玉藻御前 其之壱
阿部慎蔵は、なに食わぬ顔で狂言を楽しんでいた。
狂言堂の舞台では、八木源之丞が浪士組のために演目に加えた「玉藻前」が演じられている。
「玉藻御前ねえ…キツネが美女に化けるなんざ、含蓄に富んでら」
阿部は、ここで商売をしているという、あの辻君を思い出して独りごちた。
「ま、こう賑やかじゃ、あの女狐が姿を見せるわけねえか」
顎を撫でつつ客席を見渡すうち、ふと斎藤と眼が合って、またしても重苦しい沈黙が圧し掛かった。
「あ、いや…。あの玉藻御前って性悪女が、この辺りに住んでる知り合いに似ててさ。今日は見かけねえなって」
阿部はしなくてもいい言い訳でその場を取り繕い、わざとらしく額に手をかざすと、また客席を見渡すふりをした。
「…ムダだ。女は化ける。これはそういう話だろう?」
どうした気まぐれか、斎藤はめずらしく無駄話に応じた。
阿部は妙に納得してうなずいた。
「なるほど、そりゃそうだ。案外、普通の女に化けてこん中に紛れてたりして」
舞台の上では今まさに九尾の狐がその正体を暴かれようとしている。
会津藩士たちも楽しんでいるようで、近藤勇はひとまず胸を撫でおろしていた。
隣りに座っている芹沢鴨はといえば、退屈そうに欠伸を繰り返していた。
こうした伝統芸能はお好みでないらしい。
そこへ、腰巾着の佐伯又三郎がやって来て、なにやら耳打ちした。
芹沢は無言で何度かうなずき、佐伯はまたそっと立ち去った。
「なんです?」
近藤が肩を寄せて尋ねた。
「終わったら奴らと一緒に北門から出ろとさ。粕谷さんと沖田がそっちで張ってる」
芹沢は斜め前に座っている殿内義雄と家里次郎を見ながら応えた。
近藤はあきれた。
「ここまで来て、逃げたりせんでしょう?」
二人は時おり舞台の上を指差したりして、談笑している。
こうして見る限り、警戒の色はなかった。
「何事も用心に越したこたあないってね」
芹沢は、鉄扇で顔を仰ぎながら片目を瞑ってみせた。
二人の後ろに座ってそのやり取りを聞いていた土方歳三は、芹沢の小賢しい台詞を鼻で笑うと、演目の合間を見計らって静かに席を立った。
彼は壬生寺の北門を出ると、すばやく辺りをうかがい、まっすぐ八木邸に向かっていった。
長い公演が終わるのを待つあいだ、沖田総司と粕谷新五郎はずっと土塀の陰に隠れているわけにもいかず、寺の北側にある「柳屋」という宿の二階に陣取っていた。
浪士組本隊が壬生村に駐留していた頃は七番組の分宿先として部屋を貸していた宿屋で、主人の柳恕軒という男は、当時浪士組の役付だった粕谷が「しばらく部屋を使わせてほしい」と声を掛けただけで快く応じてくれた。
寺とのあいだには畑ぐらいしかなかったから、見通しも利き、二人が北門の出入りを見張るには都合が良かったのだ。
沖田は土方が門を出るのを遠目に確認すると、
「ちょっと、小用を足してきます」
と誤魔化して腰を上げた。
「じき、狂言は終わる。土方さんと話があるなら、さっさと済ませてくるんだな」
粕谷は北門に目を凝らしたまま応じた。
…何もかもお見通しか。
沖田は肩をすくめて宿を出ていった。
一方、土方は八木家の門を入ってすぐの壁に寄りかかり、沖田を待っていた。
狂言の終わる頃、ここで落ち合おうと申し合わせていた。
「ご苦労」
土方は門をくぐる沖田に声をかけた。
沖田は気に入らない顔で「偉そうに」と前置きしてから、
「殿内は、四条大橋のそばに振り分け(今でいうカバン)と旅装束を隠してましたよ」
と本題に入った。
「なぁるほど。宿舎までの帰り道を警戒して、その脚で江戸へ向かう気か」
土方は敵との知恵比べを楽しむように、満足げに頬をさする。
しかし、沖田はこの後の仕事を考えると気が重かった。
「東に向かうとは限りませんがね。夜中に真っ暗な峠越えもないでしょうし、祇園か先斗町の店で一晩明かす気かも」
「いずれにせよ、まるっきりのバカでもないらしい。やはり、今夜中に始末しないと厄介だな」
「じゃ、斬るんですね」
沖田は暗い目で土方の反応を窺った。
「ここまで来たら焦るこたあねえ。カッちゃんの言う『話し合い』とやらが済むまでは生かしといてやるさ」
土方の口元に酷薄な笑みが浮かぶ。
殿内が荷物を隠したと聞いて、何か思いついたらしい。
「そういう悪巧みをしてる時って、ホント生き生きしてるな」
沖田は投げやりな口調で皮肉った。
「うるせえな。俺にいい考えがある」
「…そうでしょうとも」
耳を貸せと手招きする土方に、沖田はウンザリしながら顔を寄せた。
土方歳三は壬生寺に戻るなり、客席の後ろに立っていた佐伯又三郎の肩を叩いた。
「今日の宴席だがな。舞台がハネたら、祇園に場所が変ったと皆さんにお伝えしろ」
今日のために先斗町の料亭に座敷を準備させていた佐伯は、しばらくキョトンとしていたが、その言葉の意味をようやく飲み込めるとあわてて抗議した。
「い…今から変更でっか?そやけど、もうあっちは料理も用意してるんでっせ?」
「だったら、さっさと行って断って来い!」
土方は高圧的な口調で有無を言わせない。
藤堂平助は、佐伯が泡を食って走る様子を愉快げに見送った。
「ハッハ!いい気味だな。腰ぎんちゃく野郎が」
芹沢たちにおべっかを使う佐伯は、試衛館の門徒一同からあまり好かれていない。
しかし、そんな藤堂もこのドタバタ劇の観客ではいられなかった。
土方はちょうどいい所にいたという顔で彼に向き直り、こう命じた。
「平助、お前は祇園の茶屋で空いてる座敷を探せ」
原田の救出劇でボロボロになって帰ってきた藤堂からすれば、泣きっ面に蜂とはこのことである。
「えーっ?今からあ?店の方だって準備が間に合わないでしょ?今日の客、何人いると思ってんスか、受けてくれるわけないよ!」
見るからに憐れをもよおす格好で訴えたが、当然、土方には通じない。
周到に用意した茶屋のリストを、藤堂に投げてよこした。
「ほれ、俺の馴染みだ。どっか一軒くらい何とかしてくれんだろ」
その紙に目を通し終えると、藤堂は恨みのこもった目で土方を見つめた。
「…まだ京に来てひと月にもなんねえのに、どんだけ開拓してんスか…つーかオレ、今日はもうヘトヘトなんだけど」
「知るか!ツベコベ言ってねえで行け!」
情け容赦なく言いわたすと、土方は、いつまでも藤堂のわがままに付き合っていられないとばかりに背を向けた。
「ああ、分かったよ!鬼!ナマハゲ!ぬらりひょん!チ*ゲチラシ!」
藤堂は、思いつく限り妖怪の名を並べて罵倒した。
「チ*ゲチ…てめ、ドサクサに紛れて…!」
土方が振り返ったとき、すでに藤堂の姿は垂れ幕の向こうに消えていた。
※チ*ゲチラシ:アンサイクロぺディアにしか載ってない妖怪




