決意
野村の死は勇の心に大きな傷を残した。
そして、あらがいようのないときのながれに恐怖をだく。
だが、土方と眠るときにあることに思い至る。これが歴史にあらがう方法かもしれないと、勇はある決意をした。
その夜。
土方は久しぶりに陸の上で休んだ。
そうとは思わなかったが、さすがに疲れていたのだろう。食事と風呂を済ませると早々に床の支度をさせて眠ってしまった。
勇も、土方が眠ってしまえば休むしかない。
音などたてて起こしたくはなかった。たとえ、眠るのが気乗りしなくても。
そして、と言うべきかやはりと言うべきか。
休んでそうもしないうちに、勇は悲鳴を上げて跳ね起きた。
布団の上、膝を抱えて大きく息をする。
「やな夢……。やな夢見た……」
やけにリアルな夢をみた。
野村が歩いてくる。元気そうに手を振りながら。勇も手を振り替えしたが、にわかに銃声が何発も響き、はじき飛ばされるように野村が倒れる。あわてて駆け寄った勇が抱き起こした顔は……土方だった。
肩で息をしながら顔を何度もこすった。
横を向くと襖を片手で開けた。
行灯の灯に浮かぶ横たわる姿。言いようのない不安に思わず立ち上がると、その傍らに座り込んだ。
ただ黙ってその寝顔をじっと見つめる。
端正な、優しげといってもいい顔立ち。
静かな表情で眠る土方をじっと見つめていると、自分がこの時代に来てからずっとこの顔を見つめ続けてきていたことに気がついた。
「あたしは……ずっと守られてたんだ。この人に」
自分が土方の庇護の翼の下にいたことを思い知らされる。
「あたしは何もできない」
土方を守る力も、彼の役に立つ能力も持たない自分があまりにも惨めだった。
「死なないで……。いなくならないで。お願いだから……。あたしにできることなら何でもするから。あたしがあげられるものなら何だってあげるから……。だから……」
……あたしを置いていかないで。
涙が頬を伝う。顔を覆って声を殺して泣いていると、髪をくしゃっと撫でられる。
「何泣いてやがる。怖い夢でも見たか?」
驚いて顔を上げると、いつの間にか目を開いた土方がこちらを向いている。
「しょうがねぇなぁ。おら」
布団の端をまくってみせる。
「?」
「はいらねぇのか。添い寝してやるっていってんだが」
勇は一瞬目を見開いたが、やがて一つため息をつくと目を手の甲で拭った。
「いいんですか?」
「早くしろ。冷える」
その声に、勇は布団へと潜り込む。
胸元にしがみつくと、顔をうずめる。シダーウッドのような香りと人の温かさで少し落ち着いた。
……いなくなる人のそばにいるのがこんなに辛いなんて始めてわかった。胸が痛い。息が苦しくて切ない。人は……無駄だとわかってても願ってしまうんだ。生きててくれることを。無意味だと知ってても、何かせずにいられないんだ。トシやお母さんや兄ちゃん達おばさん達……あたしの側にいてくれた人達はこんな辛い思いしてたんだ。あたし……もっと話せばよかった。もっと一緒にいればよかった。……一分でも一秒でも。ううん、一瞬でも長く側にいてほしいと思うのに。あたしのこと過保護すぎだなんて、そんなことなかったんだ。
自分がいなくなったとき悲しんでほしくなくて……、人に自分の記憶を残したくなくて、人と距離を取っていた自分だったが、それは……違うのだろう。
……思い出、記憶。それがあるから残された人は耐えられるんだ。
土方は近藤の記憶を胸に戦い続けている。
勇は今、野村の思い出に慰められている。
……でも、あたしはそんなつながりを可能な限り拒んできた。元いた時代でも、ここでも。
「あたしには何もない……。人とつながることを拒んできたあたしへの罰だ。あたしは……一人だ」
「何だって?何が一人だ」
低い声がした。顔を上げると厳しい顔で見つめている土方がいる。
「俺たちと共にいたことはつながりじゃないと言うのか?共に過ごしたことを絆と呼べないと言うのか?なら、今ここで確かなつながりってやつを作ってやるぜ」
そう言うと、勇に覆い被さるように体が動いた。
「!」
左手をつかまれ押さえ込まれる。顎を押さえられると荒々しく唇が勇の唇を覆う。もがくが逃げられるわけもない。
息ができない。伸ばされた喉が震える。
「ん……く……」
声が漏れる。
口の中に入り込んだ舌が、勇のそれを絡め取るように動く。
唇の端からつう、と雫が伝って流れた。
口づけの所為か、息ができないためか頭がぼんやりしてくる。
土方の手が襟元を開くように動き、勇の胸元が露わになった。その白い胸を土方が右手で包み込む。刀を握り続けてきた大きな掌。それがふくらみのその先端に指先でかるく触れる。指先が触れるたびに勇の体がぴくりと震えた。もう一方のふくらみを唇から離した口で触れる。ピンク色に染まる胸の先をくわえてかるく歯を立てた。くわえたまま舌先で敏感な場所を優しく触れる。
江戸、京と女遊びでならした土方だ。女の体のことは知り尽くしている。
舌が胸のふくらみの先端に触れるたび勇は息をのんだ。体を電気が走るようだ。手が体の横の肌を滑る。足が割られその間に土方の足が挟まれた。
勇の目は涙があふれそうになっている。
「もう……言わないから……。ごめんなさいっ。もう……言わないから……。だから……ゆる……して。歳三さん……。お願い……」
声が震える。
土方はゆっくり口を離した。
「もう、いわねえな」
勇はこくこくと頷く。
「ほんとだな……よし、なら……」
口の端を少し持ち上げるような笑みを浮かべると胸のふくらみを一度だけ舌で舐める。
くうっ、と勇が声を立てた。
ゆっくりと体を離して、呆れたようにため息をつくと布団からするりと抜け出した。
「たく……男に途中でやめさせんじゃねぇよ。酷なことなんだからな。おさまりがつかねえじゃねぇか」
ぶつぶつと言いながら襖を開けた。
「あの……どこに」
ぼんやりしたまま勇が問いかける。
「厠だ。まったく蛇の生殺しだぜ。お前は大人しく寝てろよ」
土方が部屋を出ていくのを布団の上に座り込んで見送る。襟元を直しながらぼんやりと考え…… やがて、その意図することに気がつくと真っ赤になってうつむいてしまった。
しばらくして疲れたような顔の土方が戻ってくる。
「ごめん……なさい」
「ガキ相手に冗談が過ぎたか……。悪かったな。寝るぞ」
お互い横になったが、勇は先ほどのことを思うとどきどきして目がさえた。
土方が少し体勢を変え、勇を胸の中に抱え込むような姿勢になった。
……あ、心臓の音だ。
鼓動が聞こえる。以前、命の音だと土方が言ったのを思い出した。
……命の……音。命。
勇の脳裏にひらめくものがあった。
……命の代わり。
引き替えるものがあれば、救えるかもしれない。等価というにはあまりにも差があるが、もし、一個の命で一人の生命が購えるのなら安い買い物だ。
……土方さんは必要な人だ。存在しないはずのあたしなどより、必要としてる人は沢山いる。
顔を上げると、土方はもう、低くいびきをかいて眠っている。
「あたしは……このために来たのかも知れない。悪い使い道じゃない……よね」
……ごめんね。お母さん。トシ。……あたしは、帰らないよ。
土方の胸に額をつけて目を閉じた。
……ごめん、トシ。あたしは歳三さんに死んでほしくないんだ……。
とくとくという心臓の鼓動を聞きながら勇は眠りに落ちた。
翌朝。
土方は市村を連れ五稜郭へと出かけていった。
それを確認すると勇は万屋を出た。
行き先は居留区。なじみの英国商館、ブラキストン商会。
小走りで駆けるように歩く。しばらく一人で出歩いていないし、世情はだんだんきな臭くなっている。
商館のドアをくぐったときには正直ホッとした。これから大事な交渉をするのだ。
大きく息を吸った。
主人であるトーマス・ライト・ブラキストンの前に座ると、腕から時計、ロレックスのコスモグラフデイトナを外してテーブルに置いた。そして服から小さな巾着と。
「これは?」
「図々しいお願いだとわかっているのですが、マスターしか頼れる人がいないのです。この時計とここにあるわずかなお金で、男の人二人を英国へ連れて行っていただけませんか」
「誰をだね」
「最後の侍を」
主人は時計を手に取った。
見たこともないものだ。針が規則正しく動いている。三つの文字盤の針は各々別の動きをしている。裏を返すと、TOSIZOU HIJIKATAの文字が彫ってあった。
「ミスター土方のものですか」
「あの方のものではありません。私を可愛がってくれた方が亡くなったとき形見としてもらったものなんです」
俊三おじさんも土方を救うためなら許してくれるだろう。
「いかがでしょうか」
「無理ですと言いたいところですが、あなたの人柄を信用してますからね。わかりました。ところでその中にはレディはいるのですか?」
「私はいません。男の人二人だけです」
「なぜ?」
「わたしはその頃いないでしょうから……」
勇は静かに微笑んだ。
勇は額兵隊隊長の星を万屋へと招いた。
部屋に星が入ってきたのを確認すると、勇は床に手をついて頭を下げる。
「お願いができました。以前頼み事があれば何でも、と言ってましたよね」
「ああ、言った。二言はない。なんだい」
「星さん。土方さんとイギリスに渡っていたいただけませんか」
いきなりのことに星は呆然としていた。
頭を下げたままの勇に近寄るとその肩に手をかける。
「どういう意味だい」
星の顔は厳しい。しかし顔を上げた勇はそんな星の目を射るような眼差しを向ける。
「五稜郭はやがて降伏するでしょう。その時土方さんと共にイギリスに渡って欲しいのです」
「五稜郭が落ちるって?縁起でもないことをいうんだな」
「星さんだってわかってるはずですよ。この戦いには勝ち目がないこと」
いきなり星は勇の胸ぐらを掴んだ。
「言っていいことと悪いことがあるぜ、近藤君。俺らが負けるって言うのか」
「そうです」
真っ直ぐに見つめる勇に、やがて星の方が目をそらした。
「俺に何させようっていうんだ」
「降伏が決まったときに、土方さんを連れて居留区のイギリス商館を訪ねて欲しいのです。土方さんは自分からは絶対に逃げようなんて考えない人だから、星さんがぶん殴って身動きできないようにでもして連れていってください。星さんが一緒ならイギリスでも生きていけると思うから」
「俺が英語を話すからか」
「外国の習慣も少しは知っているからです」
「でも、なぜ」
「薩長の人たちは土方さんを許さないでしょう。あたしは土方さんに死んで欲しくないんですよ。あの人はほっておくと死を選んでしまいそうな人だから」
「君が行けばいい。君は僕以上に英語も堪能だ。土方さんは君を守るためなら折れるだろう」
「私は……多分、その頃にはいないと思うから」
ふっと寂しげな笑みを浮かべて指を組んだ。
「頼めるのは……星さんだけなんです」
「土方さんは知っているのか?」
「知るわけありませんよ。土方さんは仲間を絶対に見捨てない人ですからね。自分一人が助かる方法なんて眼中に有りはしません」
「なぜ君がいないんだ。その時に」
勇は答えずにやんわりと笑っているだけだった。しかし眼差しは今にも泣きそうに潤んでいる。星は何となく感じた。
……近藤君は、土方さんを助けるために死ぬ気なのか。
「わかった……。でも保証はできない。それでいいな」
「はい。星さんは死にはしませんよ。こんな戦争では」
ホッとしたようにため息をついた勇に、
「行くときは君も一緒だ。そう、心得ておいてくれ」
星ははっきりと告げた。が、勇は返事をせずゆっくり立ち上がると障子へと向かう。星には顔を向けていない。背を向けたまま言った。
「あたしは……ここにいないはずの人間なんです」
「君は松前藩の人間だったな」
「それは嘘ですよ」
くるりと勇が振り向いた。
「あたしは……未来から紛れ込んでしまった人間なんです。私がいたのは今から百五十年以上後の時代です。ここはあたしの居場所じゃない。だからあたしの存在はここにあるべきものではないんです」
……彼女は、微笑んでいるのか泣いているのか
星がただ見つめていると、勇はその前に膝をついた。
「だからあたしは行けません。土方さんを……あの方をお願いします」
勇は思う。
人と深く関わるのを避けたため物静かと言われた。人の心に波風をたてぬようひいたスタンスをとるから温厚と言われただけだ。
自分の本質は激しく人恋しく、思うより動いてしまう人間だ。試合の時の豹変すると言われるのは、自分を押さえる余裕がなくて本質が出てるに過ぎない。変わっているわけではないのだ。隠せない、押さえられないだけだ。
元々の勇は寂しがり屋で人一倍人恋しい性分だ。
何しろ小さい頃から、そう、赤ん坊の頃から一人にされたことなどなかった。必ず誰かが側にいた。だから一人でいるのが辛いのだ。
そんな性分の勇が、なぜ人から一歩引いたスタンスをとるようになったのか。
それは、残された者の悲しみを知ってしまったからだ。
俊三が病を得て最期の時を迎えたとき、
「やっと、長かった生を終わらせられる。これでようやく勇に会いに行ける……。長……かった」
と、呟くように言ったのだ。
ひときわ勇を面倒見てくれたその人が言う言葉に、小学五年の勇は驚きを憶えた。
その頃の勇は、家族親族が勇に隠していることを薄々感づいていた。
いくつもの位牌が仏壇の中で隠されたように置かれていることも、自分が入ってくるといきなり会話が途切れることも。
そして、ある日廊下を歩いていたときに、自分を溺愛する長兄、勇一郎が、
「勇は俺が守る。絶対死なせやしねぇんだ。そんなこと言うおじさんはただじゃおかない」
と、叫ぶのを聞いた。
「いや、そう言うんじゃないんだ。ただ、近藤家の女の子は……長生きしないじゃないか」
親戚の永倉の叔父がしどろもどろになって応えている。
「勇希ちゃんのこともある。二十歳直前に殺されたのを忘れた訳じゃないだろう。十歳で逝った勇ちゃんのこともある。勇奈に勇衣に……いったい何人の子が幼くして逝ったと思う。事故で逝った勇美ちゃんだって十六だぞ、十六。病死に事故死に犯罪に……。みんな早すぎるじゃないか。だから、一度名目だけでも永倉に養女に出してくれれば、何か変わるかも知れないだろう」
永倉の叔父も必死だった。
考えてみるに勇は確かにみなに愛されていたのだと、わかっていた。
結局養女の話はその場でお終いになったらしく、勇の耳には聞こえてこなかったが。
そんな折りの俊三の死だ。
ずっと、そう二十年以上も幼くして逝った勇を思い続けて生きてきたのだと、その言葉でわかった。
「歳也に君がいるように、僕には勇がいたんだよ。勇ちゃん。この時計をもらってくれないか。君がこの後の時間を紡ぐんだ。いいね」
勇がロレックスの時計を形見としてもらったのはそのためだった。
葬儀の時、棺の中の俊三の顔はとても穏やかで、その顔をみるとどうしようもなく悲しくて、わあわあと泣きながら最期の別れをしたのを忘れはしない。
その時に心に決めたのだ。
おそらく自分は長くは生きられないのだろう。
でも、人がこんなに悲しむのはもう嫌だ。 なら、残された人の心に残らぬよう、消えた後の自分というものがその人に重荷にならぬようにしようと。
葬儀の日の夜。
勇は今日から一人で寝ると家族に宣言した。
だが。
野村の死は勇の心に一つの大きな変化を生んだ。
人恋しい、などというのは甘い言い方だ。眠るときなど、寝ぼけたような無意識のうちに土方の布団に潜り込んできてしまう。不安なのだろう、と土方は思った。
だから。
「俺ぁ今日は五稜郭に詰めるんだが、代わりに相馬についてもらうから」
勇に言い置いていったのだが、万屋に来た相馬には耳元でこっそりと、
「夜に何があっても驚くんじゃねぇぞ。信頼してっからな。いいな、信頼、してるからな」と、何度も念を押して土方は出かけていった。
「信頼……とはなんのことだ?」
怪訝そうな顔で見送った相馬だったが、夜休む頃にその意味が分かった。
「相馬さん。傷手当てしますね」
勇が手早く相馬の足の傷を見る。太股をえぐった銃創。勇は顔色も変えず焼酎をかけて拭うと包帯を巻き直す。
若い娘が下帯一本にさせた自分を顔色も変えず手当てするのにも驚いたが、何より驚いたのは、寝ている自分の布団に寝ぼけたような勇が潜り込んできたことだった。
「夜伽……に来たのではないな。完全に寝ているようだし。なるほど、土方副長が言っていたのはこのことか。確かに……こいつには……まいったな」
勇は困惑した顔で天井を眺めている相馬をよそに、その胸板に顔をうずめている。
安心しているようにぐっすりと眠り込んでいるその顔を見ると、ただただため息を付いてその頭を撫でるしかなかった。
「なるほど……。結構酷な話では……あるな」
野村であったらどうだったろうと思いながら、相馬は目を閉じた…。
勇が相馬に肩を貸しながら称名寺へと出向いたとき、中島とばったり会ってしまった。
さすがにばつが悪い。何しろ腹に思い切り突きをたたき込んだのだ。
「あのっ、中島さんごめんなさい。あの……」
ちらりと勇を見た中島は少し口をとがらせながら、
「勇君か……。いや、いいがね。ただ、素人にのされたと言われて、若干株が下がったかなと」
と言う。だが、その言葉に勇は目を丸くした。
「素人って……。あたし確かに人は斬れないけど、剣が使えないわけじゃないですよ」
「ええ?」
その場にいた相馬、中島はおろか蟻通も目を見開く。
「あたし、二歳になるくらいから天然理心流父について学んでましたから。近藤家宗家の者が剣が使えなくてどうします」
「そうなのか?」
肩に掴まっていた相馬も驚いたように訊いてきた。
「ええ、なんなら後でお見せしましょうか。右肩を痛めて以来、打込稽古はしないけど、型稽古はしてたし。うちの試衛館じゃ型稽古ならあたしがつけてたりしたから」
「え、君がしてたのか」
「あ、中島さん信じてないな。これでも中極意目録なんですよ」
勇は笑ってみせる。
「後でお見せしますね」
昼もまわった頃。土方が市村を伴って称名寺に来た。
丁度その頃。
隊士達が道場に使っている部屋に勇達がいた。土方が不思議そうな顔で入ってくる。
「なんだ、誰も隊士溜まりにいねぇと思ったらここにいたのか。何してんだ」
道場真ん中に勇が座っているのを見て、おや、と言う顔になる。
「何してんだ」
再び問うと、相馬が口に指をあてる。
手を付き深く礼をすると勇がゆっくりと立ち上がる。
竹刀を二三度素振りをした後、すい、と構えた。
斜めに構えた切っ先。斜めに切り下げ切りかえす。基本に忠実な剣捌き。龍尾剣だった。
……近藤さんがいる。
土方はその姿を見て思った。そこに近藤勇がいると。
無骨なはずの理心流の剣なはずなのに、なぜ愛しく思ってしまうのだろう。
……あの頃を思い出すな。
ふと、勇が足を止めた。
「市村君。ここに立ってくれないかな。大丈夫、あてないから」
市村が不思議そうな顔で言われた場所に立った。
勇が竹刀を構えた。すい、と引く。
「たああっ」
声を掛けて踏み込みながら突いた。
切っ先は喉元わずか数センチぐらいなところで止められている。
それを見たその場にいた古参隊士達は驚愕した。土方も声を失う。
……三段……突き。
「沖田……先生の、三段……突き」
市村が呟きながら座り込んだ。
「伝わってるんだ。三段突き。沖田さんが巧かったって聞いてたけど、どうかな?少しは似てたかな」
竹刀を手に勇がにこやかに微笑む。
「似てたよ。そこに総司がいるのかと思った」
土方が少し眩しげな眼差しを向ける。
「ありがとう。おじいちゃんにも自慢できるかな」
勇は微笑むと、立ち上がる市村に手を貸した。
「ごめんね、あの時痛かったでしょ」
「まぁ、痛かったけどさ……お前の辛いのもわかってたし。いいよ」
笑ってみせる市村に勇は黙って抱きついた。
硬直する市村と呆気にとられてる周りにいる隊士達。
土方はそれを口の端に笑みを浮かべてみていた。
「それ、確かですか」
称名寺を後にした勇は、市村と共に居留区の英国商館を訊ねた。ずいぶん久しぶりだったから顔を見せに行ったのだが、そこで思いがけないことを聞いたのだ。
主人のブラキストンに思わず問い返す。
「ああ、間違いない。新政府の侵攻は間もなくだ。明日には進攻が始まるかもしれないな。私の商船の者が見たんだ。まず間違いないだろう」
勇は市村と顔を見合わせた。
「市村君。土方さんに知らせて、早く。一刻も早く。町の人を避難させないと」
「わかった」
市村はそう言うと、ブラキストンに、
「感謝します」
深く頭を下げて一礼すると飛び出していった。
「ブラキストンさん達も避難を。商船に乗り込んでいれば安全でしょう。彼らもバカじゃないから外国商船に無下なことはしないはずです。居留区の他の人達には?」
「つい先ほど店の者を使いに出した。居留区の各々が自分の責任で対応する」
「そうですか」
ほっとしたように勇はため息をついた。
「リジーやおばさんも早く避難を。必要最小限なものだけ持って早く船に乗ってください。たぶん箱館の街は焼けない。少なくとも居留区は。榎本さん達は街を焼くことを避けるはずです。市街戦はしない、それが彼らのスタンスです。町の人を巻き添えにしないようみんなは街を避けて退くはずです。攻撃してくる彼らはどうなのか知りませんが」
ブラキストンはじっと勇を見た。
「何……か?」
「君は……我々の船に乗らないか?リジーもそれを望んでいる。一緒に行こう。君は兵士じゃないんだ」
勇はその言葉に思わずじっと見返してしまった。ふっと微笑んだ。
「ありがとう。でも、あたしは新撰組のみんなが好きなんです。こんな時だからこそ一緒にいたいと思います。箱館政府には大好きな人達が沢山いるんです。彼らを置いて一人安全な場所に行く気は……無いんです。ごめんなさい」
「そうか」
その時店の奥から小さな影が駆けてきた。
「サミー。一緒に行こう。あたしはサミーと一緒にいたいよ」
ブラキストンの娘、エリザベスだった。
「ごめんねリジー。あたしは行けない。大切な人がいるから」
「あたしよりも?」
「ごめんね」
勇は微笑むと泣きそうな少女の頬にキスをする。
「大好きだよ。リジー」
エリザベスは勇にしがみつくと泣き出した。勇は黙ってその体を抱きしめる。髪を何度も撫でてやる。
「リジー。憶えてて。どんな時でも幸せはあるって。あたしはそう思う」
ブラキストン達に深く頭を下げ、ドアから出た。
空を見上げると、称名寺に向けて駆けだしす。




