつながり、絆なんてもってない。この時代に、ううん、元の時代にだって人とつながることを、関わることをなるべく避けてきだんだもの。あたしには何にもない。ひとりだ……。

 膝を抱えて部屋の隅にうずくまる。

 そして、目を閉じた。

 耳元に歳也の声が響く。

「俺にならいいのかよ」

 あの日歳也が言った言葉が耳に甦る。

 自分が何を言ったのか……。もう、記憶さえおぼろげだ。たぶん自分のことを面倒見てくれるんだよねと言ったのではなかっただろうか……。その言葉に返された拒絶とも言える言葉。

 唯一、心に抱えていたことを率直に言えた歳也が言った言葉。

 多分何気なく、冗談半分に言ったのであろうその言葉は、勇の胸を深くえぐった。

 その時、唯一歳也にだけは開いていた心に、一人では乗り越えられない高い壁ができてしまった。全ての方向に壁ができて行き場の無くした心はもはや立ちつくすしかない。

 今になって考えてみると。

 あの時、口調は責めるものじゃなかった。

 きっと、歳也は期待していたのだ。「トシにならいいんだ」という答えを。わがままを……愚痴を不安を言うのは自分にだけだと言って欲しかったのだろう。

 でも、その時できたのは、

「そうだね。無理は言えないね」

と、言って微笑むことだけだった。 

 そして、それ以降。

 勇は歳也にわがままを一切言わなくなった。愚痴さえも。いや、心に思うことも率直に言えなくなった。何かあっても今一歩退いた態度になる。

 そんな変化を感じたのだろう。歳也は何度も歩み寄ってくれたのだ。そう、何度も。

「お前は、俺には何を言ってもいいんだ。わがままだって、愚痴だって、泣き言だって。何言ってもいいんだよ」

 そう、何度も言ってくれた。

でも、勇はもう自分で壁を越えることはできなかった。ただ、ふわりと笑うしかできなかったのだ。

……人の心に、踏み込むことはしたくない。

 臆病なのだとわかっている。でも……。

歳也の日焼けした顔が浮かぶ。栗色っぽい髪も少し色の薄い瞳も。

 ただその瞳が曇るのを見たくなかった。

 中三の夏に、二人浴衣がけで出かけた近くの神社の夏祭り。その時交わした綿アメの味のするキスも、肩を怪我して野球をやめるとき、一緒に見た多摩川の流れも今は遠い。

 キスの後、照れて鼻を右手で掻きながら

「あやまらねぇからな」

と、ぶっきらぼうに言う口調も、川原で、

「一つのドアが閉まったってまだいくつもドアはあるはずさ」

と、静かに見つめながら言ってくれたことも今となっては帰れない場所だ。

勇には過保護なくらいの世話焼き。小さい頃から勇がちょっかいかけられていれば飛んできて、自分が殴られても決して退かない歳也が勇は大好きだった。

 だからこそ、自分は函館行きの旅行を計画したのだ。許嫁などという絆を断ちきる決心をするよう仕向けるために。自分から自由になって欲しくて。

 なのに最後は喧嘩腰で別れてきていた。

……バカなこと言った。トシが部活に一生懸命なのわかってるのに。

 あの夏の日。

 勇が函館に行こうと言ったのを歳也はちらりと考えて、こう言ったのだ。

 部活で行けねぇ。

 二人だけで行くと言ったのに。

 いや、二人で行くと言ったからか。

 心に決めて、ずっと準備してきていたのだ。 それを一瞬で無いことにされてしまった勇は思わず叫んでしまったのだ。

 トシのバカ、と。

 心に刺さって取れない棘のようだ。

 後悔だけが渦を巻く。

 あんなこと言わなければよかったのだ。

 そうなら……、きっとトシの心にいやな思い出を残さずにすんだ。  

「トシ。今、何してる?」

 小さく呟いた。

無性に歳也に会いたかった。


 土方が五稜郭から戻ってきたのは日も暮れてしばらくした頃だった。

 万屋の各部屋にも明かりがともっている。 土方は迎えに出た女将に一言挨拶をして離れにある部屋へ向かう。

「ん?」

 自分の部屋が暗い。

 行灯が灯っていない。

「勇は出かけているのか?こんな遅くに」

 独り言を言いながら障子を開ける。

 火の入っている火鉢に鉄瓶がかかっている。

「?」

 不用心だなと思ったとき、感じた人の気配に思わず腰を落とし鯉口を切る。

「歳三さん?」

 小さな声がする。

 驚いた。まさかいるとは思わなかった。

「明かりもつけずに何してるんだ」

 火鉢から火を取りながら行灯に火を移す。

「明かり……つけないで」

「何言ってやがる。暗くちゃ何も出来ねぇだろうが」

 そう言いながら振り向いたとき、部屋の隅で膝を抱えてうずくまる姿が目に入った。

「今の顔……見られたくない。見ないで……」

 その言葉を無視して土方は勇の顎に手をかけると顔を上げさせた。

潤む瞳に、噛みしめて血のにじんだ唇。

 土方の軍服は整えられている。

 一人でいると折れてしまいそうな危うさが今の勇にはある。

 土方はため息をついた。

 五稜郭に連れて行くことを考えた方がいいのかもしれない。

 一人放っておくにはあまりに痛々しい。

「しょうがねぇな。明日、俺と一緒に五稜郭に来るか?榎本さんが会いたいってよ」


土方の後を、洋装の新撰組隊士の服装を身につけた勇が付いて歩いている。

土方が勇を五稜郭に連れてきたのだ。

 五稜郭入城の時以来である。しかもあの時は熱を出して意識のない状態で背負われていたために周りの目を引くことはなかった。怪我人と同様に見られていたからかもしれない。起きあがれるようになったとたん松前へ旅立っていき、その後は新撰組の屯所にいた。

 だから、土方の後を付いて歩く勇は恐ろしく人目を引いた。

 短い髪で男みたいななりをしているが、思わず目を引きつけてしまう容姿に生き生きとした眼差し。今開きかけた花のような雰囲気で通り過ぎた後にはざわめきが残る。

「あの、何か言われてますけど」

 勇が土方に声をかける。

 二人を見た者たちが何か言っている。漏れ聞こえるにどうも良いように言われていない。色小姓という言葉が聞こえるのだ。

「いいんですか?」

「言いたい奴には言わせとけ」

 土方は素っ気ない。とりあえず榎本さんの所へ行くぞと、そのまま勇を連れて総裁の執務室へと向かう。面倒ごとはさっさと片づけるに限る、と土方は考えていた。


土方の執務室。

 文机と火鉢と行灯……それだけだ。

 さっきまでいた榎本の総裁執務室と比べなくてもおそろしいほどに素っ気ない。

 土方は先ほどの勇と榎本との話を思い出しながら筆を取っていた。随分色々聞いた気がする。

 榎本は勇の知る蝦夷、いや、北海道についての知識を聞いたのだ。そして勇はいくつかの埋蔵物についての知識を伝えた。

 勇は部屋にいる土方や市村達に茶を出していた。軍務を持たない勇は他にすることがなかったからだ。

手持ちぶさたではあったが市村がなにかれと話しかけてくれて退屈はしなかった。

使った茶碗を洗おうと勇は水場の場所を知る市村と共に部屋を出た。箱館奉行所の長い畳敷きの廊下を歩く。

ふと、聞き慣れない言葉が聞こえた。

その声のする方へ目を向けると、背の高い白人男性が一人の隊士を捕まえて何か話している。しかし、その隊士は話している言葉が解らないようで当惑している表情が離れたここからでも分かった。

 勇はその光景を目にすると目が険しくなった。

 言葉がよく分からないものを捕まえてからかうとは何事か。

「市村君、これ頼むね」

 手にしていた茶碗の乗った盆を手に押しつけた。そしてすたすたと歩くと、困惑している隊士とフランス人軍事顧問のカズヌーヴの間に割って入った。

 くるりと向き直ると、

「そのお話、わたくしがお伺いいたします」

にっこりと笑ったのだった。

 机に向かって筆を執っていた土方だったが飛び込んできた市村にその手を止められた。

「大変です土方先生」

「なんだ、市村」

「勇が、あのっ」

 その言葉にあわてて立ち上がる。

 市村についていくと、すでに二重三重に囲まれた中でカズヌーヴと勇が言い合いをしている。

 知らない言葉だ。

 すらすらとまくし立てる勇に対して、明らかにカズヌーヴの方が旗色が悪い。

「あのちっこいのたいしたもんだぜ」

 横でささやきあっていた隊士を捕まえて問いただす。おかげで大体の所は察しがついた。

 ちょくちょくカズヌーヴはフランス語の分からない隊士達に話しかけ困惑するのを見て楽しんでいたらしいところがある。今日もどうやらそうだったらしいのだが、それを見た勇がくってかかったらしい。

 やがてカズヌーヴが帽子を取ると胸元に当てた。優雅に頭を下げて一礼する。

 一方、勇はむっとしたまま腕を組んでいる。

 カズヌーヴが何か言った。

勇はふくれっ面のまま右手を差し出す。カズヌーヴはその手をとると手の甲にうやうやしく口を当てた。

 姿勢をただすとカズヌーヴは歩み去る。

 その背に勇は思いっきり舌をつきだした。

 勇もくるりと背を向ける。

 周りの人混みからわっと声が挙がった。

「すげえぞちっこいの」

「たいしたもんだぜ」

 人混みを抜けようとするが、あちらこちらから手が伸びて引っ張られようとする。その手を遮ぎり、勇の腕をぐいと引っぱる人がいた。

 勇はそれが土方であることに気がついた。「ひっ土方さん、いつからそこに」

 思わず身を退いて怒鳴られることを覚悟する。

「お前、何を話していた」

「あの、あの方カズヌーヴさんでしたか、分かるはずのないフランス語で隊士に話すので腹が立ったんで……。だから英語で私に話せと言ってやったんですが」

 上目がちに伺う。

「勇、英語が出来るのか?」

 そう聞いてきた市村に向かって勇はにっこり笑う。

「へっへー聞いて驚け、この勇さんはTOEIC八百点なのだよ」

「なんだよ、それは」

 市村がむっとした声で言う。

「イギリスかアメリカなら今すぐにでも生活できるってことなんだ」

 勇が答える。

「お前は英語が分かるのか」

と、これは土方だ。

「何かをするのに支障のない程度には」

「ふむ」

 そう言うと、土方は何か考えているようだった。

 洗った茶碗を手に土方の執務室に戻った勇は土方から一冊の本を渡された。

 中をめくってみると……

「これフランス語だ。私、フランス語はよくわかんないんだけど」

 勇がそういうともう一冊本を渡される。中を見ると仏英辞典らしい。日本のものではない。活字で印刷されている。

「その本を訳せるか」

 勇は二冊の本を暫くの間開いて見比べている。

「んー出来ると思いますよ」

 その日から勇の仕事は、フランス語で書かれた軍事教練に関する本の和訳だった。

 

 勇が五稜郭に何度か来るようになって、土方が勇を手元に置いていることの評価は百八十度変わった。

 最初の頃は、土方が勇を手元に置いておくことに、愛妾を連れているだの色小姓だのと陰口を叩かれていたのだが、松前城攻略での一件やカズヌーヴとのやりとりなどなどが広まるにつれ、使える人間ゆえに手元から離さないのだと皆が納得することになったのである。 

 もっとも、美形ではあるがまったくと言っていいほど艶っぽい色気が無い勇のせいということもあったせいかもしれない。

 その上、先日絡んできた伝習隊の隊士を五六人蹴り飛ばしたことも手伝って女と見る向きは一気に萎んだ。

 勇にとっては嬉しいことだ。自分のことで土方が悪く言われるのは辛かったからだ。

「で、お前はいいのか?」

 土方が勇の入れた茶を飲みながら声をかけた。

いつもの土方の執務室である。

 土方の古くからの知り合いで、隻腕の美剣士といわれた遊撃隊の伊庭八郎がその話を持ってきていたのだ。

 勇が伊庭八郎にお茶うけの菓子を出しながら、

「何がです?」

と、振り返った。

「色気がねぇって言われてんだろうが。」

「ああ、そのこと。その通りですからね。しょうがないじゃありませんか。」

しれっと勇が受け流す。

 思い切り蹴り飛ばされた隊士はその後仲間から目一杯バカにされたと聞く。悪かったかなと思わないこともなかった。

「並の男は勇にはかなわないよな。」

 横に来ていた市村鉄之助は笑いながら話す。

 伝習隊隊士との一件は勇にとって、自分の立ち位置を確認することになった一件だった。

五稜郭に来ることも三度目になったときだった。

箱館奉行所の中では市村が勇に付いていることが多かった。女の身である勇を無防備にしておくことが出来なかったのだ。

「ごめんね、仕事の手を止めさせて」

「いいって。俺は迷惑なんて思ってねぇし。勇も榎本総裁に呼ばれた以上断れねぇもんな」

 榎本の部屋からの帰りだった。

「奉行並の色小姓か。今度は榎本総裁に取り入るのか?」

 歩いているといきなり声をかけられた。

 見ると伝習隊の隊士が五六人こちらを見ている。

「何っ」

 市村が気色ばむ。

「いいよ。ほっておきなって。あたし気にしてないから」

 勇が無視して通り過ぎようとする。

「男のくせに、女の尻について回って格好悪くねぇのか?」

 その言葉に勇の足が止まった。

「その言葉、取り消してもらえませんか」

 くるりと振り向くと鋭い目で相手を見る。

「彼は命を受けてそれを全うしているだけでバカにされるようなことは何もないと思いますが」

「おっ、おい勇」

 あわてた市村が声をかけた。

「市村君は黙ってて」

 相手に向かって一歩踏み出す。

「市村君に謝罪してもらえませんか」

「断る。女の尻の後にいるような腑抜けた野郎に下げる頭はないね」

「そんなことも出来ないなんて、えらく小さいけつの穴ですね。男としちゃ器が小さいな」

 勇はさらりと言ったが、この言葉は利いたらしい。

「なっ、つけあがりやがって」

 いきなり男から手が出た。市村は勇が殴られたかと思った。

 しかし、

 勇は平然と立っている。

 立ち位置は微妙に違う。勇がわずかに体を引きその拳をかわしたのだった。

「そちらが先に手を出したんですからね」

 勇はニヤリと笑った。

 次の瞬間。彼はすいと体を沈めた勇に足を払われて床にひっくり返った。

 その後は市村は呆然と眺めているしかなかった。素早い動きで相手の拳をかわしなから次々と蹴りを入れていく。あっという間に六人の男達は蹲ったりひっくり返ったりしていた。

「逆恨みなんかしないでくださいね。先に手を出したのはそちらなんですから」

 勇は彼らを見下ろしながらにっこりと笑った。

「すごかったんですよ。俺、立場無かったけど。護衛のはずだったのに」

 市村が頭を掻きながら言う。

「ああ、あれは俺も見ていた。いやぁ、面白かったよ。なかなか見られるもんじゃない。」

 伊庭はカラカラと笑いながら、歳さんも見ればよかったのにと言った。

「これ以上頭の痛いことを増やすんじゃねぇ。」

 土方が渋い顔で言った。

 お前のことだと勇に釘を刺す。

「まったく、悪目立ちしやがってしょうがねぇ奴だ。何のためにいろいろごまかしてんのかわかんねぇじゃねぇか」

「ホントに勇ちゃんはあちこちに噂を流すよねぇ」

 くすくすと笑いながら伊庭八郎はお茶をすすった。

 伊庭は食い道楽の気があって食べ物には五月蠅い。けど、勇が買ってきた西洋菓子は気に入ったのだろう。何度も手を伸ばす。そう言えばカステラ好きだというのも聞いたことがあった。カトルカーにしたのは正解だったようだ。

「歳さんが連れてきて以来勇ちゃんの評判はあがりっぱなしだ。榎本さんも勇ちゃん大好きだって?いやはや人気者だねぇ」

 結構笑い上戸の伊庭はこの状態を楽しんでいるようだ。勇の買い込んできた菓子に手を出しながら、そう言えばと切り出した。

「勇ちゃん身が軽いねぇ」

 先日見かけた、勇が町の子供達と遊んでいたことを話し始めた。


 伊庭八郎が隊士と箱館の町を歩いていたときだった。

 雪も止み、眩しい日差しが町に降り注いでいる。子供達の声にふと目をやった。

 目に入ったのは七八人の子供とその中にいる軍服の少女だった。

「あれは、歳さんのことの勇ちゃんじゃないか。何してるんだ?」

 目を凝らすとどうも一つの毬を使って遊んでいるらしい。子供達が勇が手にする毬を取ろうとしていた。勇が毬をつきながらそれらを鮮やかにかわしている。奪うどころか触れさせもしない。腕の上を生き物のように毬を右へ左へと動かしたり、背中に、肩にひょいとのせてかわしたり、また前後左右に毬をつきながら見事に子供達を翻弄している。くるりくるりと回る勇に子供達は歓声を上げながらまとわりついていた。

「へぇ、見事なものだ」

思わず感心して八郎が言ったとき、ぽんっ、とばかりに勇が空に投げた毬は離れたところに立って少し寂しげにしていた女の子の手に収まった。

 勇は周りにいた子供達の頭を撫でると、手を挙げて離れていこうとする。が、子供達は名残惜しいのか服を握って離さない。

 勇が子供達に何か話すと子供達が手を離して離れた。

 そして勇が子供達が見ている中いきなり駆けだした。走りながら手を挙げる。と、地面に手をつくと側転、バク転、前転と続け様に空を跳ぶ。最後は体を伸ばしたままひねりを加えて空中高く一回転して、たん、と見事に着地した。振り向いて見つめていた子供達に手を振る。そしてそのまま町中へと駆け去っていった。


「いゃ、見事の一言だったね」

 うんうんと頷きながら伊庭が言ったのを聞くと、土方はじろりと勇を見た。

「勇ぃ。そんなことやってやがッたのかっ」

「あ、いえ、まぁ……」

 だんだん声が小さくなる。こっそり一人で出歩いていたのを、まさか見られているとは気がつかなかった。

「いいじゃないか、歳さん。勇ちゃん、あれは見事だったよ。おいらも楽しませてもらった」

 八郎が右手で勇の頭を撫でる。 

「お礼といっちゃ何だが、これをあげよう」

 八郎が懐から取り出したのは小さな銀の鈴だった。ちりりり、ときれいな音がする。

「ありがとうございます」

 勇は手のひらの中に落とされた鈴を見て嬉しそうに笑った。

「喜んでくれるとおいらも嬉しいよ」

 伊庭八郎もにこりと笑った。

「たく、どいつもこいつも勇を甘やかしやがって」

 ため息をつきながらも土方の表情は優しいものだった。

そしてそう言う土方自身、万屋に戻ったとき自分の長脇差しから緋色の下げ緒を解くと勇に差し出す。

「これをやろう。俺は別のをつけるから」

と言って。

「これに鈴をつけな。この色はお前に似合う」

 そう言って手渡してくれたのだ。

 もっとも、その後で箱館の町を一人歩きしたことのお小言と頭への拳骨を食らったのは言うまでもなかった。

 その上、島田にお前の監視も命じておくからなと脅しをかけられた。観察方で名を知られた島田魁のことだ。こっそり一人歩きをしようものならあっという間に土方に報告が行くのは間違いないだろう。

 勇はごめんなさいと頭を下げるしかない。

土方は黙って勇の頭に手を置くとぽんぽんとかるく叩いて背を向ける。

 その日以降、勇の腰に巻かれた白帯に鈴の付いた緋色の下げ緒が結ばれた。

幸か不幸か、この日から数日もしないうちに土方や市村達は勇の身の軽さを目の当たりにすることになってしまった。

 もっとも、呆れてしまう無鉄砲さも一緒に、だったが。

「太鼓の音?」

 勇がふと上を見上げる。

「太鼓櫓の太鼓だろ。時を知らせてるんだ」

 市村も上を見上げる。

「太鼓櫓……」

 勇がふと考え込む表情をする。

 その後暫くして勇の姿が部屋から消えた。

「勇はどうした」

 幹部の会議から戻った土方が部屋を見回して問いただす。

「あれ?」

 市村が辺りを見回した。まだ戻ってきていないことに改めて気がついた。土方と共にいるのかと思っていたがそうではなかったのだ。

「探しておけよ」

 土方に命じられ市村は部屋を出る。

 箱館奉行所の建物の中を探し回ったが勇の姿はない。

 市村は焦りだした。

 伝習隊とのいざこざが頭をよぎる。

「もしや……」

 伝習隊の隊士に取り囲まれて連れて行かれる場面が頭をよぎる。

 市村はあわてて建物の外へ出た。

 外は雪が降っている。吹雪いていないのが幸いだが、凍えるほど寒い。

「どこだよ……」

 建物の横に来たとき、ふと視界の端、木立の陰を黒い影が走ったのに気がついた。

……なんだ?

 市村は建物の裏へと回り込んだ。

「?」

 五稜郭外周をぐるりと取り巻いている土塁の下、松の木が生えている。この土塁はかなりな高さがある。見上げるほどの高さの土塁の側へと歩いていくと、その急斜面を駆け上がる姿がある。その姿は土塁を駆け上がって……しかし上までたどり着けずにかなりの高さから滑り落ちてきた。

「くっそぉ。あと少しなんだけどなぁ」

 転げ落ちてきた人影は、起きあがると土塁を見上げながら体についた雪をはたいた。

「五メートルは上がれたんだけどなぁ。あと一メートルがなかなか上がれないや」

 市村はその姿を見て驚いた。

「いっ勇。何やッてんだよ、お前ッ」

 その声に振り返ったのはちょっとばつの悪そうな表情を浮かべた勇だった。

「あれ、市村君どうしてここに?」

「どうしてって、何やッてんだよ」

「いや、この上に上がろうと思って。ちょっと確認したいことあるんだ」

「ちょっとって……」

 市村が絶句する。

「登り口ないかと思って探したんだけど見つかんなくてね。ここが一番傾斜が緩かったんだ」

 見ると斜面に向かって何本かの走ったあとが雪の上に残っている。

「危ないよ。かなり上から転げ落ちてたじゃないか」

「そう、あと少しなんだ。あと少しで登り切れる」

 そう勇は言うと走った跡の先へと向かって歩いていく。

 くるりと振り向いた。

 だっと走り出すが、雪に足を取られたのか派手に転んだ。暫くじっとした後ゆっくり体を起こす。

「笑わないでよ。自分でも格好悪いって思ってるんだからっ」

 思わず笑ってしまった市村に勇は口をとがらせた。スタート地点まで戻ると二三度跳んでみる。

 走り出す。

 速度にのると斜面を駆け上がっていく。

 上に行くにしたがい速度が落ちる。

 手を使って体を上に引き上げるが、もう上がらない。手を上に伸ばしたが指先は雪をかいただけで体を支えられず滑り落ちてきた。

 急斜面を転がるように落ちてくる。

「いたた。これで何回目かなぁ」

 斜面の下、体を起こして見上げる勇に、

「もうやめろよ。怪我するじゃないか」

「嫌。どうしても確認したいんだ。人に言うからには自分でも納得したい」

 そう言うと勇はまたスタート地点へと戻っていく。

「だめだって。見ろよ。手から血が出てるじゃないかよ」

 市村の言葉に勇ははたと手を見た。

 確かに手の甲に血がついていた。

 固い雪で擦ったか、地面からでていた枯れ草ででも切ったか。

「んなもの。平気だよ。舐めときゃ治るって」

 こともなげにそう言うと、血で赤く染まった手の甲をぺろぺろと舐めた。

 かろうじて止まっていた血が再び滲みだす。

 慌てて駆け寄った市村が、懐に入れていたのかサラシを引っ張り出すと歯で裂いて勇の手に巻き付けて縛る。

「もう戻ろう」

「なんで?」

「なんでって……」

「登り切ってないのに。やらなくちゃならないことやってないのにさ」

 勇のこともなげに言い放つ様に、自分ではとうてい止められないと感じた市村は建物の中へと駆け戻る。こうなれば島田にでも頼んで力ずくで止めてもらうしかない。

「島田先生。来てください」

 土方の執務室に飛び込むと声を上げる。

「どうしたんだい、市村君」

「勇の奴を止めてくださいよ。大変なんだ。俺じゃあいつ言うこときかないし」

 飛び込んできた市村に振り向いた島田はその言葉でのそりと立ち上がると部屋を出ていく。

 土方は二人が出ていったのを見るとため息をつき……兼定を手にするとその後を追った。

 島田と市村の二人が奉行所の角を曲がったとき、土塁の上から転げ落ちてくる勇が目に入った。

「何をしてるんだ?」

「上に登ろうとしてるんですよ」

「なんて無茶な」

 再びスタート地点に立った勇に、

「何をしているんだ」

と、島田が声をかける。

勇は上気した顔を向ける。

 着ていた上着を脱ぐと足下に置いた。シャツとビロウドのベストだけである。

「登るんですよ」

 にっ、と不敵とも言える笑みを向けた。

「やめないか。危険だ」

 島田が勇を捕まえようと近づいたとき、走り出した。

 これがきっとラスト。失敗すれば島田に捕まえられる。大柄な島田につかまえられれば逃れることなど無理だ。二度目はない。絶対失敗できない。

 一気に斜面を駆け上がる。

 上に上がり速度が落ちる。

 両手を使い体を引き上げでいたが、止まった。すっと体がさがる。市村が声を上げた。勇はそのままずり落ちそうになるのを手を伸ばし体を引き上げる。

 両足で懸命に斜面を蹴る。そして、指は土塁の上にかかった。両足で体を押し上げ肘で体を支えながら引っ張り上げた。

 とうとう土塁の上に上がった。

 思わず倒れ込む。

「やった」

 立ち上がると足下に堀が広がっていた。

 下から呼びかけられる。

 覗き込んだ。

 両手をふって見せた。

「じゃちょっと用事済ませてくるねー」

 土塁の上を歩く。雪が積もっているから踏み外さないように真ん中を。

 下からはらはらしながら市村は見上げていた。 

 ふいに勇の姿が消える。

 落ちたかと思ったがすぐに姿が見えた。

市村はじっと見上げている。目が離せない。

 勇は足下の雪をよけると地面に顔を付けるように奉行所を見る。

……確かに櫓の一部が見える。これが砲撃目標になるのか。

 五稜郭攻撃について残っている資料に書かれた、太鼓櫓の記載。

 軍艦からの砲撃目標とされた太鼓櫓。

 そのために五稜郭内に着弾した砲弾は何人もの命と箱館奉行所を損なった。

……もし太鼓櫓を今撤去したり低くできたりすれば、箱館総攻撃の時に奉行所に着弾しないですむのかな?

 榎本に言ってみようと思った。

 開陽丸の時は叶わなかったけれど、再び試してみようと思う。悪あがきでも何でもやれることをやろう。

 そう決めると立ち上がった。

「おーい、勇。まだかよ」

 市村が声をかけてくる。

「用事は終わったよー」

 勇は手を上げて答えた。

 その時、

「で、どうやって降りるつもりだ?」

 呆れたような声が下からする。

 ひょいと真下を覗き込むと、腕組みをした土方が不機嫌そうな顔で見上げていた。

 その言葉に改めて足下を見た。

 高い。

 斜度は七十度以上は絶対あるとおもう。

滑って降りようかと思ったが、これじゃ滑り降りるというより落ちるといった方がいい。大体三階ぐらいの高さは過ぎるほどある。

 登っているときはそう思わなかったが、思っていた以上に高い。緩い所を探したとはいえ直角に近い角度の土塁の上で勇は呆然と立ちすくんでいた。怖さがわき上がって足がすくむ。

「考えてなかった」

「まったく……」

 土方は呆れると島田を振り返る。

「梯子を探してくれ。あると思う」

「はい」

 島田は戻っていった。

「待ってろ」

 土方は見上げるとはっきりと命じる。

 勇は膝を抱えて座り込んだ。

 あっという間に汗ばんでいた体が冷えてくる。

 土塁の上は堀を越して風が吹き抜ける。

 寒い。

 歯がなった。

 体が震えてくる。

 見る間に唇は紫色へと変わっていく。 

「島田先生はまだでしょうか。勇、震えてるみたいですが」

「しょうがねぇ。自業自得だ。待つしかないだろう」

 暫くすると島田が長い梯子を持ってきた。 土塁に立てかけてみるがわずかに高さがたりない。

「別のを探してきます」

 島田が戻ろうとするのを土方が止めた。

「無理だ。待ってられねぇ。俺が上がるから島田は梯子が倒れたりしないようしっかり支えてくれ」

 それだけ言うと腰から兼定を抜き市村へと渡す。

 土方は梯子に手をかけると登っていった。

 一段を残すと梯子を足で挟むようにして立つ。土塁の上にいる勇にはあともう少し足りない。

 勇を見上げるようにして言った。

「おい、靴を脱いで下に投げろ。そして俺の肩に足を下ろすつもりで降りてこい」

「ええっ」

「もたもたするな」

 そう言われ、大人しく靴を脱いで下に投げる。腹這いになるようにして体を下ろす。

 土方は手を伸ばし勇の足を掴む。

「よし、思い切って降りてこい。心配するな。落としやしねぇよ」

 滑り落ちるように一気に降りる。気がつくと土方の腕に抱えられている。勇は土方の体にしがみつくようにして梯子までたどり着くと、後はかじかんでよく握れない手で懸命に梯子を握ってゆっくり降りていく。

 下に着いたときにはがたがたと歯が合わないほどに震えていた。

「ひとつ拳固でもくれてやりたいところだがこの有様じゃな。とにかく今は暖めてやるしかないだろうな」

 梯子を降りてきた土方は呆れたように言う。

「市村。おぶっていってやれ。こいつはもう動けねぇだろうからな」

 部屋に戻ると、びしょ濡れになった服を脱ぎ、ブランケットに丸まって火鉢の横に座る。

「で、何のためにあんな無茶をやったんだ」 土方がじろりと睨む。

「太鼓櫓がどう見えるか確認したかったんだ。屋根が土塁から見えると言われてたから。もし本当なら今のうちに撤去できないかなって」

 熱い茶を入れた湯飲みを両手で包みながら言った。ようやく震えが収まったところだ。

「なぜだ」 

「太鼓櫓は……新政府軍との戦いの時砲撃目標になるからだよ」

 市村はその言葉に手を止めた。 

 勇はもう一度賭をしようとしている。それがわかったのだ。

「もし……榎本さんが太鼓櫓を解体してくれたら……。少なくとも何人かの命が助かるかもしれない」

 勇はひっそりと笑った。

 後日に勇は土方と共に榎本の所へと会いに行くことを決めた。

 その夜。

 勇はあまりの寒さに目を覚ました。

 手足が冷たくて眠れない。

 手に息を吐きかけたり擦りあわせたりしてみたが効果がない。震えてしまう。

 元々現代っ子の勇は寒さに弱い。

 いくら万屋が大店だといっても、現代の家屋に比べれば比較にならないほど寒い。暖房器具など火鉢程度だ。

 勇自身暑さには強いが寒いのは苦手だ。しかも、今日は思いっきり凍えてしまった。

 体を温めたつもりだったが足らなかったようだ。布団を増やしたところで意味がないだろう。大体、布団を増やすことも無理だ。布団というのは貴重品で予備なんてそうあるもんじゃない。

 体を起こすと隣の部屋への襖を開けた。

 規則正しい寝息が聞こえる。行灯のぼんやりした灯りにうかぶのは眠っている土方。

十二分過ぎるほどに悩み、さんざん迷ったあげく。

 勇は歩み寄ると土方の横へと滑り込んだ。


 髪の甘い香り。沈丁花の香りのような。

 白くなめらかな肌。

 柔らかなその胸を手でそっと触れる。

 乱暴に扱えば壊れそうなその体が自分の体の下にある。

 指を絡ませた右手。

 右肩に残る傷跡に歯を立てる。

 一つになる二つの躰。

 切なげな表情をして涙を浮かべた少女が小さく声を上げる。

 そのわずかに開いた唇に自らの唇を重ねようと顔を近づけ……

 土方は目を覚ました。

 思わず顔をこする。

「やけに生々しい夢だったな」

 障子に目をやるとまだ暗い。

……もう一眠りするか。

 寝返りを打ったとき、体が柔らかなものに触れた。

「何だ?」

 目の前には何もない。下を向いて布団の中をのぞきこむ。

「なっ」

 飛び起き思わず布団をまくってしまった。そこには、穏やかな顔で眠っている、今見ていた夢の相手、勇の姿。

 一瞬、今までの夢は本当のことかと疑ったが、お互い着物を着ている。そんなことはなかったのだろうと、ほうと息を吐いた。

 一方の勇はこれ以上の安心できる場所はないといった風情で微かに笑みさえ浮かべている。

呆れるというか、呆然とするというか。土方はその姿を暫くぼんやりと見ていた。

「何だな。こんなに無防備な姿で寝てられるってのは、男としちゃ喜ぶべきなのか悲しむべきなのか」

 ため息を一つつくと布団を掛け直す。

 自分も横になるとその体に片手を回して抱き寄せる。

 胸元に感じる寝息に思わずため息が出る。

「この野郎は俺のことを男として見てねぇな」

 どうしてやろうか、と考えるうちに土方は再び眠ってしまった。 

「おはようございます」

 勇の声に目を開けた。

「そろそろ起きてください。軍服はそろえてあります」

 そう言うと勇は火鉢の火を見に離れていく。

 土方は身を起こすと一つ伸びをして立ち上がる。

 帯を解くと着物を体から落とす。

 勇が服を着るのを手伝って、手早く身支度を済ませた土方が思い返したようにじっと見下ろす。

「何か?」

 大きな目で、怪訝そうな顔を向けて見上げてくる。

「いや、何でもねぇよ」

「?」

 不審そうな顔の勇の、頭をぽんぽんと叩くと背を向けた。     

そして土方は出かけて行き代わりに市村が万屋に残った。

「痛たた」

 勇は手を伸ばしかけたとたん体中を走る痛みに思わず肩を押さえる。土方の前では我慢していたが、市村の前では気兼ねなど無い。

「おい、大丈夫かよ」

 市村があわてて駆け寄る。。

「大丈夫だよ。大したことない。昨日あちこちぶつけたからだから」

「高松先生の所へ行こう。な」

 市村が気づかわしげな目で見てくる。

「嫌」

 素っ気なく答えた勇に呆気にとられた。

「何でだよ」

「打ち身くらいほっときゃ直るもの」

「俺が足挫いたときは医者に行けって無理矢理連れていったのお前だろうが」

 思わず声が大きくなる。

「だって市村君の場合、体の不調は命の危機に結びつくけどあたしは違うもの」

「なんだよ、そりゃ。お前自分のことだといい加減だぞ」

「そう?」

 しれっと言う勇に、

「そうだよ。なぁ、どうしてお前人のことになると一生懸命になるのに、自分のことになるとそんなにおざなりなんだよ」

「そうだなぁ。多分自分に執着してもしょうがないからかな?……多分あたしは……もうすぐいなくなると思うから」

 最後の言葉は市村に聞こえないように小さく言った。

「何?」

「ううん、何でもない」

 勇は少し笑みを浮かべて言った。

「だけど、やっぱり行くべきだぜ」

「やだ」

 つん、とばかりに拒絶する。

 勇は医者が嫌いなのだ。今までしこたま世話になってて良い思い出などない。その上身内には何人も医者がいて、やたらとかまわれて気が滅入る。

「何でだよっ」

 堂々巡りの会話が続く。

 結局、業を煮やした市村が走って屯所の島田に相談し、島田は万屋にやってくるや勇を軽々と抱え上げた。何しろ新撰組随一の巨漢で力持ちである。暴れようが足掻こうが何の役にも立たない。

 そして三人は新選組屯所からそう遠くない高龍寺へと駆け込んだ。

 高龍寺は箱館病院の分院だ。

 とりあえず新撰組屯所にある石田散を飲みに行くだけだと聞かされていた勇が謀られたと知ったが後の祭り。変だと思っていたがやっぱりだったともがいたが、身動きなどできるはずもなかった。

 打ち身の治療をされた勇は、数日は大人しくするよう言い渡された。


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