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幕末カタナ・ガール  作者: 子父澤 緊
抗争之章
92/404

敗残の兵は語る 其之壱

その朝、石井秩いしい いちは娘の手を引いて、壬生村の綾小路あやのこうじ通りを歩いていた。

二人がちょうど坊城ぼうじょう通りに交わるつじへ差し掛かったとき、壬生寺のかねが朝の五つ(8:00am)を知らせた。


「おかあはん、お寺はあっちえ?」

娘の雪が足を踏んばって母を引きとめ、かねが聞こえる方を指さした。

狂言きょうげんを見にいくのはお昼から。今日は夕方まで帰って来れないんだから、先に御用ごようを済ませとかなきゃ」

秩は微笑ほほえんで、雪とつないだ手を小さく振った。


「おさかな買いにいくん?」

「そうね」

二人は今晩の献立こんだて道々(みちみち)相談しながら、軽い足取りで歩いていく。

いちはついさっき通り過ぎた農家の納屋なやに、まさかあの沖田総司がひそんでいたことなど考えもつかなかったにちがいない。



その沖田総司は意外なところで二人を見かけて、すっかり動揺どうようしていた。

気の早い雪は髪を銀杏髷いちょうまげもどきにってもらい、藤色ふじいろの無地のよそゆきを着ている。

あんなことがあった後で、招待しょうたいした沖田に恥をかかせてはいけないといういち気遣きづかいが感じられた。

飛び出していって事情を説明したい衝動しょうどうにかられたが、もちろん、そんなことは出来ない。


沖田はふと思い立って、張り込みの相棒あいぼうにたずねた。


「粕谷さん、矢立やたてを持っていませんか」

矢立というのは、小さなすずりと筆をまとめたような携帯用の筆記用具だ。

「あるにはあるが…こんなもの何に使う」

粕谷は腰に差していた矢立やたてを差し出しながら、怪訝けげんな顔をした。

「すみません。ちょっと借ります」

武骨者ぶこつものぞろいの試衛館しえいかんの連中では、まず筆記用具など持ち歩いているはずもなかったから、この時ばかりはインテリの元水戸藩士が一緒でよかったと沖田は天に感謝した。


彼は懐紙かいしを取り出すと、そこになにやら石井秩いしいいちと雪にかかわる伝言を急いで書き付けた。

一方で油断なく中村邸の門を見張りながら、頭の片隅では「しかしこれを誰にどうやって渡したものか」と算段さんだんしていたとき。


殿内とのうちだ」

粕谷新五郎かすやしんごろうがするどくささやいた。

殿内義雄の顔をよく覚えていない沖田総司は、門から出てきた体格のいい男を見てあれがそうかと思った。

殿内は、沖田たちが身を隠している納屋なやとは反対のほうに折れて歩いていく。


「狂言に顔を出すには時間が早いな。それに家里次郎いえさとつぐお一緒いっしょじゃない」

粕谷は殿内の背中を目で追いながらつぶやく。


しかし沖田をドキリとさせたのは別のことだった。

「あの荷物は?」

殿内はけのかごを肩にかけ、大きめの風呂敷包ふろしきづつみを手にしている。

旅支度たびじたくのようだな」

本当はそんなことを聞くまでもなく沖田にも分かっていた。

しかし、その意味するところは重大だ。

どうやら覚悟を決めねばならないようだと沖田は表情を引きめた。


「もう少し様子をみよう。いずれにせよ、ここでは少々人目につきすぎる。後をつけて機会きかいをまつしかあるまい」

粕谷はなれた様子で、冷静に対応策をった。



本当はこのまま沖田たちの動静どうせいを追いかけたいところだが、その前にある浪人の近況きんきょうに触れておかねばならない。


毎度おなじみ、阿部慎蔵あべしんぞうである。


このところの阿部は、とうとう自分の運も底をついたのではないかと想い悩んでいた。


食い逃げの現行犯で捕まり、見知らぬ大男おおおとこに投げ飛ばされたあの日、目が覚めると彼は誰もいない座敷にひとり取り残されていた。

そして、料亭の女中から浪士組の島田という男が代金を立て替えてくれたことを聞かされ、自分より十近くも若いその女中に懇々(こんこん)さとされたのち、ようやく釈放しゃくほうされたのだった。


畜生チクショー!あんな連中からほどこしを受けるとは。おのれ、島田とやら!」

と、すじ違いもはなはだだしく息巻いきまいていられたのは、ほんの数日である。


丸腰まるごし文無もんなしで町に放り出された彼には、もはや大坂へ帰るすべもなかった。

ふたたび人足にんそく仕事でその日その日をしのぎ、ここ最近は何も食べない日すらある始末だ。


そんな失意しついのどん底にあった阿部が足を引きずるように堀川通りを歩いていると、四条を少し過ぎた貞安前ていあんまえ町あたりで見覚えのある青年とすれ違った。

が、空腹で頭の回らない阿部にはなかなか誰だったか思い出せない。

それが三条大橋の近くで会った沖田とかいう浪人だと気づいたのは、すれ違ってしばらく過ぎてからだった。

「あ、たしかあいつも浪士組だ!」

阿部が背筋せすじをのばして振り返ったとき、なぜか向こうからその沖田が早足はやあしで引き返してきた。


「阿部さん阿部さん阿部さん!阿部さんですよね?!」

沖田は阿部の両肩をつかんでゆさぶった。

「え?え?え?なになになに?!」

「一生のお願いがあるんです!浪士組の屯所とんしょに行って、コレを島田ってひとに渡してください」

阿部は小さな紙切れを無理やりにぎらされた。

聞き覚えのあるその名前に阿部は思わず反応した。

「島田!顔は知らんがあの島田か?」

「…いや、なに言ってんだか分かんないけど、多分その島田です。頼みましたよ!頼みましたからね!」

沖田は何度も阿部を指さしながら、また小走りに去っていく。

「あ、おい!」

と、すがるように上げた片手を見てから、阿部はしばし考えた。

「…ま、一度くらい島田ってヤツの顔をおがんどくのも悪くないか。どーせヒマだし、上手くいきゃまた金を貸してくれるかもしれん」


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