敗残の兵は語る 其之壱
その朝、石井秩は娘の手を引いて、壬生村の綾小路通りを歩いていた。
二人がちょうど坊城通りに交わる辻へ差し掛かったとき、壬生寺の鐘が朝の五つ(8:00am)を知らせた。
「おかあはん、お寺はあっちえ?」
娘の雪が足を踏んばって母を引きとめ、鐘の音が聞こえる方を指さした。
「狂言を見にいくのはお昼から。今日は夕方まで帰って来れないんだから、先に御用を済ませとかなきゃ」
秩は微笑んで、雪とつないだ手を小さく振った。
「おさかな買いにいくん?」
「そうね」
二人は今晩の献立を道々相談しながら、軽い足取りで歩いていく。
秩はついさっき通り過ぎた農家の納屋に、まさかあの沖田総司が潜んでいたことなど考えもつかなかったにちがいない。
その沖田総司は意外なところで二人を見かけて、すっかり動揺していた。
気の早い雪は髪を銀杏髷もどきに結ってもらい、藤色の無地のよそゆきを着ている。
あんなことがあった後で、招待した沖田に恥をかかせてはいけないという秩の気遣いが感じられた。
飛び出していって事情を説明したい衝動にかられたが、もちろん、そんなことは出来ない。
沖田はふと思い立って、張り込みの相棒にたずねた。
「粕谷さん、矢立を持っていませんか」
矢立というのは、小さな硯と筆をまとめたような携帯用の筆記用具だ。
「あるにはあるが…こんなもの何に使う」
粕谷は腰に差していた矢立を差し出しながら、怪訝な顔をした。
「すみません。ちょっと借ります」
武骨者ぞろいの試衛館の連中では、まず筆記用具など持ち歩いているはずもなかったから、この時ばかりはインテリの元水戸藩士が一緒でよかったと沖田は天に感謝した。
彼は懐紙を取り出すと、そこになにやら石井秩と雪にかかわる伝言を急いで書き付けた。
一方で油断なく中村邸の門を見張りながら、頭の片隅では「しかしこれを誰にどうやって渡したものか」と算段していたとき。
「殿内だ」
粕谷新五郎がするどくささやいた。
殿内義雄の顔をよく覚えていない沖田総司は、門から出てきた体格のいい男を見てあれがそうかと思った。
殿内は、沖田たちが身を隠している納屋とは反対のほうに折れて歩いていく。
「狂言に顔を出すには時間が早いな。それに家里次郎が一緒じゃない」
粕谷は殿内の背中を目で追いながらつぶやく。
しかし沖田をドキリとさせたのは別のことだった。
「あの荷物は?」
殿内は振り分けの籠を肩にかけ、大きめの風呂敷包みを手にしている。
「旅支度のようだな」
本当はそんなことを聞くまでもなく沖田にも分かっていた。
しかし、その意味するところは重大だ。
どうやら覚悟を決めねばならないようだと沖田は表情を引き締めた。
「もう少し様子をみよう。いずれにせよ、ここでは少々人目につきすぎる。後をつけて機会をまつしかあるまい」
粕谷は場なれた様子で、冷静に対応策を練った。
本当はこのまま沖田たちの動静を追いかけたいところだが、その前にある浪人の近況に触れておかねばならない。
毎度おなじみ、阿部慎蔵である。
このところの阿部は、とうとう自分の運も底をついたのではないかと想い悩んでいた。
食い逃げの現行犯で捕まり、見知らぬ大男に投げ飛ばされたあの日、目が覚めると彼は誰もいない座敷にひとり取り残されていた。
そして、料亭の女中から浪士組の島田という男が代金を立て替えてくれたことを聞かされ、自分より十近くも若いその女中に懇々と諭されたのち、ようやく釈放されたのだった。
「畜生!あんな連中から施しを受けるとは。おのれ、島田とやら!」
と、すじ違いも甚だしく息巻いていられたのは、ほんの数日である。
丸腰の文無しで町に放り出された彼には、もはや大坂へ帰る術もなかった。
ふたたび人足仕事でその日その日をしのぎ、ここ最近は何も食べない日すらある始末だ。
そんな失意のどん底にあった阿部が足を引きずるように堀川通りを歩いていると、四条を少し過ぎた貞安前町あたりで見覚えのある青年とすれ違った。
が、空腹で頭の回らない阿部にはなかなか誰だったか思い出せない。
それが三条大橋の近くで会った沖田とかいう浪人だと気づいたのは、すれ違ってしばらく過ぎてからだった。
「あ、たしかあいつも浪士組だ!」
阿部が背筋をのばして振り返ったとき、なぜか向こうからその沖田が早足で引き返してきた。
「阿部さん阿部さん阿部さん!阿部さんですよね?!」
沖田は阿部の両肩をつかんでゆさぶった。
「え?え?え?なになになに?!」
「一生のお願いがあるんです!浪士組の屯所に行って、コレを島田ってひとに渡してください」
阿部は小さな紙切れを無理やり握らされた。
聞き覚えのあるその名前に阿部は思わず反応した。
「島田!顔は知らんがあの島田か?」
「…いや、なに言ってんだか分かんないけど、多分その島田です。頼みましたよ!頼みましたからね!」
沖田は何度も阿部を指さしながら、また小走りに去っていく。
「あ、おい!」
と、すがるように上げた片手を見てから、阿部はしばし考えた。
「…ま、一度くらい島田って奴の顔を拝んどくのも悪くないか。どーせヒマだし、上手くいきゃまた金を貸してくれるかもしれん」




