碧血碑
現代に帰ってきた勇。ただ記憶はすっぽりとなくなっていた。外出許可をもらった勇は、歳也と共に箱館山へと向かう。
白い……、しろくて…
まぶしい。
ああ、天井が白い。蛍光灯が眩しい。
「まぶしい……」
あたしは思わず口にする。
目の前にあったのはぶら下がった透明な点滴と真っ赤な輸血用のパック。
あたしを覗き込むのは
「お…かあさん」
あたしの声に母さんは涙をうかべた。
「勇、気がついたのね。よかった。よかった……」
母さんの手があたしの顔を包み込む。温かい手だ。
口につけられた酸素マスクがうっとおしい。
一週間も意識が無く一時期は命も危なかったと母さんが言う。
つい、二三日前にCPUから出たばかりらしい。
見ると胸にはコードが張り付けられ、腕には血圧計がつけられている。体につながる何本ものチューブにコード。
「ここ、どこ?」
あたしは不思議に思ってたことを口にする。
「函館の病院。待ってて今トシ君呼ぶから」
母さんがあたしから離れていった。
あたしは目を開けていられずに、まどろみそうになる。
やがてドアが開いた気配がした。
スウッと公園の木の下にいるような空気があたしを包む。
シダーウッドの香り。安心できる香りだ。
「勇?俺がわかるか?」
あたしはゆっくり目を開ける。
「……トシ」
「よかった。……生きててくれて」
トシが顔を近くに寄せてきた。
あたしは言わなきゃならない。そう心の中で叫ぶ声がする。
「ごめんなさい」
あたしは言った。
「ごめんなさい、トシ。あたしが……悪かったの」
「何でお前が謝るんだよ」
「あたし……トシを傷つけた。気持ち考えなかった。あたしが……」
「もういい!」
厳しい声で声が遮られた。
「お前が謝る必要なんて無い」
「でも……」
「俺はお前が生きて帰ってきてくれた。生きててくれてる。それだけで十分なんだよ」
「でも……」
言いかけたが言葉を封じられた。酸素マスクをはぎ取りトシが唇を重ねていた。
唇の暖かさと柔らかな感触。
やがてそれはゆっくり離れた。
「いいか。もう言うな」
「……うん」
まだ何か言わなきゃならないと思うのだが、頭の中が霧がかかったようにぼんやりして何も考えられない。そう思ううちに、あたしは眠ってしまった。
あたしが何とかベッドから起きあがれるようになるのに一ヶ月かかった。
再手術を二度したせいもあるし、何より体が動かなかった。
その間、何度も刑事さん達が来た。
母さんと刑事さん達が言うには、あたしは五稜郭の半月堡の所に倒れていたそうだ。
観光客に発見され、函館行きフェリーから行方不明になったあたしだとわかるまでに大騒ぎだったそうだ。
あたしは怪我をしていた。
意識もなく、はっきり言うと死にかけていたらしい。
治療されているが、肩は銃で撃たれた傷、そして腹部にはどう見ても刃物での傷を受けていた。そうなら傷害事件だ。警察も来るわけだ。
不思議なことにあたしの着ていたものが、行方不明になったときとは似ても似つかない物だった。
今では博物館でしかお目にかかれない代物、黒の木綿の洋装の軍服で……。箱館戦争の頃の物だというのは、肩に肩章があったからだ。その肩章は新撰組の物だった。しかしそれは古びてはいない。まるでつい先日まで普通に着ていたかのような物だった。だから、あたしは函館に知りあいがいないか、しつこいくらいに訊かれたのだ。箱館祭りに使用された物だろうと推測されたから。でも、誰も持ち主はいない。なにより、ボタンなどが今では使われていない物らしかった。もし、使えば高くつく代物なんだそうだ。
なぜあたしがそんな物を着ていたのか……それよりもなぜあたしが函館にいたのかもわからない。記憶が無い。頭の中に真っ白なもやがかかったように何もかもがその向こうに行ってしまっている。
ただ……そのむこうに何か大事なことがあるという気だけはする。
眠るたびに夢を見る。
誰かがあたしを呼んでる。
優しい声だ。
あたしは思い出さなきゃならないと……忘れちゃいけない大事なことを忘れていると思う。そう思う度泣きたくなるのだ。
ふと気がつくと、ドアの向こうからトシの怒鳴る声がする。
「あんたらが来たあとあいつはすごく辛そうにしてるんだ。あいつはまだ何も思い出せてないんだ。それで自分を責めてる。あいつを苦しめるのはやめてくれ」
相手のぼそぼそという声はよく聞こえない。
やがてドアが開いた。
あたしが顔を向けると、トシはにっこり笑って言った。
「外に行こう。車椅子持ってきた。病院の庭、風が気持ちいいぜ」
トシは寝ていたあたしを抱き上げると車椅子に乗せる。
ここに入院して初めて外に出た。
箱館山が見える。
なぜこんなにも懐かしいと思うのだろう。
そして、なぜこんなにも苦しいのだろう。
なぜか、函館の風が肌になじむ。はじめてきた場所だというのに。
フェリーで落雷のあと行方不明となってから、五稜郭で発見されるまで約一週間。
なのに、なぜあたしの髪は肩を越しているんだろう。わずかな間でこんなにも髪が伸びるなんて……。
トシは毎週末来てくれる。東京から来るのも大変だろうに。
でも……嬉しい。
空気が病室内と違って優しい。
ふと見上げると、トシが厳しい顔で向こうを見つめている。その鳶色の瞳の先を見るとよく来る刑事さん達がいた。風に乗って切れ切れに声が聞こえる。
「……写真だ。印刷じゃねえって鑑識が言ったろうが。……現像された……最近だ。……本物なら……ありえねぇ……」
何のことだろう。不思議に思ったあたしがトシに声をかけようとしたが、トシは彼らを睨んだままだ。声をかけるのは……諦めよう。
しかし、何の話なのだろう。ありえないって何のこと?
あたしの持ってた物の話なのだろうか。
何をあたしは持っていたのだろう。
ようやく外出許可が出た。
母さんがトシと出かけてくるといいと言ってくれた。
「ベイエリアでも行くかい」
そうトシが訊いてきたが、あたしはそこよりも箱館山に行きたかった。
よくわからないけど函館の町を見たかったんだ。
そう言うとトシはふっと笑ったようだった。
「夜景じゃないけどいいのか?夕方には戻らなきゃならないんだぜ」
あたしはそれでもいいと言った。
函館山、展望台。観光の目玉は夜景だから日中はそんなに混んでいない。
そして、展望台に立ったあたしは函館の町を見下ろした。
何だろう。その景色に違和感がある。
「違う……。あたしの知ってる景色じゃない。あたしの見たのはもっと……海は深い碧で、ずっと向こうまで緑が……」
初めて来たはずなのに、思わず口から出た言葉。
あたしはその景色を誰かと見たんだ。だけどいったい誰と?
頭の中、霧のむこう。誰かが優しくあたしの名を呼ぶ。低い声で。大きな手で髪を撫でられる感触が甦る。
思わず頭を抱えてうずくまる。
「ばか、無理すんじゃねぇよ」
トシが肩に手をかけた。
「今は無理するな。これで撮ッとけよ。具合のいいときに見て、ゆっくり思い出せばいいんだ」
目の前に携帯電話が差し出される。でも、これは……。
「お前の携帯、証拠品だとかで警察が持ってっちまったんだよ。機種変になるけどデータは全部移してあるはずだってよ」
あたしはその携帯を受け取ると函館の町を撮った。
ちゃんと撮れてるか確認するため画像を表示し、次々と送る。
「ちゃんと撮れてる。綺麗に……」
ふいにあたしの手が止まった。
ディスプレイに出ているのは、黒い髪、黒い瞳、黒い服の男の人。穏やかに笑みを浮かべたその人を見たとき。
「と……し……ぞう……さん」
自然と口から出た。
そのとたん、頭の中に津波のように記憶が押し寄せる。
向けられた顔、かけられた言葉。
思わず携帯を胸に抱きしめる。
再び函館の町を見下ろす。その景色は一変して見えた。
あの場所をあたしは彼らと駆けていた。彼らと生きていたんだ。
「あたし……居たんだよ。ここに。ここが蝦夷と呼ばれていた頃に……」
涙があふれてきた。
函館の町を見下ろしながら声もたてずにぼろぼろと泣くあたしは、端から見たら奇妙に見えるだろう。でも涙は止まらない。止められない。
「思い……出したのか」
トシが訊いてきた。あたしはこくこくと何度もうなずく。
「……泣けよ。お前は泣いていいんだ。声を殺す必要なんて無いから」
トシが耳元で囁くように言うとあたしを胸元に抱き寄せる。
あたしは胸元にしがみつくと声をあげて泣いた。あたしの涙と泣き声は抱きしめてくれているトシの服に吸い込まれていく。
あたしが泣き疲れてしゃくり上げるようになったときには、トシの服の胸元はじっとりと濡れていた。
「疲れたろ。……もう、帰るか?」
トシの言葉にあたしはかぶりを振る。
そして。
もう一カ所、行きたい場所の名前を告げた。
函館山の展望台をケーブルカーで降り、人波の流れる元町に背を向け、山裾を函館山に添って歩く。
ゆっくりと。
トシが肩を支えるように抱いてくれている。
あたしは花束が欲しいと言った。
道すがらトシは花屋を探して……花束をひとつ買ってくれた。
あたしは行かなきゃならない。
いきなり迷い込んだあたしを優しく迎えてくれた人たちの眠る場所に。
新撰組や額兵隊、遊撃隊……沢山の人たちがいた。中島さんに、蟻通さんに伊庭さんに……忘れちゃいけない人たちがいる。そんな彼らのいるはずの場所に。
うつむくあたしにトシが気づかって何度も声をかけてくれる。
「大丈夫か。少し休むか?」
「大丈夫だよ。平気。平気だよ」
「お前の平気は当てにならねぇ」
トシが苦笑する。
やがて人影はまばらになり、そのうち、ほとんどなくなった。
人影のない道を二人だけで歩く。
青柳町を抜け谷地頭町へ。函館八幡の前を通り緩い坂道を上る。
「ここから登りだ」
トシがあたしに声をかける。あたしの向かう場所は函館山の中腹にある。
「急だからな。無理すんなよ」
急な坂道、段になった道を上り、そして松の木立の間に作られた山道を登る。
振り向くと目の下には家並みが広がる。
再び山道を階段を踏みしめ歩く。熊笹が道の両端に茂っている。
やがて……。
いきなり開けた場所に出た。町の公園くらいの広さの場所。東屋がひとつ。
そして、そこから数段上にそれはある。
碧血碑。旧幕府軍の墓だ。
見上げるほどに大きく、風雪に耐えたその姿にあたしは過ぎた時間を見た。
後は函館山の急斜面。太い松の木が生い茂る。
碧血碑の建つ場所も少し小さいが開けている場所だ。傍らに立つ松の木が落とした葉が足下の土に積もり踏みしめる感触が柔らかい。
持ってきた花束を供える。
訪れる人がいるのだろう。いくつもの花が供えてある。
でもあたりには人影はない。あたしとトシだけだ。
鳥のさえずりだけの静かな中、あたしは目を閉じ手を合わせた。
頭の中、いくつもの顔が甦る。笑った顔、呆れた顔、心配そうな顔……。沢山の人たちが記憶の中から甦る。
目を開けて立ち上がると数歩さがる。そして碧血碑を見上げた。
「……ごめんなさい」
あたしの口をついて出た。
「ごめんなさい。あたしは……あたしはあなたを守れなかった。必ず守ると決めてたのに。あたしの命と引き替えにしても守ろうと思ってたのに。歳三さんの盾になろうと決めていたのに、何であたしは……」
うつむいたあたしの目から落ちた涙は足下の地面に吸い込まれていく。
「また、あたしは大切な人を守れなかった。やっぱりあたしは何にもできないんだ……」 唇をかみしめたときだった。
「やっぱりそんなこと考えてやがッたのか。あんな体でついてくるなんて言うから、なんか考えてるんだろうたぁ思ったが、しょうのねぇやつだ」
ふいにそんな声がした。
「いいか、言ったよな。俺ぁ二人も『近藤勇』を無くして平気でいられるほど強かぁねぇって。俺はお前の命と引き替えにしてまで生きてるつもりはねぇぞ」
あたしは声のする方にむこうとした。が、それより早くいきなり後ろから抱きしめられる。
「?」
ここにいるのはあたしの他にはトシしかいない。なのになぜ?
「言ったはずだ。ずっと側にいてやると。必ず守ってやると。俺ぁ約束を守る男だぜ?だいいち梅を見に行くって約束もまだ果たしてねぇぞ」
耳元で囁かれる。
ゆっくり体が離れた。
振り向いた目の前にいるのはトシだ。
少しからかうような笑みを浮かべている。 あたしはそんな笑い方をする人を憶えている。
「なんて面してやがる。そんなに意外かよ?」
「と……し……ぞう……さん?」
「ああ、もっとも思い出したのは最近だがな」
ばかな。そんなことあるはずがない。でも……。
「トシ?」
「何だよ」
あたしはわけが分からなかった。
混乱した頭を抱え、きっと情けない顔をしていたんだろう。
ぐいと引き寄せられると頬に手が触れる。そして……押し包むように唇が重ねられた。少し開いていた唇から滑り込んだ口づけは、強くて深くて、優しくて。そんな口づけをする人は、あたしの知る中では一人だけだ。あの時は刻み煙草の匂いがした。
長い口づけだ。
足に力が入らなくなってきた。いつの間にか目を閉じていた。泣いていたのだろう。
「また泣いてるな……。まったく、よく泣く奴だ」
唇から離れたとわかったとき再び耳元で声がする。
目を開けると穏やかに微笑む人がいる。
それは、トシで……でも、この笑顔は歳三さんで……。
「俺の一番小さい頃の記憶って奴がさ、お前が真っ白な着物着てて、とっても綺麗だと思った記憶なんだ。その時俺、お前に言ったんだぜ。お前憶えてないみたいだけどさ」
「?」
「僕、絶対勇ちゃん守るから」
「トシ……」
トシが一つため息を吐くと、
「箱館で言ったよな。『お前には大事な役目がある。土方の嫁になるッてな』って」
言いながら、右手で鼻の横をかく。
あたしの中で二人の姿が重なる。トシと歳三さんが一つの形になっていく。
「あたし……何もできなかったんだよ。歳三さんを守れなかった」
「お前が気に病むこっちゃねぇよ」
きっぱりと言いきる。
「あたしは……」
あたしは思わず言葉に詰まる。
何て言えばいい。
「あたしといたらずっと不安に思わない?あたしに残されてる時間は……」
あたしが言いかけた、その言葉を遮るように、
「そんな運命なんかにお前は渡さねぇ。渡すもんかよ。俺がいる限りそんな運命などぶちこわしてやる。なにしろ俺は鬼、だからな。新撰組鬼副長の名は伊達じゃねぇ。死神だって斬り伏せてやるさ。俺は、お前を死なせやしねぇ。絶対に守り抜いてやる」
と、トシが言い切る。
きっとあたしは泣き笑いしていたのだろう。
「俺は、お前といたい。ずっと」
じっと見つめてくる瞳。
その瞳は真っ直ぐで迷いがない。
「返事は?」
トシが聞く。
「あたし、ずっと側にいていいのかな……」
その目に、あたしは思わず俯いてしまう。
「ああ。あたりまえだろ」
その肯定の言葉にあたしは顔を上げた。
「あたしは……。あたしもずっと一緒にいたいよ」
あたしは涙が流れるままに微笑む。
トシはふわりと包むように抱きしめてくれた。
大きな腕の中に包まれる。
暖かい。
その時、松の木をゆらして風が吹いた。
供えたばかりの花の香りを乗せたその風は、あたし達二人を包むように二三度巻くと、ざあっという音を立てて、高い高い、碧い空へと舞い上がっていった。




