別離 其之壱
文久三年三月十三日。
この日、壬生村は、まだ夜も明けきらぬ内から大変な騒ぎだった。
いよいよ浪士組の本隊が、江戸へ向けて引き揚げてゆくのだ。
宿舎に当てられていた家々では、慌ただしく旅支度をする浪士たちでごった返している。
ただし、京で浪士組を受け入れていた壬生郷士の重鎮、八木源之丞の邸宅だけは、少し事情がちがっていた。
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!」
この家で早朝から慌てふためいて廊下を行ったり来たりしていたのは、浪士ではなく、ほかならぬ主人の源之丞だった。
「今度はどないしたんどす?こんな朝早ように」
あまりの騒がしさに、勝手場で朝食の準備に追われていた妻の八木雅が、前掛けで手を拭いながら姿を現した。
しかし、源之丞には問いかけられた言葉の意味も頭に入ってこないない様子で、
ただ 「えらいこっちゃ、雅、近藤はんは?」とちぐはぐな返事をしてウロウロするばかりだ。
「お見送りとかで出掛けたはります」
雅は噛み合わない会話にイライラしながら応えた。
源之丞は面倒くさそうに手を払う仕草で、
「ほんなら芹沢はんは?」
と、まるで雅を責めるように問い直した。
「近藤はんとご一緒どしたなあ?」
「ほんなら、山南はんでも、土方はんでも、新見はんでもええわ!誰かおらへんのかいな!」
「皆さん、ご一緒やった思いますえ?」
源之丞は後頭部を掻きむしって、この家にいる浪士たちの顔を一人ひとり思い浮かべていったが、やがて手を打って妻に向きなおった。
「そや!沖田はんが居ったやろ?さっき厠へ行ったとき、玄関の前でなんや猫に話しかけとんの見かけたで?」
「猫と?あれも見目は麗しいけど、なんやよう解らんお人どすなあ。い~っつもフラフラして、ひと処にジッとしてはらへんし。早よ行かな、またどっか行ってしまいますえ」
「ホンマになんやねん、おかしな奴ばっかり…」
源之丞はボヤキながら玄関の方へ歩いていった。
近藤、芹沢ら京に残る隊士たちは、まだ肌寒い早朝から、浪士組三番隊の宿舎である中村小藤太という郷士の屋敷に出かけていた。
江戸へ帰る仲間を見送るためである。
三番組というのは、水戸一派の芹沢鴨と新見錦が小頭をつとめ江戸から率いてきた部隊で、その中には近藤勇が道場主をつとめる試衛館の面々も含まれている。
沖田総司だけが彼らに同行しなかったが、もちろん、いつまでも猫と話し込んでいた訳ではなかった。
そのころ、沖田は中沢良之助を訪ねて、六番組の宿舎、浜崎新三郎宅の門前に立っていた。
彼もやはり、旧友に別れの挨拶を述べにきたのである。
沖田は玄関先で浪士たちの履物を揃えていた女性に案内を請おうと声をかけた。
「すみません、こんな朝早く」
しかし、振り返った女性を見て、沖田は固まってしまった。
そこにいたのは、壬生寺で数回顔を合わせたことのある、あの石井秩だったからだ。
「沖田さん」
秩の方も意外そうに小さく目を見開いたが、すぐに姿勢を正して、
「おはようございます」
と丁寧なお辞儀をした。
「あ、おはようございます…あれ?なんで…?」
思わぬところで秩に再会した驚きで、沖田は一瞬本来の用件を忘れてしまった。
しかし、門柱に掲げられた「医療手当所」の看板を見てようやく納得した。
「そうか、中沢さんたちの宿舎が、お秩さんの職場だったんですね」
「え?ええ、はい。ここに住み込みで働かせてもらっています。べつに隠していたわけではないんですけど」
この家の主、浜崎新三郎は妻の徳とともに医術を生業としており、
石井秩は夫妻の養女という扱いでこの家に同居して助手を勤めていた。
今でいう看護師である。
のち、この診療所は、新選組が屯所を構える八木邸と近かったこともあって、ケガが耐えない隊士たちの掛かりつけとなった。
「なるほどね…。お雪ちゃんを職場に近づけなかったのはそういう訳か。だからいつも外で遊ばせてたんだ」
その口調にはどこか責めるような響きがあった。
「私はべつに…」
「いいですよ。気を使わなくても」
口ごもる秩へ追い討ちをかけるように、沖田は剣のある言葉を浴びせた。
秩はどういう顔をしてよいのか分からず、俯いてしまった。
それを見て少し言いすぎたと反省したのか、沖田はぎこちない笑顔をつくると、本来の用件を切り出した。
「そうだ、中沢さんはいますか。中沢良之助さん」
「あ、中沢様でしたら、もう新徳寺の方に出かけられましたよ?」
秩が気不味そうに答えると、沖田は首を捻って、いま来た道を振り返った。
ここから新徳寺に向かったなら、途中で顔を合わせるはずなのだ。
「おかしいなあ、どこですれ違ったんだろ?ありがとう、行ってみます」
急いで引き返そうとする沖田を、秩は呼び止めた。
「あの!沖田さん!」
「はい?」
「昨日は、わたし感情的になって、あなたにずいぶん酷いことを言ってしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭をさげる秩を見て、沖田の胸につかえていたわだかまりは霧散してしまった。
「もう気にしてませんよ」
お雪を宿舎から遠ざけた件は、中沢良之助らを侮辱された気がして少しムッとしたものの、娘を心配する親の気持ちは理解できる。
それに、秩が昨日言ったことはすべて事実だった。
沖田はこの都における自分の立場を改めて思い知らされて戸惑ったが、別にそのことで腹を立ててはいなかった。
秩は頭の良い女性だったので、そうした沖田の心の動きを察したのか、少し悲しげに微笑んだ。
「もし良かったら、また娘と遊んでやって下さい」
「まかせて下さい。悪い虫がつかないように見張ってますから」
「はい」
秩が小さくうなずく。
「けど、どうして急に気が変わったんです?」
沖田は軽く首を傾げて見せた。
秩は頬に手をやって、少し考えたのち、まっすぐに沖田の目を見て、潔く非を認めた。
「昨日、浪士組の方が暴漢に襲われている若い女の人を助けるのを見ました。沖田さんの仰る通りだったんです。みなさん、遠くからいらして、命の危険もかえりみず、都をお守りして下さってるというのに、何もしない私が非難めいたことを言うなんて、恥知らずなことでした」
沖田はその澄んだ瞳にしばらく見入っていたが、ふと我に返って面映そうに目を逸らした。
「ふうん、誰だろ?若い女の人を助けたんなら、永倉さんかな」




